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音楽創作~誓いと秘密とを、二人で

~音楽創作とは~
⭐この創作は、『音楽から連想する物語』をつづっています。一曲にひとつのお話……とは限らず、思うがままに、感じるままに、つくられたお話を楽しんでいただけたら幸いです⭐

 喜里川きりかわ啓司けいじの朝は、比較的早い。といっても、本人感覚の問題なので以前より早くなった、と言うほうが正しい。
 以前より早く、というのはいくらでも眠れたし、何時まででも寝ていたいと思っていた過去との比較だ。週明けの目覚めの悲しさ、むなしさといったら心底うんざりしていたものだ。
 けれどいまはそんな気鬱きうつに苛まれることはない。いわゆる「定年」を迎え、いまはその年齢の引き上げも行われているさなか。ゆえにもう二年間、勤め終わったのがつい数か月前のこと。
 朝早くに懸命に目覚ましとともに覚醒し、一分一秒を争って行動する生活から解放され、この上なく清々しい気持ちだ。
 義務でなく開く新聞には、ゆったりと時事の出来事を知る楽しみが散らばっているようにすら感じる。
 嗚呼、素晴らしき哉、悠々自適な定年退職後の老後ライフ。あくせく働くことから解放されたこの身は、まるで羽が生えたような心地がする。
 ……そうなると、思っていた。少なくとも昨日までは、そんな風に過ごせているのだと、感じていたはずなのに。
「…………」
 起床して、郵便受けから新聞をとって訪れたリビングのダイニングキッチンの前で、啓司は固まっていた。
 目の焦点が定まらず、思考も停止している。
 ばさり、と足元で音がしたのは手に持っていた新聞が落ちたからだろう。
 のろのろと膝を折りながら、視線だけは外せないでいる。テーブルの上に乗っていたものから、目が離せない。しゃがみこんで指先だけで新聞を探しながら、テーブルを見つめ続けている。
 姿勢が変わったがゆえに見づらくなったが、その固有の色合いがうっすらと視界に入り続けているからいっそうその存在感ははっきりと確認できた。
 濃いめの緑色で枠が記されたそれは、役所に届け出ることができる書類。
「りこんとどけ」
 我ながら、なんとカタコトの言葉だろうと笑えるくらいに、ぽろりとこぼれた。自分でも驚くほどに、小さな声で。
 そう、離婚届、だ。
 そういえば、雑誌の付録とかで「婚姻届」がついてます、なんていうCMをやたら見るが、あれは本当に使えるのだろうか。いや使えるから付録でつけているんだろう。じゃあ離婚届ももしかしたら雑誌の付録でもあるのか、いやそれこそ最近はインターネットでダウンロードできるし、なんだそれ重要書類なのに簡単すぎやしないかいいのか、家で印刷してきた書類が提出OKとかそんな軽いものなのか。
 などと一瞬でわけのわからない思考がかけ巡ったが、たぶんそれは今まったくもって関係がない。というかただの現実逃避だ。
 そういえば、離婚届を見つけた女性が動揺しているドラマを見たことがあるが、男性の場合を見たことがあっただろうか。いや男女関係ないだろうこのご時世に。そのドラマはそもそも不倫を扱っていた……、いや、ほんとうにそんなこと、今はどうでもいいのだ。
 またもぐるぐると巡る思考を止めようと、新聞を拾い上げて椅子を引き、かける。
 新聞を広げてテーブルを覆うと、ひとまず緑色が見えなくなった。
 思わず深いため息を、勢いよく吐いてしまう。
「あら、お父さん、今日も早いのね」
「ははは早くないぞいつも通りだぞ!?」
「そうかしら? だんだん早くなってる気がするんだけど」
 ため息と同時に背後からかけられた女性の声に飛びあがりそうになる。なんだそのタイミング。
 声の主は小首をかしげてこちらを伺っている。新聞で覆った届書に、その人物の名があった、ような気がする。
 喜里川きりかわ香恵かえ。それが彼女の名であり、一つ屋根の下で同じ苗字を持つということすなわ啓司の家族である。香恵は、啓司にとって妻。つまり、離婚届を出す権利の持ち主の一人。
 内心だらだらと脂汗の止まらない啓司のことなど気にも止めず、香恵は「年を取ってくると早起きになるっていうけどね」などとぼやきながらキッチンの向こうに消えた。妻の姿が完全に消えるまで様子を伺い、こちらへの注意がそれたのを確信してほーっ、と息を吐く。さきほどとはまた違うため息だ。
