まだらの芝生に自分を重ねて
今季初、芝生に初めての散水をした。
芝生の散水は、とても奥が深いときく。一人前なるには10年くらいかかるのだとか。
私の場合、散水の前に雑草を抜くようにしている。そのタイミングで土の湿り気具合を肌で確かめるのだ。
抜きにくいタイプの雑草があれば、散水後に抜くことを前提に、ひとまず芝生全体の表面に触れていく。
土の湿り具合は、日の当たる場所であるとか、根の張り具合にもよる。理由はハッキリと判らないことも多い。だが確かにいえることは「均一ではない」ということ。
その事実は私を慰める。
均一さは美しい芝生の基準といってもよい。美しい均一さを作り出すために、不均一なものに不均一な手間をかけている。その事実は、なぜか私の救いになるのだ。
まだら(=斑)な模様を表面に描きつつ育っていく芝生たち。
それらの様子を丁寧に観察する。そして「適宜」手間と時間をかけて育てていくのだ。
生育が遅れている部分があれば、根切りの道具で排水を促したり、肥やしの種類を他と変えてみたり、散水の量やタイミングの試行錯誤を重ねる。
試行錯誤が功を奏せば、まだらの時期を通過点として、夏には青々とした美しい芝生に育つはず。
その未来を「信じる気持ち」が毎日のモチベーション。
まだ生育の途中だから。
まだ未来があるから。
もしも、ここで地球が終わるなら、この芝生は永遠にまだらな状態。
永遠に未完のまま。
けれども、今日と同じ明日が続くと信じるから。
保証はないれど「今日と同じ明日」が来ると信じているから。
自分という人間の歪(いびつ)さを「まだらの芝生」に重ねて。