かつて林業地はどんな姿だったのか?青梅林業を識る。
はじめに
今から約50年前、とある専門書が出版された。
タイトルは「都道府県別林業総覧」。出版されたのが1967年だから、もう半世紀も前の書籍だ。
この半世紀の間、日本は、世界は相当な進歩を遂げた。そして今VUCAの時代に突入したと言われる。
VUCAとは「Volatility(激動)」「Uncertainty(不確実性)」「Complexity(複雑性)」「Ambiguity(不透明性)」の頭文字をとったものである。日経新聞のリンクを載せておきます。
これだけ時代の変化が激しい時代に、半世紀も前、言ってしまえば化石のような書籍に焦点をあてるのはナンセンスに思われるかもしれない。
ただ、改めて思い出して欲しい。林業の最大の特徴とは、生産の長期性である。収穫にあたる主伐は、最短で30年といわれ、現在は50~60年となっている。
そうちょうど半世紀前なのだ。
半世紀前の林業の様相を知ることは、林業の今を知ることと同義だと、私は考える。
なぜなら、今、主伐期を迎えている、目の前に広がっている森林の大半は、半世紀前に諸先輩方が植えたりしてくれたからあるのだ。
書籍の話に戻そう。
この書籍は50年前の我が国の森林・林業を状況を24の観点から分析している。そして都道府県毎の章末に各都道府県の林業地について記述している。
このシリーズでは、その部分を引用もしくは参考にして書き進めていく。
そしてインタビュー企画では、その地域の今の話を聞こうと思う。なお、私は各林業地を渡り歩いた経験があり、その時のデータもしっかりとっている。不要不急の外出を控えよと言われても、半年分ぐらい問題ない。たぶん…。
かつての青梅林業
それではこの200年以上、最大消費地に最も近かった林業地の一つ、東京の青梅から始めようか。
青梅林業はかつて江戸が栄えていた頃には、江戸に足場丸太を供給していた。その供給方法は多摩川で他地域同様、筏で流していた。
青梅林業地は多摩川を中心とする青梅より西の地域及び、多摩川の支流で秋川流域にある五日市より西の地域の総称である。具体的には中心である青梅市、その他の奥多摩町、小菅村、日の出村、五日市町、檜原村が該当する。
いま聞くと相当な広範囲な地域を指しており、現在では各地の特色が表れているところが多数ある。
青梅林業の歴史の始まりは江戸からではない、一説には500年前から始まったとされている。ただ、明確に発展してきたのは江戸時代に突入してからで、江戸で火災が多発するようになり、木材需要が爆増してから加速度的に発展したとされている。
総森林面積の内90%以上は、スギ、ヒノキの人工林であり、上流域になれば広葉樹が生えていたそうだ。
生産体系化は、次の通り。
主伐期は30年から35年が最も多く、集約的な林業経営を行っていた。枝打ちは植林から7年経過したころから数回実施する。
無節の通直幹満な材が集中的に生産できたことから、足場丸太の生産に適しており、また江戸での需要が高いことが影響していた。
おわりに
かつては足場丸太の生産地として名を馳せていた青梅林業であったが、足場丸太が金属製品などに代替されることで、その生産量は低下し、衰退していった。しかし首都圏に近い立地条件は変わらずある。その地の利を活かす林業家が今青梅にいる。今度はその方を紹介できればなと思う。
読んでくださりありがとうございました。