「辛気くさいわねぇ」
 耳聡く香恵が聞き付けて言ってくるが、知ったことではない。なにせ、人生の一大事だ。ため息なんて気にされている場合ではない。
「香恵が驚かせるからだろうが」
 よし、新聞紙の下に隠れて見えないな。香恵に気づかれてはいない。
「それは悪うございました。お父さん、今日はトーストのジャム、何にする?」
 香ばしいトーストの焼ける匂いとともにかけられた問いに、思わず「同じのでいいぞ!」と返しながら、これからどうしようと考える。
「了解。あ、それとお父さん」
「な、なんだ!」
「なに、騒々しいわね。その辺に書類、ありませんでした?」
 優しい声音は、年を経て深みが増したものの、付き合った当時と変わらぬ、啓司の愛したものだった。一目惚れならぬ一聞き惚れとでもいうべきか。「啓司さん」と照れた様子で呼ばう様の、なんと可愛らしかったことか。
「お父さん?」
 いつの間に、家族の役割で呼ばれることが当たり前になったのだろうか。
 柔らかな抑揚が耳を打つ。疑問の形をなしていた声音は、次第にとげとげしさを含み始めていた。
 「お父さんてば。聞いてますか、なにをぼうっとして。書類、見てませんか?」
 もう、と締めくくられた言葉にはたと考える。書類、とは。
 時間にしてコンマ何秒とする間も、ざあっと血の気が引いた。血の気の引く音を聞くなんていう経験はそうないが、あまり味わいたくない感覚。
「書類? 見て、ないなぁ」
 平静が装えただろうか。しどろもどろになっていないだろうか。新聞に手を置き紙面の文字を指でなぞるが、ごまかそうとしているだけに過ぎない。うっかり新聞を持ち上げその下に隠した書類――おそらく妻の探しているもの――を見つけられてはかなわないと必死で動かしているだけなのだ。
 そうですか、と香恵は返しながら、どこやったのかしら、困ったわとつぶやく。なくなると困るのか。そうか。
 吹き出す冷や汗が止まらない。額にも玉になって浮かび始めた気がする。どうしよう、どうしたら。
「まぁいいか、また取りに行けばいいし」
 面倒だけど、仕方ないわよねぇ。
 続いた言葉に動悸がした。そうだ、離婚届は役所に行けば、白紙なんていくらでも手に入る。また取りに行って、書くことができるのだから。ていうかそんな大事な書類、どこかに行ってもいいのか。何回でも書き直せばいい、みたいに思ってるってことか。絶対に離婚する、という決意が固まっているのか。
 紙面の文字を眺めるも、視線は滑るしそもそも焦点が合っていないから読めない。字も読めなくなるとかどれだけ動揺しているんだ、自分。
 軽い調子で結論を出し、気を取り直した妻は鼻歌なんて歌いながらフライパンに卵を落としている。
「あ、お父さん」
「なんだ!?」
「老眼鏡ないのに読めてるんですか?」
 新聞、と指を指され、そりゃ読めんわ、と納得した。思った以上に己がどうしようもなく追い詰められているんだと、啓司は改めて思った。

 喜里川啓司の日課は、朝食後の散歩だ。ただし、その足取りは重い。
 いつもなら、妻とともにたわいない会話を楽しみながら近所の旨いパン屋のトーストと、ゆで卵とサラダか果物を食べて満足して家を出る。だが、。残念ながら本日の朝食は味がしなかった。懐に忍ばせた、とんでもない爆弾のせいだ。
 妻の目を盗んで、なんとかあの緑色の枠で囲まれた書類は隠し持って出てくることができたが、これをどうしたらいいものか。
「いや……そもそも「また取りに行けばいいし」なんて言っていたな……」
 ぼそりとこぼして眉根を寄せる。
 香恵は本当に自分と離婚するつもりなのか。定年後の熟年離婚など珍しくもない、そう、珍しくなどない。
 ただ、それが己の身に起ころうとは全く思っていなかっただけで。
 体が重い。頭も重い。まさか自分が香恵に三下り半を突き付けられる日が来ようとは夢にも思っていなかった。
 結婚して三十五年。子供たちもみな独立して、二人で悠々自適な暮らしができると思っていたのに……
 そもそも香恵が離婚の決意があるとして、きっかけはなんだっただろうか。啓司は考えてみた。己の過失はなんだろうか、香恵が結婚生活をやめたいと思うような出来事。
