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第一一節 芝生の上の革命

 革命家になるためにはいったいどのような資質を持つべきなのだろうか。こと細かく管理できるマネジメント能力。仲間を目指すべき方向へと導いていくリーダーシップ能力。必須の要素を挙げていけばきりがない。
 ただひとつだけ思うのは、英雄たちは最初から英雄であったわけではないってことだけだ。
 革命なんて大小様々ある。国そのものを根底から変えてしまう革命もあれば、目の前の課題を真摯に解決する革命も確かに存在する。望むと望まざるとにかかわらず、すべては革命のあとに英雄と呼ばれ、慕われたる。
 要は捉え方だ。それを革命だと思えば革命だろうし、そう思わなければそうはならない。だから革命とはみずからの思いによって生まれ、成就され、もしくは瓦解し、やがて英雄が誕生するものなのだ。

 昨シーズンに引き続きセレッソ大阪のホームゲームは長居第二陸上競技場が使用されることになっている。
 隣にある長居陸上競技場が改装され数年後にはホームスタジアムとなることもすでに決まっていた(中学二年の頃だろうか体育祭でトラックを走った思い出がある。あの場所にまた戻ってこれたと思うと、小ぶりなダンスを繰りだすほかない)。
 JFL時代(ほんの一年前だけど)にメインスタンドを占めていたセレッソ大阪サポーターの中心部も、Jリーグ昇格に合わせてポジションチェンジする運びとなった。
 まあ言ってしまえば元からメインスタンドで応援し続けようなんていう考えにかなりの無理があったわけだ(それは金銭的にもという話が多分に含まれる。なにせJリーグだ)。
 歌い終わってマイクを足元にそっと置く百恵ちゃん同様に、ためらいもなく過去の栄光を脱ぎ捨てるのもサポーターにとっては大事な決断だ。それが既定路線であると言えるのかもしれない。
 応援場所の問題はセレッソ大阪サポーターにとってのターニングポイントだった。メインが駄目ならバックスタンド、を熱望するサポーターと、当然ゴール裏が熱狂的な者にとってのプレイス、だと考えるサポーターで二分された。
 もちろん前者を選択する理由は星の数ほどある。芝生席である以前にピッチすれすれという目線の高さと、なだらかな丘を想起させる流線型。ゴール裏の欠点を挙げはじめたらそれこそきりがなかった。
 サポーターはゴール裏という強い信念が世界中のあっちこっちに存在しているのも紛れもない事実だ。
 そういうぼく自身もゴール裏でこそ光り輝くと思っている当事者のひとりであり、内に秘めるサポーター・アイデンティティもそう言っている(だけど国内外には、ゴール裏以外に陣取るサポーター軍団がいるのも周知の事実であり、ここではそれ自体を問うことを目的としていないので割愛する)。
 バックスタンドに行くのか。
 それともゴール裏を陣取るのか。
 サポーターの多くがその選択に注目している。そして、その注目は、ぼくの動向を気にかけてのことだいうのもひしひしと感じた。
 忌憚なく言うとすれば、それは、ぼく自身の存在証明が試される、いわばテストなものでもあった。開幕戦の広島からの帰り道。あの神戸を通過した夜。まさにそのとき頭をよぎった二項対立だ。
 いよいよJリーグのホーム初戦だというのに聞こえのよろしくない四文字熟語を気にしながら毎日が過ぎていく。なんとか自分の葛藤に折り合いをつけるべく選択したのは、バックスタンドとゴール裏の中間地点というぼくらしくない妥協だった(裏はなんとトイレなのである)。
 折り合いと呼ぶにおこがましいくらいの優柔不断っぷりだ。決断が正しいのかどうか、判断すら徐々に鈍っていく感がある。
 周りへの当たりも当然ながら強くなってしまい、とうとう喧嘩をはじめてしまう始末(これは百歩譲ってもぼくの失態である)。こうなるともう応援は成り立っていかない。セレッソ大阪、いや、サッカーどころの騒ぎじゃなくなっていた。

 そんなサポーターの問題などお構いなしに、Jリーグ初年度のセレッソ大阪は順調に勝ち点を重ねていった。コンクリートに未来への軌跡を残したあのサンフレッチェ広島戦から三連勝を達成していた(雨の草薙には行けなかったのが残念だった。記念すべき森島寛晃のJリーグ初ゴールなのに)。
 それほど驚くことでもないのかなともぼくは思った。少なくともこの時期くらいまでは、一定の結果を天皇杯で出したカウンターアタックが通用するのもある程度わかっていたからでもある。洗練されたプロサッカークラブは、じつに初物に弱い。
 まだそういう恵まれた環境にあるセレッソ大阪ではあったけれど、サポーターのレベルでは崩壊が近づいていた。両者の話す次元がかけ離れていた。
 二項の価値観が交わることのできない限界点に達しかけている。水と油。強いていうならペレとマラドーナ。神様と王様。クリンスマンとマテウスにも近い。とにかく相性は落ちるところまで落ちていた。
「日本人ならお茶漬けやろ」。ぼくはとことん”あるべき論”を探そうとした。「最終的にセレッソ大阪サポーターでスタジアム全体が包まれる日は必ず来る。そのために今やれることとは一体なのなのだろうか」。
 考えに考えた末、気がついたときにはぼくはゴール裏の芝生の上に立っていた。青臭く、そして、砂埃が舞うこの場所から、ぼくは新たなセレッソライフのスタートが切っておとされた。

