5 病室、光がやけに目にまぶしい
病室は、私が手術前日に過ごした部屋と同じスタイルで、一つの部屋に四人分のベッドがあって四隅のそれぞれを占めていた。ベッドのまわりにはそれぞれカーテンがひけるようになっていて、これでそれぞれのスペースが区切られている。壁に固定された棚と冷蔵庫の上に小さな棚がくっついている家具があって、その上にはテレビがのっかっている。テーブルはキャスターがついていて動かすことができ、横から見ると「コ」型なので、「コ」のすきまにベッドがはまるように動かせば寝たままテーブルを目の前に持ってくることができる。
ベッドのうしろの壁からはスタンドライトがその長い首をもたげていて、関節のあるタイプなので自由に動かすことができる。それ以外に椅子が一、二脚じゃまにならないように置いてあった。
また、ベッド自体もボタンを押せばリクライニングを自由に調節できるようになっていた。
病室の蛍光灯がひどくまぶしく感じられた。カーテンは天井近くだけ布で覆われていない部分があり、紐で吊られている。そこからちょうど光が差し込んでくるのだ。これが非常にまぶしく感じられ不快である。
私は手で目を蔽った。ただ目を閉じるのと目を蔽って目を閉じるのとではだいぶ違う。だが、ここで以前と違う点についても気付いた。闇さえ鮮やかなのだ。インディゴの輝きをもつと同時に墨汁のように黒々とした黒だ。もっともここでも具象的なイメージはまぶたのうらにおとずれた。黒い闇のなかをどこまでも逃げ回る青いマントの怪盗とそれに追い縋るたくさんの人々が雪崩をうって押し寄せ屋根を越え壁を越え群衆をはねのけてころがりこんでどこまでもどこまでも・・・・・・。
しかしこれでは手が疲れる。私はアイマスクがほしいとたのんでみたが、そのかわりにタオルをもらった。それを目の上にのせるとだいぶ楽になった。ただ、目が重たいのが若干の不満である。(のちに看護師がカーテンの上の部分をバスタオルで覆ってくれた)
私はタオルを目の上に置いて、ベッドのリクライニングをゆったりとした角度に調節した。まるで夜行バスである少しの時間だけ訪れる快適な眠りの時間のように快適な気分だった。どこか遠いところから一定間隔で一定の高さの音が聞こえてくる。静かな気分だった。
***
母はかつて幽体離脱体験をしたことがあるらしい。
私の家庭の宗教的環境では、幽体離脱は死の瀬戸際のような否定的な体験ではなく、霊的世界に迫る肯定的な体験であるというイメージがあった。それで私もこの体験についていくらかの憧れをいだいていた。
二〇一五年の二月十九日、と日記にはある。もっともこの日、私は夜の二時ごろまで起きていたらしいから正確には二十日なのだろう。いや、もっと言うと日記を毎日書く習慣が結局身につかなかった私は、このころ数日に一度いっきに日記を書いていた。だから十九日でも二十日でもないのかもしれない。
私は奇妙な体験をした。
そして、この日のことだろうか。センサリーアウェアネスと現象学がまじりあってか、興味深い体験をした。私は、視覚で、あるいは視覚的に身体の動きを意識せず、体で体を意識しようとしていたのだが、体全体が突如浮き上がるような感覚に襲われた。私はこれまでも、手に意識を向けることで、手から手が出ようとする感覚を得ることができたのだが、これはそれが体全体に広がったようなものではないだろうか。この感覚を分析した結果、私は、体で体を意識するということは体を二重にするのではないかと考えた。また、幽体離脱体験は実は自分の肉体を強く意識することでかえってえられるのではないかとも。脱肉は受肉である。このとき、目はまぶたの裏を見ているほうがいい。目に依らない注意力を体全体に向けるべきだ。
私はその前の日に現象学についての本を読み終えていた。
またセンサリー・アウェアネスについての本を読みすすめている最中だった。
それだけでなく、昨日徹夜したのにだらだら二時まで起きてしまっていて、とても疲れていた。この精神的条件と肉体的条件のために、このような体験ができたのだろう。
なお、文中にある「目はまぶたの裏を見ているほうがいい」とは、二〇一七年の病床における「まぶたのうらをみる」こととは全く異なる。ここでまぶたのうらを見るのは、奇妙なイメージを見るためではなく、体で体を意識するために必要なことだった。横になって、自分の肉体というものに意識を向けるとき、どうしてもそれは視覚的で想像的な像をむすんでしまいがちだ。だがそのようなイメージされた肉体は現に私が生きているそれとは異なる。そのため肉体への意識をそいでしまう。
そこで、私はまぶたのうらを見る。目は目が現に感じている目を、手は手が現に感じている手を、足は足が現に感じている足を意識すること、つまりは体で体を意識するために。
それで突如浮遊感が生まれた。
おそらく、幽体離脱はこの延長線上にある体験なのだ、と私は考えた。
そこから私は「幽体離脱体験は実は自分の肉体を強く意識することでかえってえられるのではないか」と推論した。強く肉体を意識することが、意識する身体と意識される身体に自らを分裂させる、幽体離脱とはこのような体験ではないか。
この意味で、この体験は単純に霊的なものとは言えず、むしろ徹底的に肉体的であるところに生まれるのではないか。
さて、唐突にこんな話を挿入したのは、病床で何もやることのない私がまたふたたび「体で体を意識する」ことを試みてみたからである。
私は闇のなかを立っていて、眼下には光の流れのようなものが、橋の真ん中から見る川のように流れていた。私はこのところ見ていたアニメを思いだした。そのアニメとは「蟲師」のことで、この光景はそこに登場した「光脈」にそっくりなのだった。
***
二つの目のまぶたを閉じるとみえるよ
ずーっと本当の闇をみているとね
遠くのほうから光の粒がみえてきて
それがどんどん洪水になるの
その光は、よくみると全部小さな蟲でね
でも、もっと近くでみようとして近づくと
「ダメだ、それ以上その河には近づくな」
会ったことない知らない人よ
片目の男がいつも河の向こう岸にいてそう言うの
だからいつもすこし遠くで眺めているの
――蟲師、第二話「瞼の光」より
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