「おう、喜里川さん! 今日も元気そうだねぇ!」
 考えを巡らせ始めたところで、割り込むように声がかかった。相手よりもさらに元気がよさそうだ、と返したくなるような快活な響きは、すぐ近くからのものではない。
 道の向こうから駆け足で啓司と同じくらいの年齢の男が現れ、近寄ってくる。右手にリードを持っていて、その先には犬がつながれていた。
 啓司はあまり犬には詳しくないが、香恵が一緒にいた時に言っていたので覚えている。たしか、シェットランド・シープドッグ、だったか。
 さらさらの三色の毛をなびかせながら、男と一緒に近寄ってくる。
 啓司は立ち止まると男に向かって片手を上げた。
「葛野さん、おはようございます」
「おはようさん、今日もいい男っぷりだ! 散歩かね!」
「ええ」
「うちもこいつのお供でねぇ。なぁ、マル!」
 マル、と呼ばれた犬は聞いているのかいないのか、啓司のそばに寄ってくるとズボンの裾をふんふんと嗅いでいる。啓司にとって、犬は得意でもないが、苦手でもない。しかしなぜか、割と好かれるほうだったりする。
 確か、香恵がそれを見て「ずるい!」と怒ってきたこともあったな。思い出しながら相変わらず裾をかいでいるマルに手を伸ばし、頭を撫でてやる。マルは慣れた様子で撫でられているが、葛野はそれを見て小さく口笛を吹く。
「相変わらず喜里川さんのことが気に入ってるなぁ。俺が撫でると嫌がるくせに!」
 などと言いながらかがみ込み、首元を抱えて顎を撫でると、「ウルゥ」と小さくマルが唸った。とはいっても牙は向いておらず、単純に抗議の声をあげただけらしい。ぐりぐりと葛野が抱きしめてもやれやれと言った様子だ。マルはしばらく我慢していたが、いい加減に飽きたのか、人間で言えばため息でもつくかのように鼻から大きな息を吐き、お座りをした。
 抱きしめにくくなったので諦めた葛野は、名残惜しげにマルの頭を一度撫でて立ち上がる。よろしい、とでもいうようにマルが息をつくのを見て、啓司は吹き出した。
「葛野さんがマルを大好きで構いすぎるから、じゃないです? ほら、マルに呆れられてますよ」
「そりゃあ、マルは日本一の愛され犬だからな!」
 カラカラと笑って葛野が断言する。愛犬家、と言うより犬バカだ。朗らかで気さくな葛野は毎朝こうやって声をかけてくれる。マルもまた、自分を見つけると尻尾を振ってくれる。それは、間違いなく楽しい朝の日課の一つ。
 だが、ふと心によぎる影に笑顔が少し歪になるのを、一人と一匹は見逃さなかった。
 マルが鼻面を啓司の足に寄せるのと、葛野が声を上げるのは同時だった。
「喜里川さん、どうしたね? なんだか落ち込んで見えるが何かあったかね」
 人のい葛野は、人のことにもよく気がつく。マルもまた同じようで、喜里川の微妙な心の規模を捉えたらしい。
 だが、おいそれと言える話題ではない、と思うと問いに対する回答をするには口が重くなる。黙って眉根を寄せてしまった啓司を、葛野は心配そうに見つめてきた。
「どうしたどうした。辛気くさい顔をして。”イケメン”が台無しだよ!」
「いやぁ……」
 それが、と話してしまいたい気もする。が、「実は、妻に離婚されそうなんです」とこんな道の往来で気軽に相談してもいいものだろうか。葛野も結婚して数十年と経っていると聞くが、いつも「うちの母ちゃんはきつくて!」と笑いながら愚痴っている。そんな彼にこの話をして、「じゃあ、離婚すればいいんじゃないか?」とあっさり言われてしまったらどうしよう。
 どうしよう、と思った瞬間に感じたのは、自分がどうしたいか、ということだった。どうしよう、には「離婚しないようにするにはどうしたらいいだろう」が含まれている。
 そうだ、俺は香恵と離婚などしたくない。
 その気持ちに嘘はない。だが、すぐに「でも、香恵は離婚したいのかもしれない」と思い至って、持ち直しかけた気持ちが沈む。
 一人で黙って百面相を始めた啓司を、葛野は辛抱強く見ながら答えを待っていた。葛野は毎朝マルを散歩させていたが、定年を迎えてのんびりと散歩している啓司と会うようになって、真面目で堅物だと思っていた彼が案外と面白い人物だと分かった上に、会えば穏やかに交わされる会話が楽しい。日々楽しく話せる友達、になってもらえたと思っている。そんな彼が気落ちしているなら、なんとかしてやりたいと思っていた。
