春の記憶。理想の最期について
ここ数日、自分の中に「日常」が戻ってきたような気がする。
春の記憶が戻ってきているからだ。
引越しした直後、仕事と確定申告でテンパっていた2月下旬。父が緊急入院した知らせを聞き、寝ずに仕上げた申告書を提出して、実家に向かったあたりから、私の生活に「日常」はなくなっていた。
表向きには「平静を装った」ことも災いしている。「自分の病気のことは誰にもいうな」という父の願いを聞き入れたためだ。
なぜ、父は病気のことを明かしたくなかったのか?
それは、自分が自分らしく死ぬために、自分らしい生き方を貫きたかったからだ。
近親者以外には病のことを知らせず、入院したことも周りには伏せ、「仕事で世の中の役に立ちたい」という情熱を維持したまま、生涯現役を貫いた。
病気のことを伏せるのは大変であったが、父にとっての望みうる最高の最期を迎えられたので、その大変さが報われた気持ちでいる。
◇自宅で死ぬ。
◇翌日にも仕事の予定が入っている状態で死ぬ。
◇妻に見守られながら、あっさりとこの世を去る。
◇臨終のときに機械には繋がれていたくない。
父の希望は全て叶った。
息を引き取った日にも、自分の足でトイレに行って、口からご飯を食べて、水も自力で飲むことができていた。
食欲がないから今夜のご飯は食べられないかもしれないけど、ちょっと横になったら食べられるかもなぁ……と話して横になった。それから30分ほどで急逝。
父はなぜ理想の最期を迎えられたのだろうか?
幸運もあるだろうが、幸運だっただけではない。そこにたどり着くまでには父の「強い意志」があったのは間違いない。
父には「このような死に方をしたい」という確固たる希望とそれを叶えるための強い意志があった。
その意志を尊重して私たちは協力した。ただそれだけなのだ。
理想の最期を考えるのは本人であるし、その理想を叶えてあげられるかどうかは、周りの人間の「器」も必要だろう。
もちろん「本人の意志」が全てに先行する。
家族が望むような医療を受け、残された家族が少しでも気が楽になるようにしてあげたいという患者自身の思いがあるなら、それが本人の意志。
自分が好きなように死にたいと思うなら、それが本人の意志。
正解がないのではなく、全てが正解なのだ。
春の記憶が戻ってきている今、2月の緊急入院時に、医師から聞いた話が蘇る。
この先に起きうることを整理して説明された。父の希望を確認し「本人は、このようにいっていますが、ご家族はそれでいいんですか?」と聞かれた。
医師の問いかけに対して、母の言葉、私の言葉が折り重なるようにきれいな光に包まれていき、父と医師、双方の表情が明るくなった情景が浮かぶ。
あぁ、本当にこれでよかったんだな。
父が亡くなった今、そう思える私はとても幸せな遺族だ。
理想の最期。それを実現することは難しいことかもしれないが、できないことではない。
全てが正解である。その視点で道を選べるなら実現はできる。
私はそう思う。