 結果的には最後となったミーティングで、ぼくは最後通告を受けた。この瞬間、ぼくは話し合いの席すら離れ、完全にゴール裏を中心としていく決意を固めた。
「お前らのリーダーは行ってしまったぞ。どうするんや」
 これまで戦ってきたアミーゴに向けて浴びせられる怒声が、すでにかなりの距離を保っていたぼくの耳にも届いてくる。ひとりになったとしてもゴール裏に行くつもりだったし、その覚悟もできていた。そんなときだった。
「俺はあの人についていきますよ」
 何人かのアミーゴからそんな声が聞こえた。このとき初めて「ぼくの選択は間違っているのか、それとも正しいのか」自分の責任ついて真剣に認識するようになった。子供が大人になる瞬間。責任という重しを身体に巻きつけることで人は成長する。
 ぼくの決断を信じて緑色の世界へと集まってくれた多くのアミーゴの存在は大いなる勇気をくれた。
 ぼくはようやく理解した。アミーゴとは、いつもそばにいてくれる存在であり、そして、ともに次のステージへと連れ添ってくれる存在なのだと。そう改めて思った(これが一生続いていくのは言うまでもない)。

 ところがまた事件が起こってしまう。
 どういう理由かわからないけれど、前後二層構造になっている長居第二陸上競技場のゴール裏に太鼓を持ち込めないというルールが施行された。とにかく前代未聞の状況でもあった(他のスタジアムで同様のルールがあったならば素直に謝る)。
 アミーゴが強引に太鼓を持ち込もうとすると警備員が来て制止する。「通せ」「通すな」の押し問答がいたるところで頻発した。
 しかしながら決まりは決まり。どんな世界でもルールはルールだ。とにかく、こんなことでへこたれているようでは、ここからはじまる新たなセレッソ大阪サポーター作りなどやっていられない。
 声と拍手だけでも選手の足を動かす原動力になるってことは、ずっと信じてやってきたはずだ。ぼくらは体全身をフルに活用し、自分たちを信じて、そして選手を信じて戦い続けた。
 太鼓がない状況は逆によい流れを生んだ。腹から声を出すことに集中するアクション。お互いの手拍子を合わせようとするマインド。なにより、試合を重ねれば重ねるほどゴール裏サポーター全員の意識が統一されていくように思えた。
 怪我の功名なんてことは言わないまでも、まるで幸せと不幸せはシーソーのように順番にやってくるものなのだなとぼくはしみじみ思った。

 ピッチ同様に風に漂う芝生の匂いを感じる。ぼくの鼻腔をくすぐり続ける長居第二陸上競技場のゴール裏は、グラウンドに立つ選手たちと同じ空気感でいられる夢の劇場だ。
 束縛の鎖が少しずつ解けていく肌感覚がある。サポーターとして、そしてコールリーダーとしての「セレッソライフ」。ようやくこの頃のぼくはそれを楽しく感じられるようになっていた。
 程度の違いはあれどカストロやゲバラのようなゲリラ戦を繰り返してぼくは仲間を募っていく。草の根的(芝生だけに。ひとつ注意が必要なのは雨の日のゴール裏の芝はとても滑りやすいということだ)にゴール裏サポーターは増えはじめた。
 マラソンゲートを挟んで左右にセパレートされている長居第二陸上競技場のホーム側ゴール裏をぼくは見渡す。至るところに新しい仲間がいる。真の劇場を創る土壌が少しずつ芽生えていることに、ぼくは喜びを隠しきれなかった。
 自然との共存も相まって、初夏ともなるとピクニック感覚で座りながら観戦する家族もいた。また新たな課題が生まれそうな予感がするけど、それはそれで長居第二陸上競技場のゴール裏なのかもしれない。
 このステージからきっと素晴らしい物語が進んでいくはずだ。その日が来るまではこのゴール裏を目一杯の観客数にしなければという使命がある。ぼくは自然と身が引き締まる思いを感じていた。
 これだけははっきりと言える。ぼくがおこなったこと、ぼくが取った行動はけっして間違いではなかったのだ。キーパーの守るゴールの、さらに裏の裏。この場所こそがセレッソ大阪サポーターにとっての紛れもない聖地なのだ。

 ぼくはあたり一面に広がる芝生席に寝転がってみた。大阪の空がやけに大きく見える。
 サポーターになってセレッソ大阪を支えはじめてからというもの、こんなにゆっくりとスタジアムの上空を見あげたのなんていつ以来だろうか。もしかすると初めてかもしれないなと思うと、ふいに涙がこぼれた。
「あるべき姿…あるべき姿…」
 人の耳に触れたところで聴き取れるかどうかもわからないくらいの音量がぼくの口内から出たがっている。いつもなら思ったことを口にしてしまうぼくが、なぜかひと呼吸を置いている。
 実に不思議だ。なんだか証拠を見つけ、口に出したくてウズウズしている探偵のような気分である。「犯人はこの中にいる!」。もしかしてぼくを確信犯と呼ぶべきだろうか。
 けっして革命を成し遂げたわけではない。ただ、セレッソ大阪サポーターの”あるべき姿”を導こうとしただけの単純な作業だ。場合によってはぼくはこの場から消されていたかもしれない(そうなっても次の人がやり遂げようとするだけなのだけど)。
 仕事でもなんでもないのに、こんなにまで精魂込めてアクションをおこなっていける自分の人生を、恨むなんてできるはずがなかった。
 またいつか、ゴール裏サポーターグループを導く過程でなにかの波乱が巻き起こるだろう。だけどそんなのを気にしている場合じゃない。
 ここまで四半世紀の人生を歩んできて、今ここが一番充実しているかどうかなどもうどうでもよくなっている。ゴール裏サポーターが奏でる第二楽章のタクトはついに振られたのだ。
 声が漏れ出ようとする口角になぜか水気を感じた。図らずもまたぼくは泣いていた。誰もいない芝生の上。革命家を気取るなんて、偉そうな舞台はどこにも存在しない。ただただ緑だけがそこにあった。

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