かつて林業地はどんな姿だったのか?粟倉林業を識る。
久々の投稿になる。火曜日以降は仕事と WEB 飲み会で時間がほとんどとれなかった。ただ多くの気づきが得られたので、言語化していこうと思う。
GW 中は note と企画書作成を頑張りたい。
さていつもより早いが本題にはいる。
本日は岡山県の粟倉林業のかつての姿を、今回も「都道府県別林業総覧」を通してみていこうと思う。
粟倉林業は鳥取県との県境に位置し、鳥取県の智頭林業の隣接地になる。智頭林業は以前取り上げたが、特徴的な林業地であった。
粟倉林業はいまでいうと西粟倉村周辺の林業地になる。西粟倉村といえば、ローカルベンチャーの聖地だ、地域活性化に興味ある方だったら一度は訪れたことがあるのではないか。ほかにも森林経営管理制度のモデルにもなったそうだ。
もちろん、私も一度訪ねたことがある。ただその時の印象になるが、特別なにか森林が特徴的だったという記憶はない。ただ、移住者の方々を中心にとっても活発的な方が多かった印象がある。
だから、粟倉林業は近年になって注目された林業地であり、新興の林業地と私は今まで思っていたが、どうやらそうではないようだ。
この地も林業地として条件は満たしている、土壌条件が良く、水運が発達していることだ。スギ、ヒノキの適地になる。
昔からこの地域は大自然林を形成し、筏を組み岡山へ流通させていた。天然木を伐採流通させていたが、明治10年になると智頭林業から刺激をうけ、植林を開始し人工林を育成する。
もちろん、植林方法は智頭林業と同様に赤挿植栽になる。赤挿植栽とは、天然老齢木から採った枝を苗木にする方法で、智頭町葦津林からとっていたのがはじまりになるそうだ。
育林方法も智頭林業に近く、地拵えは全刈りから火入れを行い、木場作でダイコンやソバを育ていた。(木場作とは、森林で行う焼畑のことで、主に東北地方で行われていた。現在だと山形県の温海森林組合がかぶを栽培しているのが有名になる。)
植林が本格化してからは地杉を利用していたが、70年ほど前から乱伐が激しくなり、地杉の底がつき、利用できなくなる時代にはいる。
植栽本数は一時期5000本植栽していたが、3000本から3600に落ち着き、伐期はスギで40~50年、ヒノキで50~60年で建築用材を生産していた。ただ当時小丸太の需要が急増しており、伐期が5年ほど短縮されたそうだ。
明治33年に西粟倉村の村長に就任した神原伝右衛門氏は、村民の反対を押し切り、村有林183㏊のスギ、ヒノキを植林している。時がながれ、その村有林が半世紀前の村財政の宝庫となっていた。この財源を原資として公民館や小中学校の設立などをおこなった。
神原村長の愛林思想はいまなお引き継がれているそうだ。
ローカルベンチャーの聖地の西粟倉村は、かつてより愛林思想が深い地域であった。今この地が発展しているのは、この思想があったかもしれない。
本日も読んでくださりありがとうございました。