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空青く、澄み渡りて白

 今日から、冬の始まりです。
 担任がそう口にしたのは、朝のショートホームルームでのこと。古典を担当する教師である彼女が言うのだから、きっと間違いはない。
 だが、教室はざわついた。冬の始まり、という言葉に、とてつもない違和感が横たわっていた。
 どこがだよ。
 誰もがそう思っていたに違いない。うだるような、とまではいかないけれど、まだ上着すら必要を覚えないほどの気候の今、「冬だ」と言われてもぴんとくるはずがないのだ。
 担任はそれすらも予想していたのか、にんまりと笑うと人差し指を立てて左右に振りながら、こう締めくくった。
「暦の上では、ね」
 なるほど、暦の上では、ね。なんとも便利な言葉になり果てたものだ、暦よ。
 生徒たちは、いつも通りの「ことあるごとに授けられる教師からの知識」の一つとして受け取ることにしたらしく、これもまた常の通り、さらりとショートホームルームは終わったのだった。

 身にまとう制服に、重圧を感じたのはいつからだっただろうか。
 動くと汗ばむ陽気の中で、あたしは制服の襟もとを覆う布地をつまんで振ることで風を送りながら、少しでも涼を得ようとしていた。
 放課後の、誰もいない教室。朝の担任の言葉とは裏腹に、今日も一日暑かった。
 セーラー服は見た目はよくても通気性が良くない。襟があるおかげで一枚余分な布を背負い、また熱がこもる。可愛らしさが伺えるリボンはほどけやすくて油断すると手洗い場などで濡れることも多々あったりする。
 好きだけれど、嫌い。そんな複雑な感情を抱かせる制服。
「……まだ半袖でも行けたかな」
 今、身に着けているのは中間服と呼ばれる、長袖のセーラー服だ。夏は半袖、冬になると襟と同じ色の布地のものに変わる。
 中間服は、名前の通り季節の中間頃に身に着けることが多い、が最近は着る時期を狙うのが難しい。なにせ、「ちょうどいい季節」がなかなか来ない。
 ものすごく暑いか、ものすごく寒いか。
 極端すぎる気候に振り回される人類のなんたる愚かなことか。とは言っても、どうにもできるものではないので衣服を調整するしかないのだが。
 その「調整」のために身にまとった中間服すら暑さを覚えてしまい、あたしは「秋、来い!」なんて思ってみる。もちろん、来ることなんてないんだけど。
 秋を見つける歌もあったなと思い出したけれど、思い出したとて、その気配すら見当たらなくてうんざりしてしまう。
 その気持ちと比例するように、最近の調子もいまひとつ、だ。
 襟から手を放し、机の中から平均近くの点数の書かれた答案用紙を取り出して、ため息一つ。赤点ではない。けれど良い点でもない。
 勉強は嫌いじゃない。けれど、点数にはつながらない。
 高校二年生の秋も近づき、いよいよ来年は進路を決めるのだと周りがそわそわする中で、あたしはまだ、この季節と同じくちぐはぐな状態な気がする。
 せめてもと、答案用紙を机に広げて、もう一度眺めてみた。間違った回答は、単純なケアレスミスから。どうしてこんなところを間違えてしまったのか。自問しても、答えは出ない。
「あら、まだ残っていたの?」
 かけられた声にはっと顔を上げると、担任が入り口に立ってこちらを見ていた。まだ残っていて怒られる時間ではないはずだが、教室にはあたし一人しかいない。
「どうしたの、神妙な顔しちゃって」
「いえ、なんでもないんです」
「なんでもない、ねぇ」
 ほんとうになんでもなくて、なんでもないからこそ困っているというのが正しいのだが、その含みを感じてか、担任も歯切れの悪い返事を返す。
 コツ、と靴音と共に担任が目の前に立って、答案用紙をのぞいている。
「よく読めば間違えなさそうな問題を、間違えてる……集中力がない? というよりも、向き合いきれてない。かなぁ。それと、戸惑ってる」
 わかって当然、担任の科目の答案用紙だ。採点したのも彼女だから、回答の状況もよくわかっているのだろう。
 答案用紙を眺めながらの分析の言葉に、胸がざわついた。焦りのような、ちりりとした感情がうずく。どう表現したらいいのかわからない感情が頭を支配する。
「何がわかるんですか」
 いらだった声に、担任は目を丸くした後、にこりと笑った。朝の「暦の上では」と締めくくった時のように、いたずらげな顔で。
「そりゃ、先生だからね。それが仕事だから。あなたの回答も見てるし、傾向の把握と分析、は職業柄必須なのよねぇ」
 さらりと返されて、返す言葉が浮かばない。感情のままに吐き出した言葉は、受け流されて宙ぶらりんになって消えていく。
「あなたはああだからこうしたほうがいい、とは言わない主義だけど、苦しそうだからね。ちょっとでも楽になれたらいいなとは思ってはいるのよ」
 そう言って、担任は答案用紙に手を伸ばしてつまみ上げると半分に折って渡してきた。
「飛ばしちゃえば?」
 何を言っているのか、一瞬わからなかった。
「紙飛行機、作ったことない?」
 いたずらげな顔のまま、担任は提案してくる。
「そんなことして、いい、んです、か?」
「あなたがいいならいいわよ。私の作ったテストだし、採点も終わってるし。それはともかくとして、このテストがもやもやした気分になる原因なら、景気良い方法で気晴らしの道具にしてもいいんじゃないかなと思って」
 とんでもない提案をしてくる担任に、目を白黒させながら言われるがままに紙飛行機を作り上げた。先が細く、翼が後ろに長く伸びる、しゅっとしたスタイルの紙飛行機。
「わぁ、かっこいい。綺麗に飛びそうね!」
 楽しそうな声に背中を押され、教室の端に立って紙飛行機を飛ばしてみた。
 手から離れて宙を飛んだ紙飛行機は一回転すると、教室の真ん中に落ちた。
 飛距離はあまり出なかったが、飛んだことは間違いなく、担任は「飛んだ!」と無邪気に褒めてくれた。高校生にもなって折り紙で褒められるとは思っておらず、なんだか気恥ずかしい。
 照れくささをごまかすために紙飛行機を拾いに行こうとして、気づいた。
 居心地の悪い暑さも、沈んでいくばかりのようだった気持ちも、すこし軽やかになった気がする。
 紙飛行機を拾い、ふと思いついたのは、窓越しにでもかざしてみたら空を飛んでいるように見えるかもしれない、だった。
 紙飛行機を持って窓辺に向かい、見上げた空は、薄い青に染められて雲ひとつなかった。
 世界にはいろんな色があるのは知っているけれど、この色はどう表現したらいいのか、迷うほどに済みきった青。鮮やかではなく、透明な、吸い込まれそうに儚い青。
 紙飛行機ではなく、空を飛ぶ本物の飛行機が、一筋の線を描いていった。
 空に白い虹をかけたようなその一筋が青に溶けていくのを、黙って見送った。
 冬が、来た。なぜかそう、感じたのだった。

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