 だが、これはなかなか難しそうだぞ、と思っていた。そして同時に、やっぱり面白いな、この人、とも思っている。
「言いにくいなら」
 言いかけた葛野の言葉を、啓司の悲鳴が遮った。
「うわ、マル!」
「マル、どうした。何を……」
 止める間もなく、マルが啓司の後ろに回ると、尻ポケットから何かをくわえて二人の間に戻ってきた。そしてぽとりと落とす。
「ん?」
「あ!」
 さすが、毎日犬と散歩しているだけあって体力も瞬発力もある葛野のほうが一足早く、拾い上げる。マルがくわえて持っていったのは、家から隠し持ってきた、あの「緑色の用紙」だった。
 目下の悩みの種は葛野の手の中に収まり、書類に書いてある文字を見て目を見開いた。
「こりゃあ……」
 用紙の中身に、さすがの葛野も絶句している。それはそうだろう。まさか、朝の散歩に離婚届を持ち歩いているなんて。まだ役所の窓口は開いていない。用紙を受け取るとしたら、昨日の開庁時間中、もしくは自宅で書式をダウンロードして印刷するしかない。そして、それを持ち歩いているという意味を、葛野はすぐに察したらしかった。
「喜里川さん、奥さんと離婚を考えてるんで?」
 あ、いや、と慌てた啓司の様子に構うことなく、葛野はがしっと啓司の肩を掴んできた。
「そこまで追い詰められていたのか!? あの可愛くて優しい奥さんと何かあったのかい!?」
 がくがくと揺さぶられて、啓司は何も言えない。違うんです、自分じゃ無くて、家で発見したので思っているのは妻の方だと思っているんです。そう伝えたいのに、口を開くことができない。
「ワン!」
 マルが吠えて、葛野ははっと動きを止めた。同時に揺さぶりも止まる。
 思わずかがみ込み、息を整える啓司の頬を、マルがぺろりとなめてきた。犬、人間の機微に聡いんだな。もしくは救助犬か。
 回らない頭で考えていると、葛野が慌てて手を貸してくれた。
「悪い悪い、ちょっとびっくりしてな」
「いえ、私も変なものを持ち歩いてまして……」
「そうそれ! 喜里川さん、早まっちゃ行けないよ」
 また葛野の暴走が始まりそうな気配に、啓司は慌てて説明をしなければならなくなったのだった。
「で、食卓にこれがあった、と」
 葛野がこれ、と示すのは、折りたたまれた離婚届だ。今朝の経緯をなんとか説明し、離婚しようと思っているのは自分ではなく妻だと思うと伝えると、葛野は腕組みをしてうーん、と唸った。
「本当か? いや、そんなことはないと思うんだけどなぁ」
「なぜ、葛野さんが言い切れるんですか?」
「いやだってね、喜里川さんとこの奥さん、こないだうちの母ちゃんに相談したって……」
「相談?」
「あ」
 今度は葛野が声を上げて固まった。目を泳がせ、白黒と顔色が変わっている。
 全部は言えないが、妻の香恵は啓司との離婚を考えている可能性は薄い、と葛野は繰り返した。なぜ全てを言えないのかと問い質すと、
「俺が話したことがばれたら母ちゃんにドヤされる」
 とおびえながらの答えだったので、啓司は諦めた。葛野の妻である由季子の恐妻っぷりは、町内でも有名だ。気前が良くて明るい由季子だが、葛野への愛ある指導は大変に厳しいのだ。
 その彼女から口止めをされているというなら仕方がない。理由は聞けないが、少なくとも先ほどまでの気鬱の原因の一つが少しだけ晴れたのは良いことだ。そう自分に言い聞かせる。
「でも、なんでこれがあるかわからなくて」
「まぁ、そうだよな」
 緑色の用紙を男二人が見つめる姿は、異常だろう。幸い、この通りはあまり人が来ない。朝の早い時間でもあり、立ち話をしていても問題ないところではある。だが、二人の顔は真剣だ。
「わからないものはわからない、が、ちゃんと中を見たのか?」
「いえ、名前が書いてあるのを見ただけで」
 届け出の用紙には、夫の欄と妻の欄、それぞれに名前が記載してある。間違いなく、それぞれの名だ。自分で書いた記憶はないから、香恵が書いたのだろう。筆跡も記憶にあるとおりだ。
 そうか、と葛野が一つ頷いた。そのまま持っていた離婚届を開こうと指をかける。
「全部書いてあって、印鑑まで押してあるか確認してから、帰ってどうするか決めた方がいい」
 そう言って、開いた紙面の中身は、啓司の目の前に広げられた。葛野は見ていない。気遣いのできる人だな、とぼんやり思う。
