かつて林業地はどんな姿だったのか?八溝林業を識る。
かつて林業はどんな姿だったのか?第3弾。
第一弾の青梅林業はこちらから。
第二弾の西川林業はこちらから。
どちらも首都圏に近い林業地だ。特に西川林業は立て木という”特殊”な施業を行う林業地で、今なおその施業方法を守っている林家も存在する。
ただどちらの林業地にも共通して言えるのは、現代の林業政策において軽視されている林業地でもある。理由は今後整理して書いていく。
現在の林業・木材産業の在り方は2007年~2010年に打ち出された「新生産システム」をきっかけに出現した大型製材工場により、大きく変容した。最近は「脱・国産材産地」というのも聞くようになった。
日本には大型製材工場が集中している地域が何カ所かある。北九州、東北、今回書く八溝林業がある北関東もその一つ。なぜ、集中している地域が存在するのか、まだ私にはわからない。土壌が良く良質材が取れるのかもしれない。開けた土地があるからかもしれない。はたまた海流がちょうどよく海運が発達しやすい地域なのかもしれない。
それではかつての八溝林業を見ていこう。
八溝林業は栃木県東北部に位置し、茨城県との県境に走る八溝山脈に沿った地域でもある。
地形は全体的に丘陵的な地形をしており、最も高い山が八溝山(1,022m)だ。土壌は林木の生育に適している埴土、埴壌土だ。
主な造林樹種はスギで、ついてヒノキだったそうだ。当時は、八溝林業の総森林面積3万2千㏊のうち約半分がスギ・ヒノキの針葉樹林であった。
このほかには大苗の使用傾向が高いという記述がある。たしかこの地域は現在でも育種が盛んであり、最近でも苗木工場が出来たという話も聞いたことがある。
「この紋所が目に入らぬか」のセリフで有名な水戸黄門。茨城県との県境に位置する八溝林業は水戸藩の影響を受けていた。
かつて水戸藩の藩主は、藩が管理する御立山の一部を模範林とし、有用樹種を植えるなど積極的に造林事業を行っていた。
明治の廃藩置県で所有形態が大きく変化しても植林の勢いは衰えなかったという。当時の美林はこの造林事業の賜物だったといえる。また国有林野特別経営事業の影響で植林本数が㏊あたり800~1500本だったものが、5000本まで植栽されているという。
今の森林がどうなっているものか気になるものだ。いまも残されているのであれば、さぞ美林が広がっているだろうから。
記述は以上となる。ここからは考察をしていく。
まず、八溝林業地は土壌地形ともに、林業に適していたといえるだろう。特に昨今の大規模化する林業・木材産業と相性が良いことがうかがえる。植林本数が多く、蓄積量が多いのも魅力的でもあったのかもしれない。
ただこれだけの情報では現在の状況を考察することは困難である。なぜなら、ほかの情報が不足しているからだ。今後は政策的な話も書いていこうと思うが、とりあえずはかつての林業地の姿を書いていく。
読んでくださりありがとうございました。