文披31題:Day1 夕涼み
太陽の一かけらがやっと地平線の向こうに消えて。それでもうだるような暑さはなかなかひかない。
思わずほう、とつく吐息に気づいたのは、隣に座る男だった。
「疲れた?」
ええ、と返すとこんなに暑いとねぇと思っていたことと同じ言葉が返って、しかしどうしようもない事実に嘆く様は案外面白いと感じてしまう。
かといって疲れが消えるわけでもないし、今夜は熱帯夜は間違いないだろうという予想が容易なほどに、気温が下がるのが遅い。
暑い。脱水症状で倒れてしまいそうな昼中の気温もさることながら、熱気冷めやらないこの黄昏は憂鬱さを覚えるばかりだ。
ここ数年、夏は暑くなるばかりで暑さのせいで死者の数は増える一方で。
それでも、死ねないこの体はただただ不快さを感じるばかりなのがわずらわしい。
死を望んでいるのは間違いないけれど、この暑さのせいでと思うのは少しばかり憎らしさと悔しさを感じてしまう。
そういえば、彼は大丈夫だろうか。死ぬことはなく、なんなら死を喰って生きる自分とは違って、彼は普通の人間だ。男と女の体力の違いはあるから自分よりは丈夫なのは間違いないとは思うが、それでも気を付けるに越したことはない。
「――さん」
夏の暑さのせいで脳がぼんやりしてしまっているのか、おかしな思考回路になっていたようだ。彼だけが覚えていて、口にすることができる自分の名前を呼ばれて、顔を向ける。思っていたよりも近くにあった男の視線とぶつかり、目を丸くする。
相手も驚いたようで、しかしこちらほどは衝撃の余韻は少なかったようで、屈託なく笑いかけてきた。
シャツの首元をぱたぱたと動かし風を送るようにして、手を伸ばす。
「少し、散歩でもしようか」
そうしたら、少しは涼しくなるかもしれないよ、という提案は、とても良いものに思えた。
夏の夜は、闇の中なのに明るさを感じてやまない。その中を、彼と二人で歩くことを、想像してみる。
「いいわね」
伸ばされた手に己のそれを重ねて立ち上がり、歩き出す。
不思議と彼の手のぬくもりは、不快にはならなかった。あついな、とは思ったが、彼が生きている証明だと思うと、なんだか嬉しくなった。
「あついわ」
「何が」
歩きながらつぶやくと、すかさず聞かれた。前を向いたまま笑っていると、答えてもらえないことを不満に思ったのか握られた手の力が強くなる。
握り返すと、驚いたように力が抜けた。なんだその反応は。
「完全に俺のことをばかにしてるな?」
「いいえ、そんなことはないわ」
止まらない笑いにむくれてそっぽを向かれてしまうけれど、手が放されないから気にならなかった。
「あまり笑わせないで。暑いのに」
「勝手に笑っておいて、人のせいにするのか?」
「だって、楽しいのだもの」
そぞろ歩きの間に川辺まできたようで、さきほどまで吹いても熱風のようだった風が、不意にひんやりとした温度に変わった。
目を細めて、風の感触を楽しむ。気づけば立ち止まって、目を閉じていた。
彼も同じように立ち止まっていて、川面の音と風を楽しんでいるようだ。
「ここで眠れたら、良い夢が見られそうね」
「貴女は、本当はその言葉の前に『永遠に』とつけたいだろうに」
心からの願いを知っている彼は、さきほどの仕返しか、そんな言葉を返してくる。
それならば、今日はここで寝ることにしようと言うと、本気で止められた。
お願いだからとまで言われて、それならそろそろ帰ろうと許す代わりに提案した。
「だいぶ、涼しくなってきたことだし」
薄闇に見えた闇は、ずいぶんと濃くなってきていた。夏の夜は短いけれど、確かにあるのだと、手をつないで帰り道をたどり、今日も生きてしまったと思いながら。常ほどは悲しみを感じないことが、少し嬉しかった。
『喪服の蝶』より
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