見出し画像

その優しさは誰のため?

近隣の猫問題で心落ち着かない日々を過ごしている。

そもそも猫の多頭飼育を「マイペース」で行っている人の存在が火種である。だが、近隣住民の中に、火に油を注ぐことに熱心な人がいることも大いに問題だ。

問題を大きくすることに躍起になる人は、おそらく暇人(ひまじん)なのだろう。

自分が暇だから、他の人も暇そうに見える。人生の全てが暇つぶしという名のお節介で成り立っている。他愛のない世間話で盛り上がるくらいなら可愛いもの。だが、お節介の延長線上に、猫の飼育を外で行う人への非難集めがあるとしたら、それはトラブルのもとだ。

もっとも、そもそもは猫の多頭飼育(厳密には10頭未満なので、法的な報告義務がある多頭飼育ではない)を行っているにも関わらず、猫を室内に留める努力をされていないことが問題である。

それは間違いない事実ではあるが、ある日突然、猫を室内に閉じ込めて上手くいくはずがない。

猫には猫の都合がある。



猫飼育の経験と知識がある私が間に入り、アレヤコレヤと世話をやいている現状。猫を室内飼いにして欲しいとは思うが、過去、2匹しか近隣に居なかった頃には、大した問題ではなかったのだ。それを急に問題視するには、猫そのものと関係ないことがトラブルの火種ではないかとさえ思う。

猫のことで世話をやいていると、「あなたはどちらの味方なのか」と疑念を抱く人さえいる。

私はどちらの味方ではない。

猫の味方だ。

猫の味方であるという言葉は、猫を飼育している側の味方なのだなと解釈されることもあるが、決してそうではない。全ての猫を自分の猫と言い放ち、猫に関する決定権を主張され、嫌な思いをしていることも確か。私は、どちらかというと迷惑を被っている側のほうなのだ。



猫の問題では、誰もが優しさを振りかざす。

猫を飼育している人は、猫への優しさだという。猫の問題を掘り起こしている暇人は、近隣の平安を思いやってのことだという。私が猫のことを思って口出しすることも、優しさの形であるはずだ。

多頭飼育の当人には、猫数匹を里子に出すことを提案し続けているが、なかなか心は動かないよう。猫への優しさというよりは、「多くの猫を引き受けている」優しい自分に酔っているのかもしれないとさえ思うのだが。

実際、私自身にもそういうところがあるかもしれないとさえ思う。

こういうことは、どの立ち位置で物事を見るかによってジャッジが大きく変わっていく。それを認識しながら、各人の思惑を超えて、猫たちの命を大切にすることが優先でなければと私は考える。

どういう決着になるのか?

先行きは不透明であるが。

近隣の猫問題に取り組んでいきたい。

「その優しさは誰のため?」なのかと自らに問い続けながら。