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短編ホラー:天井にシミ

 明るい部屋で、天井にシミを見つけたら、寝てはいけない。
 後輩は、言いつけですよ、と暗く笑って言った。

 お疲れ様です。と後輩が現れて、飲み会はさらに熱気を増した。
 「飲むこと」が生きがいのようなメンバーが集まった納涼会だ。なんであれ「乾杯」と声をあげて飲むきっかけとなるなら、これを逃すなどあり得ない。
 現に、遅れてきた後輩が店員から飲み物を受け取った途端、幹事でもないのに後輩の同僚が何杯目かももうわからないジョッキを掲げて、
「かーんぱーーーいっ!」
 威勢の良い声をあげる。掲げたジョッキはそのまま傾けられ、飲んでいるのか浴びているのか、とにかく美味そうにビールを味わっていた。
 そんな中で、後輩は音頭に合わせてジョッキは掲げたものの、最初の一杯にしては勢い少なくひとくちを含んだ。
「珍しいな。今日は疲れたか?」
 いえ、と後輩ははにかんで首を振った。目の下に濃いクマがくっきりと浮いている。
「疲れてはいるんですけど、一気飲みするというより、こう、なんかこの一口を味わいたくて。そうっと飲むと美味しくないです?」
「それはまた、若いもんらしくない言い方だな」
「そうですか? そういうときもあるよなぁって、思うんですけど。それにしても、本当に暑いですね。こんな日は本当に、いつまでも蒸して……」
 ふぅ、と後輩が息をつく。
「……先輩、先輩って、怖いものあります?」
 小さな声でかけられた問いは、場の雰囲気とはかけ離れたものだった。なにを急にと笑ってやる。
「酒の肴になる話なら聞いてやるぞ。彼女と喧嘩でもしたか?」
「いえ、彼女とは順調ですけど」
「しれっとノロケやがって。それならあれか、夏だけに、幽霊でも見たとか、怖い話系か」
 からかうつもりで尋ねると、意外にも後輩は神妙な顔をして小さくうなずいた。声も出さずの首肯に不穏なものを感じたが、話を振ったからには聞いてやらねばなるまいと居住まいを正す。
「ん、まぁ、なんだ。後輩が悩んでるのをほうっておくほど冷たくないつもりだからな。話してみろよ」
「え、でも……」
 言い淀む後輩の肩をぽんぽんと叩いてやる。霊感なんてないからと言ってやると、神妙な顔をされた。
「そう、か。そういう考え方もあるのかな……じゃあ……」
 小さな声すぎて聞き取れなかったつぶやきに、耳を寄せたところで後輩は顔をあげた。
「わかりました。先輩のお言葉に甘えて、お話ししますね」
 でも、と後輩は念を押した。後悔しないでくださいね、と。
 二人の空気に気づいたのか、後輩の同僚が「面白い話なら聞かせてくれよ!」と話に入ってきて、これから後輩が怖い話をする、と聞くと顔を輝かせた。
「えっ、怪談大好き! 俺も聞く!」
 と小さな騒ぎになってもう数名が参加して小さな講演状態になってしまった。後輩は苦い顔をしていたが、皆がいつもと違う話を聞きたいとせがむものだから、腹をくくったのか先ほどと同じように「後悔しないで欲しい」と伝え、もう一度ビールを口にした。
 祖父からの言いつけの話なんですけどね、という前置きが後輩の話の始まりだった。

