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かつて林業地はどんな姿だったのか?西川林業を識る。

はじめに

第二弾は立て木という独特な生産体系を持つ西川林業地。埼玉県西部に位置し、前回あげた、青梅林業地の尾根を挟んだ地域に西川林業地に広がる。名前の由来は「江戸の西の方の川から来る材」から来ている。青梅が多摩川を利用したように、西川は荒川を利用し筏で丸太を運材していた。

私にとってもイベントを開催したり、地元の人と飲んだりして、馴染み深い林業地のひとつだ。

だから、今の西川林業についてはある程度知っているはずだ、だがこのシリーズは50年前の様相を識ることが目的である。50年前に先人たちは西川林業をどうみつめ、課題意識をもっていたのだろうか。その一端を垣間見れれば幸いである。



かつての西川林業

西川林業の特徴として①主伐時に保存木「立て木」を残すこと、②江戸時代から分収林事業を展開していた。


これらの特徴を整理する前に西川林業の生産方法を振り返ろう。

≫伐期は30~35年で足場丸太を生産するのが基本であったが、各森林所有者ごとの事情が異なり50年まで伐期を延ばすことがあった。ただ、足場丸太を生産するために基本的に皆伐であった。

≫植栽本数は ㏊ あたり、4000本から5000本。化粧丸太の生産を目指したところは1万本を植栽した。

≫通直な材を生産するために、冬期のスギ起こしを丁寧に実施していた。具体的には3~5年は縄で、6~7年は針金で起こしていた。この行為が西川の林業の神髄が表している。つまり通直な材を生産することが、この地域における「撫育」であった。

≫このほかにも他地域に類を見ないほど、育林に投資していたとされる。下刈りは10年生までに15回実施するのが標準で、35年生になるまで枝打ちを4回実施していた。

≫植生した翌年もしくは、翌々年に植栽木の周囲の土壌を掘り返し、固めなおす「堀っかけ」を熱心な林業家は行っていた。


つまり、今広がっている約70年生以上前の森林は、とても丁寧に育林した林分が多く存在する可能性があることが推察される。

まさしく”撫育”であった。

①立て木とは、皆伐時に ㏊ あたり優良木を15本程度残し、次世代にバトンをパスする。”山は貯金箱”という言葉があるが、立て木はまさにそうだと思う。親が子を思い、なにかあった時のための資産である。

②は短伐期であり、消費地に近かったのが最大の要因であったのだろう。つまり、かつての吉野林業が築いた投資林業が遷都によって実現していた。


おわりに

私が知っていた以上に、西川林業は育林に投資していたことが分かった。その投資された森林を有効活用するのが課題であるが、ここでも首都圏に近いというのがヒントになりそうだ。今度は次世代の西川林業の担い手の方にインタビューできればなと思う。兵庫にいきますか。

本日はここまで。

読んでくださりありがとうございました。

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