こころ正しくあれば願は叶う
人生の選択に正解がないとはいえ、私は、周りに合わせることを好まず「腹をくくった」生き方をしてきた。
自分の努力でなんとかできることは自力でなんとかした。
うまくいかなくても「自分で選んだことだから」と思えば結果にも納得できると言い聞かせたかったからだ。
けれども、30代半ばに思いがけない試練に遭う。
「命以外の全てを捨てる覚悟を持てば、まだ助かる道はあります。」
と医師に言われた。
そのときの記憶は定かではないが、その言葉と、涙がこぼれていくのを止められない自分だけが記憶に残っている。
それまでの私は好きなことに夢中になって生きていた。
「好きなことのためになら死ねる」と言いきり、命がけで生きていることを誇りに思っている自分であった。
けれども、「命以外の全てを捨てれば」という現実を前に、命が惜しくて仕方なくなり、命以外の全てを捨てた。
何かも捨てた。そのおかげで「生きて今」ここに在る。
その病に罹るまで、限りなく自由に生きていたと思う。
そのため、死に至る病に侵されたことは、それまでの傲慢さの「報い」なのだろうかと自分を責め続けた。
けれども、過ぎた時間を悔やんでも何も始まらないと気を取り直し、治療が終息に向かった頃、誠実に今後のことを考えた。
これからの私は、どういう生き方を選べばよいのかと。
一旦、「我(が)」を捨て、他に尽くす人生を生きてみた。
でも、うまくいかなかった。私の本質に背いてしまったからだと思う。
では、どうしたらよいのか?
他に尽くす性分ではない自分が、我を通しながら、かつ、傲慢に生きないという選択はどのようにしたら達成できるのかと。
好きなように選べるというのは、自由なようで、とても危険を孕(はら)んでいる。それを知った自分は「何でも好きなように選んでよい」ということではないと心得て、自分の生きる指針を模索した。
そして、たどり着いた答えが「こころ正しくあれば願いは叶う」であった。
自分が選ぼうとしている「選択」が、誰かを陥れようとするものではないこと。誰かを見返してやろうという虚栄に基づいているものではないこと。それが肝心なのだと。
こころ正しくいる私が、その選択をするのならばよいのだ。
周りの顔色をうかがわずに、自分の選択が「是か非か」を判断したいとき、そっと唱える「こころ正しくあれば願いは叶う」と。
この道は拓けると信じて、自分の足で自分の道を行こう。
それが「自分の人生を生きる」ということだと思うから。