![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/64889867/rectangle_large_type_2_2c1fc692856697e786cfd683fcc994dc.jpg?width=1200)
思考のピントを意識した「言葉」の選び方
こんなことを言わなくてもいいだろう。黙っていても相手はわかってくれるはず。そういう言い訳を並べたて言葉にすることを躊躇うことがある。内面の弱さゆえだろう。
一方で、こんなことを言うと相手に失礼だろう。敢えて言葉にしない関係を相手は望まれているはず。相手のプライドを傷つけないよう配慮して、言葉にしないこともある。
言葉を発しない理由は、どちらの可能性もある。
同様に、言葉を発する理由は、自分にあることもあるし、相手にあることもある。
だから実際の理由は早計に決めることはできないが、言葉を選ぶ基準の実際は、「どちら」なのだろうか、あるいは「どちらとも」なのだろうか。
◇
人と関わるとき「思考のピント」をどこに合わせるかで、見える景色は違う。
それはどういう状況だろうか。
写真を撮るときに置き換えて考えてみよう。
花の写真を撮ろうとして、思わぬところにピントが合ってしまうことがある。
花に焦点を合わせたつもりが、葉にピントが合ってしまうことがある。本来の意図からすると、それはピントが外れた景色ということになる。
要するに失敗だ。
しかしながら、ピントが外れたことにより「葉脈の美しさ」に気づかされることもある。
デジタル画像ゆえの気楽な感覚と言われればそれまでだが、失敗から見える景色に価値を見いだせるなら、失敗も価値ある体験と思えるだろう。
◇
言葉を選ぶときも写真のときと同様でよいと思えないだろうか。
予めの意思を持ち、ピントの狙いを定める。けれども、ピントが思った通りに合うかどうかに拘りすぎなくてもよいのだ。
たまたまピントが合ったことを「意義のあること」として捉え、映る景色を観察すると、言葉選びが案外楽になるかもしれない。
うっかりズレたピントが、無意識下の自分の心を映している可能性もあるからだ。