「あ」
「どうした?」
 言葉を失った啓司は、用紙を両手で持って引き取ると、そのままひっくり返して葛野に見せた。同じように葛野は眺めて「あ」と口にし、その後大きく笑い出す。
「こりゃ、一本取られたねぇ!」
 ばんばんと背中を叩かれて涙目になりながら、啓司も思わず笑ってしまっていた。
 四つに折りたたまれた紙面の、左下。大きく「絶対にしません!」と香恵の字で書かれていたのだった。
 けらけらと笑う男二人の足下で、マルはくわりとあくびをしていた。

 折りたたまれた紙面を指で救い上げるように拾い、香恵は懐かしそうに目を細めて開いた。
「これを見て、あなたがどう思うか、なんて考えたこともあったわねぇ」
 自分の決意が書かれた離婚届を眺めて、香恵はしみじみとつぶやく。離婚する気などまったくなかったが、どんなものかと別の用事で訪れた役所の窓口で用紙を受け取り、記入し始めてみた。だが、途中でなんでこんなことをしているんだろうと馬鹿らしくなって、「絶対にしません!」と書き殴って引き出しにしまい込んだ。
 そのまま、忘れてしまっていたのに。
「あの人、見つけてびっくりしたでしょうねぇ」
 探していたのは、町内クラブの催しの申込書だ。なくさないようにと保管しておいたのが、今回の書類のあった引き出しというわけだ。
 思わず笑いがこぼしながら、香恵は夫の顔を思い出す。
 散歩から帰ってきて、とても気まずそうにしながらおずおずと差し出してきた用紙とともに、「黙っていてすまない」と謝ってきた夫の、なんたる可愛らしかったことか。いつもは真面目くさって面白みのないような人なのに、ふとしたときに崩れるあの表情に惹かれてここまでともに暮らしてきたのだ。
 目を丸くして受け取って、思わず吹き出した香恵を、目を白黒させながら「えっ、あっ、なに……」と戸惑っていたのも可愛らしい。説明した後にはへなへなと腰が抜けていた。それも、可愛いと思ってしまった。
 そういうやりとりばかりが、後から後からこみ上げてくる。
 細々と思い出せば怒りも悲しみもあったはずなのに、なぜか胸にこみ上げるのはこういった些細な「面白いこと」だったり笑えるようなこと、嬉しかったことばかり。
 人生は喜劇だ、と言ったのは誰だったか。そうだ、確かチャップリン。もう少し長くて、ちょっと違っていて、そしてもっとしっかりとした意味のある言葉だったような気がするけれど。それはともかく、いろんなことがあっても人生は喜劇だな、と香恵は思う。
「こんな年になって今更だけど、私も同じ気持ちだから」
 だから、これからもいろんなことを話して、いろんなことを分かち合って、もう少し一緒に生きてくれないか。
 全てが明らかになった後で、はにかんだような顔をしながら夫が言った言葉は、プロポーズのようだった。照れ隠しに、そうですね、とだけ応えたら、そうか、と安心したように笑っていた。
 こんな毎日が、たわいもない優しい生活が、いつまでも続きますように。喜劇のようでいいじゃない。悲劇よりよほどいい。
 いろんなことがあっても二人で話して、乗り越えてきたという自負がある。
 だからこれからもできるだけのことをして、二人で。いつまでも。
「結婚って、おもしろい契約だわねぇ」
 ため息をつきながら、香恵は笑って再び離婚届を引き出しにしまった。それは宝物を隠すようで。
 そうして寝室から出て、夫の元へ向かう。今日は、夫の誕生日だ。葛野夫婦に相談とお願いをして、同年代の男性が喜ぶプレゼントを参考に聞き、美味しいケーキ屋さんを教えてもらって甘さ控えめのケーキを用意したのだ。
 さて、それを見たあなたはどんな顔をするかしらね?
 香恵は口元に指を添えて笑いながら、これからもっと、どんな楽しいことをしようかしらとわくわくしている。
 病める時も、健やかなる時も、死が二人を分かつまで。
 そんな誓いを立てたのは、遠い日のこと。けれど、違えたくない変わらない決意。一人で抱えていた小さな秘密は、一人から二人のものになった。抱えて生きていくのだ。あなたと、ずっと。
 日々を分かち合って、分かち合えなくなるまで。ずっと。

IM 喜劇~星野源


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