尊重や平等とは「友だち」と呼べる関わりを求ること
尊重や平等の権利といった表現になるとしても、それを具体的にではどうしたらという話が必要だと思う。
一言でいうなら「友情」を求めているだけなのだ。
「男友だち」や「女友だち」というと、男女の関係が選択肢にあるかのような印象を受けることも多い。
だが男女同権で求めるのは、「男友だち」というよりは「友だち(男)」といった感覚だ。
日常的にはシンプルに「友だち」と呼べる関わりを求めているのだ。
フェミニストは噛みついているのか?
私は、多様な性を認めないわけではない。だが、ここでは說明の都合で、便宜上男女という二つの性として話を進めていく。
私は、男女同権を求める気持ちを持ちながらも、フェミニストと自称する人たちとの違いを感じてきた。
いわゆるフェミニストという人たちは、「男女不平等」と思われる状況を逐次掘り起こし、噛みついていく傾向があるといわれている。私も、それに近い印象を持っているが、彼女らは、必ずしも噛みついているとは思わない。
適切な指摘の方法を知らぬまま、男女不平等と感じる状況を羅列していくため、多数の人に共感を得ることが難しくなってしまうと思うこともあるのだろうと思う。
a friend in need is a friend indeed
そのような状況を見て、私自身の内面を省みて、気づいたのだ。
結局のところ、友だちになりたいだけではないかと。
一般的なフェミニストらの発言と私の意見とを擦り合わせ、合理的に、かつ、多角的な配慮をした上で実践的な要求にするなら、友情を育める対象として認知して欲しいということ。
下僕ではなく対等な人として、友情を育める知性ある存在として認めて欲しいのだ。
使いっ走りの便利屋ではなく、真の友としての友情。
「a friend in need is a friend indeed」という関わりを求めているのだ。
男女同権を行動に移すとは
女性にとっての「友だち(男)」と男性にとっての「友だち(女)」の間に成立する友情は、男女の違いを認識しながら、互いのよいところを引き出しあう関係を想定している。
性的な魅力ではなく内面の魅力で惹かれ合う男女とでもいうだろうか。人格な面白味に一目を置いたり、社会的な地位に尊敬の念を抱いたり、秀でた能力を羨望の眼差しで見たりする。
このような関わりのある男女には「友情」が成り立つと思いたい。そういうことが、私の求める男女同権の姿なのだ。
男性目線での査定項目による弊害
一般的なフェミニストが噛みつく状況下では、男性から見た女性は、性的な対象と見るかどうか、結婚の対象と思えるかどうか、子どもを産んでもらいたいかどうか、査定の項目が「女性」限定の適用だ。
これらの査定項目は、異性愛者の男性は男性に対して適用することは、滅多にないということ。
「女性」限定で適応される「査定項目」で振り落とされた人は、事務能力やコミュニケーション能力という「査定項目」で選別されていくことになるが、「男女の性差に関係ない能力」であっても、「女性ならでは」という言葉をつけらて評価基準が生み出されていく。このとき「ジェンダー」という社会的性差による差別という問題が生じていくと私は理解している。
友だちと呼べる関係とはどのようなものか
細かい分析は専門家に任せるとするが、男女不平等感に頭を抱えながら生きてきた一女性として思うことは、とどのつまり、友だち(男)が欲しいということだ。
例えば、「私の笑顔」で、とある男性が癒されることがあるとして。癒されるのは、「女性の笑顔」だからではなく、苦しい人生を昇華した「命の輝き」だからだと感じる男性がいると信じたいということ。そして、そういう男性がいたら、「友だち(男)」として友情を育みたいのだ。
あるいは、「私の料理の腕」を、必要とする男性がいたとして。求められるのは、「女性ならではの能力」を必要とするのではなく、「努力の積み重ねにより獲得した能力」として必要とする男性がいると考えたいということでもある。この場合、料理は女性という性に付属する能力ではないことが肝心なのだ。
シンプルな友情 vs. 異性を意識した友情
女性にとっての「友だち(男)」と男性にとっての「友だち(女)」の間に成立する友情を求めることは不可能なのだろうか?
それらの妨げとなるのは、男友だちという名目のもと男女の関係に発展することを内心期待する女性の存在でもある。と同時に、その逆でもありうる。女友だちという名目のもと男女の関係に発展することを内心期待する男性の存在でもある。
思春期から結婚適齢期の頃までは、それらは「妨げ」でもあるが、あってしかるべき感覚でもあるはずだ。だから、全てを否定はしない。
だが、生涯を通じて、男女間の友情をシンプルに育てる意識は持ち続けるべきだ。
男女同権主義からあらゆる性の同権主義へ
ここまでは便宜上男女という二つの性があるとして話を進めてきた。だが、基本的に友情というものをどう捉えるかという感覚を共有できたなら、性はいくつあっても問題がないと理解ができるはずだ。
「友だち( )」の友だちに続く括弧の中には何種類もの性があっても構わない。
性を意識することなく関わる時間のバランスが大きくなっていけば、そこに男女以外のあらゆる性が入ろうとも気にならなくなる。
友だち。シンプルに友だち。
そう呼びあえる関係を求めることが、性の同権主義。
尊厳と平等への実践方法なのだ。
#a friend in need is a friend indeed