 うちのじいさん、あ、じいさんじゃなくて祖父からの言いつけの話なんですけどね、ああ、母方の家の、です。母の実家って、海のない県の山奥で、年に一度の夏にしか帰らないくらいの遠さなんですよ。それで、雪も多いから年末は雪慣れしてないやつは来るなって言われるくらいなんで、むしろ夏のお盆時期に避暑も兼ねて行くんです。祖父母の家、夏でもめちゃくちゃ涼しくて快適で大好きでした。知ってます? 山の中って、同じ気温になったとしても結構涼しいんですよ。
 そんなわけで、毎年夏が来るのが楽しみで。ほら、まちなかにいると山で虫取り、とか川遊び、とかなかなかできないですから。年に一回行くと祖父母がめいっぱい遊んでくれるし美味しいご飯食べさせてくれるし、お小遣いもくれて甘やかしてくれるから年始のお年玉をもらうくらい楽しみだったんですよね。あ、年越しにはいかなかったけど、お年玉はもらってましたよ。年明けに現金書留で届いてました。
 っていうのは置いといて。楽しいことだらけな祖父母の家に、毎年行くのが楽しみだったんですけど、なぜか毎回口酸っぱく祖父母から言われる言葉がありまして。
 それが、「寝るときは真っ暗にしろ。決して明かりを点けるな。どうしても点けなきゃならんときは、天井を絶対に見るな。もし天井を見てしまったら、シミさえ見つけなければいい」っていう長い言いつけで。不思議ですよね。
 でも真っ暗で寝さえすればいいから気にしてなかったんですよね。小さいときは両親が両側で、僕と兄を挟んで寝てくれてたし、大きくなったら一人でも暗くしたって寝られたし。
 それで、そういう言いつけって、言われてることは覚えてるし、やらなきゃいけないのもわかってるけどいつの間にか気にしなくなっちゃうもんなんですよね。
 高一か、二年の頃だったかな。その頃には自分で行き来できるようになってたから、夏休みに入ってすぐに、両親より先に祖父母の家に行ったんですよ。電車で。あ、兄は大学進学で家を離れてたから、また別のタイミングで来るってなってて、僕一人で。
 祖父母もよく来たねって大歓迎してくれて、いつも通りに挨拶して、いつも通りめいっぱい遊んで。宿題も多かったけど、田舎ってなんでかはかどるんですよね。だから勉強も一通り済んで気兼ねなく遊んで、疲れて気持ちよく爆睡。
 そして、寝る段になると祖父がいつも通り言うんですよ。「真っ暗にして寝な」って。僕もああ、いつも通りだなって「はーい」なんて軽く返事して。
 ただ、その夜は違ったんですよ。僕と同じように親より先に来てた年下の従兄弟と一緒に寝てたんですけど、その彼が「明かり点けてみようぜ」って言い出して。
 僕は優しい祖父が珍しく厳しい口調で、絶対忘れずに伝えてくる言いつけだからよっぽどのことだと思ってたんでやめとこうって言ったんですけど、ほら、男子の好奇心ってだめって言われると止まらないじゃないですか。結局従兄弟は折れなくて、電灯を点けて寝ることになったんですよ。
 僕は電灯を点けても天井を見なければいい、っていうことだけは守ろうと思って、横を向いて寝てたんです。そしたら怖いもの知らずなのか、従兄弟は「全然怖くないじゃん! ほら、天井にも何もないし!」なんて言って大興奮で。従兄弟に何度も誘われたんですけど、頑なに見なかったんですよね。
 従兄弟がしつこく声をかけてきてたのを、寝たふりして、っていうか必死に寝ようとして無視してたら、「なんだあれ」って急に従兄弟が言い出したんですよね。どうも、天井に見つけちゃったみたいで。黒いシミが、って言った時点で従兄弟に布団かぶせたんです。もう寝ようって怒鳴って。
 従兄弟もびっくりしたのか怖かったのか抵抗しなくて、二人して頭から布団をかぶって寝ました。不思議なことに、さっきまであんなに頑張って寝ようとしても全然眠くならなかったのに、布団の中で暗さを感じたら急に眠くなって、気づいたら寝てたんですよね。従兄弟も同じだったみたいですぐに静かになってました。二人して、ぱたっと寝ちゃったんでしょうね。
 ……電灯、消すの忘れて。
 寝ちゃってて、頭から布団にくるまってるから暑くなったんでしょうね。寝返りとかしたと思うんですけど、布団がめくれた拍子にまぶしくて目が覚めちゃったんですよ。ああ、電気点けたまま寝ちゃったなぁって消そうと思って目を開いて、従兄弟を見たんです。
