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「努力」って楽しいよね?
それは、私が、30歳くらいの頃だった。
眠れぬ夜に、努力について考えてみた。
友人に「ガンバラなくていいよ」といわれたことが引っ掛かり、モヤモヤとしたことがきっかけだった。
当時の私は自分に超絶厳しい人間であった。それを見ていて気の毒に思った友人の言葉だったのだろうが、「努力をしたい」という自分の気持ちを否定されたように私は感じたのだ。
努力を否定している人はなぜ努力をしないくていいっていうのだろうかというところから考察を始めた。
なぜ「努力」は忌み嫌われるのか
努力するというのは平たくいうと「ガンバル」ということでもある。だからガンバルがどうしてダメなのかについて考えてみることにした。
「ガンバル」というのを悪者にする傾向はなぜあるのだろうか?
「ガンバって」という声かけはNGだというのはよくきく。心の問題を抱えている人に声をかけるときによくないとうことも知識としては知っている。
それに対して異論はない。
だが、そこから転じて「ガンバルことはよくない」となるのは全くナンセンスだと思うのだ。
努力をしたいと考える人間が、自分自分で目標を設定し、そこに向かって努力していくこと。そのことを外野が「ガンバレ」などというから問題になるのであって、「ガンバって」という声かけ自体がダメだからといってガンバルことを否定しているわけではないのだ。
しかしながら、スポーツの応援では「ガンバレー!」という声援をよく聞く。
これが許されるのは、何に向かってガンバっているのかを観客と選手本人が「ほぼほぼ共有している」からだろう。
つまり、日常生活であっても同じような状況なら「ガンバレ」と他人にいってもよい許容範囲を探れる可能性はある。
しかしながら、無難な落としどころは、次のようなものではないだろうか?
・「ガンバレ」は他人にはいわない
・自分自身の物事への取り組む姿勢として「ガンバル」ことはヨシとする
努力の価値を人生に取り入れて実践すること
努力を楽しむために「現在地」を知る
私自身が「ガンバルことを推奨している」からといって、無暗にガンバルのはおススメしない。
自分自身の目標が定まっていないときにガンバっても疲れるばかりだ。
コレというものが定まっていないときには、道草をしながら、周りの景色を楽しみながら、人生を謳歌するのもよいだろう。
肝心なのは、今、自分がどのような状況にいるのかを把握していること。そして、その状況分析に従って日々を過ごすことだ。
努力に懐疑的な人との距離感を意識する
もし、努力には価値がないとか「ガンバル」必要はないなどという人に遭遇したら、その人は自分自身の問題を他人の問題とすり替えているだけかもしれない。
経験則ではあるが、他人の問題と自分の問題を切り離せない人は、対人関係の火種を抱えている人のように思う。
だから、そういう人とは距離をとってみることをおススメする。
結論......努力の楽しさを知ることは生きやすくなることに通じている
次の2つがあれば、たとえどんな時代になろうとも生きていけると当時の私は考えた。
1.現在地を知る。
自分で自分の位置を冷静に判断しながら、前に進むこと。これが大原則。
2.現在地が判らないときに、自分の位置を知る「手がかりの求め方」を複数知っている。
自分の位置を誰かに教えてもらうのではなく、あくまでも「手がかりの求め方」を知っているという点がミソ。自分の位置を決めるのは最終的に自分自身なのだ。
もちろん、自分で目標を設定すること、並びに、そこに向かって自分のペースで努力していくことという「大前提」があってのこと。
その上で、超絶自分に厳しくなったり、超超自分を甘やかしたりもする。
あるときは、最短ルートの道を邁進し、あるときは、道草を楽しむ。
努力についての考察から、人生論に通じるような思わぬところへと着地したのだが、これ以降、私はとても生きやすくなったのは確かだ。
当時の自分が予想した以上に私の人生を支え続けている。