成熟の分岐点
人と同じことをしていれば無難。
こういう考え方が日本人の意識の中に定着していると感じるのは私だけではないだろう。
自分自身が「人と同じ」であることを好むかどうかは別として、多数派の人が「右に倣え」に安心感を求めていることは否定しないはずだ。
けれども、その選択や行動は本当に同じなのだろうか?
基本的に「人と同じ」というのは幻想で、他人と同じでなんていられるはずがないと私は思う。
だいたいの同じというあたりにぼんやりとしたグループのようなものを想定して「同じグループ内にいます」ということを「同じ」として、自分は無難な選択をしたと勝手に安心する。
それが現実だと。
「同じ」というグループの範囲は個人差がある。例えば、ある人は平面的に考えるし、ある人は立体的に考えたりするといった違いがあるだろう。あるいは、同じということを限りなく小さい枠で捉えようとする人もいれば、だいたい同じという大枠で捉えようとする人もいる。
そんな曖昧な「同じ」であるから、みなと同じで自分はノーマルと思った選択が、案外、グループから外れてしまっていることも多々ありうるのだ。
そういう経験を重ねて、人と同じ選択が不可能であることに気づいたところに人としての「成熟の分かれ道」があるように思う。
コミュニケーションと銘打って「同じグループ」の打診、根回し、詮索、と周りの意向を推し量るのに力を注ぐ人。
同じという幻想を手放して、「好きなように生きる」と腹を括って自分の正面だけを見据える人。
そして、その二つの分かれ道を行きつ戻りつで進めなくなる人。
おおよそ、そんな選択肢で道が分かれていく。
だが、こういう成熟の分岐点において、どれが正解ということはない。
成熟の道のりが複数あるだけなのだ。
行きつ戻りつで進めなかったとしても、そこから意を決して「腹を括る生き方」を選ぶ人もいていいし、コミュニケーションのスキルを磨いて人間関係の荒波に揉まれる生き方を選んでもよい。
行きつ戻りつしながら、永遠に自問を繰り返すことも「進む」形であるし、精神の鍛練につながり、結果として成熟していくはずだから。
漂いながら、行きつ戻りつ、エンドレスな成熟の過程を進んでいくのみだ。
成熟のためには、諦めないこと。
諦めないためには、成熟の分岐点を意識して、俯瞰すること。
今の自分がどこにいるのかを確かめて。
さあ、次の一歩を進めてみよう。