 従兄弟、いなかったんです。いえ、正確にはいたんですけど、真っ黒な何かに包まれてて。その黒いもの、天井から降りてるみたいだったんですよね。従兄弟を包み込んで、何か動いているような、そんな感じでした。
 瞬間、すうって、背筋が寒くなるのがわかりました。ほんとに寒く感じるんですよ、ああいうものに「出会った」とき。
 その黒いものは、やばいっていうことだけわかりましたよ。でも、その後の記憶がないんです。気づいたら朝で、起こすまで僕は寝てたって、祖父は言うんです。
 飛び起きて隣を見たら、従兄弟はいませんでした。布団も片付けられてて。祖父に聞いたら朝早く帰った、って言われました。おかしい、そんなことはないって昨夜の話をしようとしたら、祖父は怖い顔をして「忘れろ」って言ったんです。
 言いつけを守らないと大変なことになる。おまえは守ったから、無事だった。おまえは何もしていないし、見ていない。忘れろ。と。
 祖父にアレは何なの、と聞いても教えてくれなかった上に、これからは家でも言いつけを守れと言われたんです。ただし、もしも忘れてアレを見てしまったら、寝てはいけないとも。
 でも、もし見ちゃったら、と聞いたんです。子供心に怖かったんでしょうね。聞かずにはいられませんでした。
 そうしたら、祖父はこう言いました。「他の誰かがこの話を知れば、アレはその話を聞いた一番期間の短い者のところに来る」って。でも、言いつけを守っていればそんなことしなくていいからな、絶対守れよって。言われたんです。
 それから従兄弟には会わなくなって、いつの間にかいない存在になってました。誰も話題にもしないし、僕もしづらくて。言い方がわからないんですけど、「初めからない存在」みたいな。
 それがあんまり、当たり前みたいになってるから気になってたんですけど、最近まで忘れてたんですよね。大人になって忙しくなったらなかなかあっちにも行けなくなっちゃって。だけど、この春に祖父が亡くなって遺品整理にかり出された時に、記録を見つけたんです。
 ……「アレ」の話がありました。
 どうも、うちに昔から憑いてるものがいるそうで。先祖の誰かが遊女をさらってきて惨いことをした上に殺しちゃったらしいんです。殺すときに飛んだ血が天井にもつくくらいだったとか。酷い話だと思うんですけど、昔って、そういうの当たり前の地域性って言うか……
 で、天井のシミも消えないし変なことも起こるってことで寺のお坊さんに頼んで、みてもらったら殺された遊女の念が強いとかなんとかでうちは祟られていると。お祓いもしてもらったらしいんですけど、怨念が強すぎて弱めるだけで精一杯だから制約をつけて祟りを減らすしかできないって言われたそうです。その制約が、あの祖父に言われてた言いつけを守ること、だったらしいんですよね。天井に飛んだ血のあとが、シミになってて。それを見たら祟られるってことだそうです。お祓いしてもらったら天井のシミは見えなくなったとも書いてあったから、見えるときが「そう」なんだなってわかりました。
 ご先祖様、とんでもないホラーを遺産として残してくれたなって困ってたんですけど相変わらず言いつけは守っていたし、大丈夫だと思ってたんです。
 ……気づきました? 思ってた、んですよ。つい昨日、電気点けたままをやっちゃって。見ちゃったんですよね。黒いシミ。だから昨日から寝てなくて。
 でも、これで今日からよく眠れそうです。ああでも、大丈夫ですよ、話を聞いたみんなは、部屋を真っ暗にして寝るか、電気を点けて寝ても天井を見なければいいんです。もしくは全部僕の妄想にしてもらって、このお話を全部、忘れてもらってもいいんですね。
 ただ、もしどうしても嫌なら、誰かにこの話を伝えてもらえればいいだけなんで。誰に言ってもらってもいいですよ。明るいところで寝ちゃって、天井を見ちゃう前に。
 問題は、誰に話すかですよね。残念ながらここにいるみんなはもう聞いちゃったから別の人に話さなきゃいけないですけど。
 ねぇ、皆さん、誰に話します? このお話、誰かに話したら広まっちゃいますよね……

