文披31題:Day18 蚊取り線香
むしがでた、と騒いでいるルームメイトがあまりにうるさくて、騒ぐ背中を蹴り飛ばしたら枕が飛んできた。
そのまま軽い乱闘になったところを寮長に止められて、三日間のおかず一品減らしますの罰を受けることになった。
育ち盛りの健康男子にとって、おかずが一品減るのはたいへんなことだ。考えるだけでもお腹は空くし、事実としてすぐにおかずは取り上げられてしまったため、満足しきらなくて落ち着かない腹ともの悲しい気持ちを抱えあわせで授業を受けている。おかずの代わりに主食をかきこんだが、おかずがあるならあったほうが心も体も嬉しいし、腹にたまる気がする。
アカデミーへ入学して三年目の夏の始まりに、なんでこんな目にあわなければいけないんだ。
むすっとした顔で席にかけて教科書とノートを広げていると、別の部屋の寮生がにやつきながら話しかけてきた。
「今朝の騒ぎ、なんだったんだよ。えらい剣幕で怒鳴られてたな、おまえ」
からかう気満々だな、とつぶやくとそりゃそうだよ、と楽しそうに笑い声が響く。うっとうしいな。早く授業、始まらないのか。
時計を見ると、早めに行動する癖が災いしてか、授業が始まるにはそろそろという時間にはさしかかっているのは見て取れたが、その前に鳴る予鈴の時間にもなっていない。
そうすると、絡んできた同級生はまだ動かないだろう。普段から話しかけてくることの多い彼は、おしゃべり好きなやつだ。予鈴が鳴っても下手したら動かないだろうから、本鈴までに打ち切るか、彼が満足するまでおしゃべりに付き合ってやるしかない。
毎日繰り返している単調な日々に飽き飽きして、刺激を求める気持ちになるのはわからなくもない。なにせ、日々の楽しみにおいて、寮で出される食事のおかずの中身が話題になるくらいだ。今朝の出来事なんて、格好の楽しいネタだろう。
その気持ちはわからなくないので、少しは付き合ってやるか、とも思う。
「まぁな」
「何が原因だったわけ? あんなに慌てる寮長、見たことないけど」
「俺は悪くない。……と、言いたいところだが、悪い部分があったとは、思う」
「へぇ? 具体的には?」
ぐ、と押し黙った。おぼろげになりつつある記憶を引っ張り出してみる。
確か、明け方だったような気がする。まだカーテンの隙間から差し込む光が月光とも陽光とも、どちらとも言いがたい時間。
むしがでた、とルームメイトは騒いでいた。そういえば、その前に悲鳴があがったような気もする。
しばらく上掛けをかぶって音を遮断し、聞こえないふりをして二度寝するつもりだったが、むしがでたと繰り返しながらベッドをおりてばさばさどたどたと音を出すので、堪忍袋の緒がもたなかったのだ。
無言で起き上がって、ベッドの下をのぞき込んだり天井を見上げたりしているルームメイトの背中を、蹴った。
「うるせぇ、今何時だと思ってんだ」
確かそう言ったはずだ。あまりにうるさいのと眠りを妨げられた怒りで、どうしたのかと声もかけずに蹴り飛ばしたのは悪いとは、思う。
だが、ルームメイトもルームメイトだ。蹴り飛ばされて振り返った後、顔面に向かって枕を投げつけてきた。あちらも悪いとは思っていたのだろうが、蹴り飛ばされた拍子にベッドの縁に額をぶつけて少し血がにじんでいたから、相当の痛みがあったかもしれない。
そこまで話して同級生を見ると、目を丸くしていた。興味深いと思っているのが半分、驚きが半分。その反応の意味は理解できた。
なにせ、自分もルームメイトも基本的には温厚な性格で通っている。その二人が、朝から乱闘していると聞けば興味を引くのは当然だ。その二人が蹴っただの枕を投げただの聞いたら、驚くのも無理はない。
自分もルームメイトも温厚は温厚だが、致命的に朝には弱い。睡眠不足で機嫌が悪くなるのは互いに知っているので、テスト期間などは睡眠時間の確保などを気遣い合っているほどだ。だから周りに知られていないところもあるのだろう。
それはさておき。振り返ればやり過ぎな気もしてきた。いくら睡眠を妨げられて機嫌が悪かったとはいえ、後ろから蹴り飛ばすほどではなかったかもしれない。
反省し始めたところで予鈴が鳴り、無言になったことあってか同級生は「そ、そっか、大変だったな。お疲れ! 早く仲直りできるといいな」と肩を叩いて自分の席へと戻っていった。
何がお疲れ、なのだろうか。よくわからなかったが続けられた「仲直り」の言葉に心が沈むのを感じた。
あの一件以降、ルームメイトとは口を利いていない。互いに顔を背けて、誰が悪いのか尋ねてくる寮長に、「自分は悪くない」と押し通していたのだから。
今日の授業を全て終わったら。寮の自室に戻ったら、ルームメイトがいる。もしくは迎えることになる。
そういえば罰はおかずに関することだけで、ルームメイトとのことについては何も言及がなかった。
罰を言い渡された瞬間はおかずが減ることに絶望していて失念していたが、帰れば顔を合わせることになるという事実にますます心が重くなるのだった。
なんとか授業をこなし、寮に戻りながら立ち寄ったのは温室だった。必要なものを告げると「あるよ、好きなだけ持って行って」と園芸部の部長は快く譲ってくれた。
鞄と鉢、不思議な取り合わせで寮の自室の前まで戻り、ひとつ、大きな深呼吸。
ノックすると「どうぞ」と低い声が帰った。ルームメイトの帰りの方が早かったか、と少しだけ気まずい気持ちを覚えるが、どちらにしても同じかとドアノブを掴む。
「よぉ。お帰り」
在室の合図と同じく、低い声での出迎えに、おやと思った。低い響きではあるが、不機嫌そうではない。
その声音に少しだけほっとしながら鞄を自分の机に片付け、持ってきたものをルームメイトの前に差し出した。
「なんだよ」
「朝のアレの、解決方法、考えてみた」
差し出したものは拒否されずに受け取ってもらえて、広げられる。「鉢?」といぶかしげな声があがった。
「虫除けになるんだってよ」
へぇ、とためつすがめつし、満足すると鉢を返された。
不満を漏らす暇もなく、相手は苦笑した。
「任せるよ。どっちかって言えば、そっちの得意分野だろ。『植物の魔法使い』」
「……あー」
納得してしまったのと、少しの気恥ずかしさに空を仰向いて、その後二人で笑った。自分のできることで相手の機嫌をとろうとしたことと、この鉢はまだ芽を出したばかりでまだ効能は発揮しない。その事実の間抜けさに、自然と笑いがこぼれた。
とりあえず、とルームメイトは香りの魔法使いにアドバイスをもらって手に入れたという「虫除けの香」を今夜から焚くことにしたからよろしく、と言われてうなずいた。
肝心のむしはといえば、香の効能のおかげかその夜から二人を悩ませることはなく、ルームメイトに小さな湿疹と大きなかゆみをもたらすだけの被害で済んだ。
もう少しすれば、鉢の植物も育つだろう。自分の魔法の経験にもつながるし、悪いことはない。
この虫除けの香もしくは虫除けの効能を持つ薬草の力で、睡眠をこよなく愛する二人の寮生の小さな諍いを起こした元凶に、この夏が終わるまでは出会わないことを祈るばかりだった。