かつて林業地はどんな姿だったのか?鳴子林業を識る。
林業地のかつてを50年前に刊行された「都道府県別林業総覧」を通して様相を識る、本シリーズも第4弾。はじめた理由は第1弾を読んでほしい。
今回はまだ一度も行ったことがないが、次の記事を読んで興味が湧いた宮城県の鳴子林業について書いていく。(記事内容は割愛。)
この鳴子という地域、奥州三名湯の一つで東北地方の温泉では有名な地域になる。林業と温泉好きな私としてはぜひとも一度行ってみたい土地だ。
余談になるが、私が行ったことがある林業と温泉が有名な土地は和歌山県の龍神村、奈良県の天川村などがあるが、それらの温泉に入ったことがない。毎度山の人と話をしていたら、いつの間にか温泉施設が閉店している。不思議なものである。どうしたものか。
鳴子林業の話に戻そう。
鳴子林業は宮城県北西部に位置し、奥羽山脈を挟み北は秋田、西は山形との県境に接する地域になる。
この地域は東北の背骨である奥羽山脈のふもとにあり、四方を連山で囲まれている。そのためか雨量が年平均2,000㎜に達し、冬季は積雪が2m以上に達するなど、水に恵まれている地域ともいえる。
林木の成長に有利、特にスギの生育には土壌条件含め好条件な土地になる。
その証拠にこの地域の森林総面積2万9千㏊のうちの32%(9,300㏊)民有林で、そのうちの57%針葉樹林の80%はスギになる。つまり民有人工林の大半はスギ林となる。
どうしてこのようなスギ林が形成されていったのか、自然条件が良いだけでは決してこうはならない。そこには必ず人の選択がある。
鳴子林業のはじまりは、明治後期に一部の篤林家がスギの植林を開始したところ、その自然条件の良さから成功した。そこで成功した人達、特に50㏊以上の大規模山林所有者を中心に拡大し、鳴子林業を形成する。
ただ刊行当時有名になったのは、戦前の遺産である林分があったからではない。もともとこの地域は薪炭が有名であった。しかし、化石燃料との登場とともに、薪炭需要は減少していった。一方で建築用材として針葉樹需要は高まってく時代に突入する。
第二次世界大戦を経験したからといって、自然条件が変わることはそこまでない。鳴子林業は持ち前の自然条件の良さを活かし、尾根まで植林を進めるほどの林業地となった。
そして当時の主な齢級構成はⅢ齢級が68%を占めることから戦後の林業地と示される。
※1齢級が5年生を指す。
主な伐期は35年生より高いそうだ。寒冷な土地であったため、生育が遅いことが影響されると思われる。つまり、目細な材が生産されていたことが想像できる。
ただ、自然環境が良いだけでは、林業地として成立しない。消費地が近隣になければならない。鳴子林業はこの条件もクリアしていた。仙台という都市圏があったからだ。当時は地元の製材所に販売していたが、次第に仙台に運送している記述もある。
「従来よりこの地方では『スギ1本売れば全国行脚ができる』という人もあり、林業経営に関する関心は深い。」との記述があるように良材の産地であったことがうかがえる。そしてその材が高く取引されていたことも。であるならば仙台で材木業をやられている方々も好調だったのだろう。
なにはともあれ、スギ一本で全国行脚が出来るのであれば、私の旅も容易になる。ぜひともそのような時代をつくっていきたい。
読んでくださりありがとうございました。