 しん、と静まり返った場で、後輩は小さな音を立てて手を合わせ、軽く会釈した。
「これで、話はおしまいです。ご静聴ありがとうございました」
 社会人らしい挨拶で後輩は締めくくる。話を始めた当初とは裏腹に、その表情は明るい。対し、聞いた側の表情は暗いものになっている。
「あのさ……この話って、本当?」
 問いに、後輩は、さぁ、と笑いながら飲みかけのままぬるくなったビールを一気に飲み干した。
 美味い、と漏れた声は、心からのものに聞こえた。ぬるいビールなんて美味いはずないのだ。はじめの一口がちびりとしていた理由はこれか。
「ああ、やっとゆっくり眠れる。先輩もみんなも、くれぐれも、夜に電気を点けて天井を見上げないでくださいね? しかも、シミなんて、絶対に数えちゃだめですよ?」
 でも皆は霊感なんてないし、うちの出身でもないから大丈夫ですよね、と後輩がにこにこと向けてきた笑顔は、悪魔のそれに見えた。
「もし数えてしまったら、誰のところに来るんでしょうねぇ」
 楽しげにも聞こえる声音で、後輩はそうつぶやいて、呼び鈴を鳴らしてビールのお代わりを頼んだ。

 夏の、ちょっとした怪談話に過ぎない。こどもじゃないんだから怖がりすぎる必要はない。わかっているのに、そう思っているのに、背中に走る薄ら寒い感覚はなんだろう。
 彼の話を聞いた後、なんとなく酒も美味く感じられず、盛り上がり続けていた別テーブルのメンバーのように二次会に行くこともなく、家に帰ることにした。
 終電にも十分に間に合う、まだ宵の口といっても差し支えない時間にアパートにたどり着く。ドアを開けても、「おかえり」と声をかけてくれる人が待っているわけでもない独り身の事実に若干の寂しさを感じながら鍵を閉め、襟元を緩めた。
 あの話は、忘れようとしても頭の片隅にこびりついていて、ふとしたときによみがえってくる。
 せっかくの飲み会だったのに、と八つ当たりめいた気分になり今日はもう寝てしまおう、とさっさとシャワーを済ませて横になった。けれど中途半端な疲れのせいか目が冴えて、眠気は訪れない。
 そういえば明かりをつけたままだなと気づいて、ついで息をのんだ。天井を、見上げている。してはいけないとわかっていながら、目は勝手に探してしまう。
 見つけてはいけない。アレを見つけてしまったら……
 眠れなくなる。誰かに話さないと……
 明るく照らされた天井から目が離せないまま、黒く見える何かを目にした気がして、戦慄した。眠ってはいけない、と繰り返す。
 夜明けはまだ遠い。眠気と、得体のしれない何かとの闘いは始まったばかりだった。

「なぁ、面白い話があるんだけど。夏だし、ちょっと怖い話なんだけどさ……面白いから聞いてくれよ」
 大丈夫、たとえ聞いたとしても、『言いつけ』を守ればなんてことないよ、と笑って言ってやる。
 これを教えてやってから話す分だけ、あいつよりは親切だ。
 己に言い聞かせながら、聞いた話だけど、と話し始めた。これを聞かされた側がどうするかは、考えない。ただ、こうして聞いた話と『言
いけ』を伝えるだけ。その後はもう、知らないことなのだ。

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