cerebaka
セレッソ馬鹿いばまさひろが徒然なるサポーターの日常を描いていきます。多分毎週土曜日更新(のはず)。
「大阪の街の誇り、みんなの人気者!」ぼくの愛するJリーグクラブと、ともに過ごした三〇年。それは何気ない朝の目覚めからはじまった。ジェットコースターと呼ばれるセレッソ大阪をサポートするのは本当に楽じゃない!! 果たして、これは真実なのか?それともフェイクなのか?物語なのか?それともノンフィクションなのか?人生の一部なのか?それとも人生そのものと言ってしまえるのだろうか? 現実と妄想を行き来するサポーター人生「サポーター生」をぼくは歩み、そこで目にしたものたちが今、鮮やかに蘇る。事実と空想をさまよう摩訶不思議で極上の「セレッソライフ」をご堪能あれ。
万年中位のプロサッカークラブ「中野アーセンツ」。 そんなクラブと共に生き続ける人々。 彼らに起こる苦悩と光。 その度にゴールを決める引退間際のベテランストライカーの存在。 これは果たして誰かの手によるものなのか。 やがてクライマックスに訪れる奇跡の真実。
個人noteから移行しました。個人noteは近々閉鎖します。
けんちゃんとくるまいすのすてきなものがたり。 ものをたいせつにするきもち。 ものといっしょにいきていくきもち。 2012年作
オリンピックのサッカー競技を見るといつもなぜか決まって釜本邦茂さんに似たおじさんのことを思い出してしまう。銅メダルを獲得した時にはまだ生まれていないし、当たり前だけど釜本さんのプレーなどほとんど見たことも無いのにどうしてなのだろう(似たおじさんはまったく関係ない)。 そんなどうでもいい思いをしているあいだに男子は敗退してしまった。オーバーエイジを入れる入れない問題は過去のものとなり、素晴らしい戦いだったのではないだろうか。時差の関係でほとんどリアルタイムは夢のなかで過ごしてい
線路に沿って道なりに歩くと正面にヨドコウ桜スタジアムのメインスタンドが見えてきた。日本全国どのスタジアムでもこの瞬間がたまらない。最高級の興奮をぼくに与えてくれる。 でも、スタジアムに入るのはまだ早い。 売り出されると同時に多くのセレッソ大阪サポーターが買いに走ったという伝説の白いマンションを左に折れ、やがて一軒のカフェレストランに行き着く。 建物の二階フロア。そこが目的の地。旅の終着点だ。 二〇二〇年四月三〇日。新型コロナウイルスが猛威を振るう厳しい局面のなか、ア
長い長い年月を耐え抜いた末にようやくぼくは大阪の地へ向かうことになった。実に一年と数ヶ月ぶりの帰阪だった。頻繁に大阪に戻ることはなくなっていたけれど、ことあるごとに故郷がある喜びをぼくは噛み締めていた。 今回の主たる目的はこうだ。 当然のことながらセレッソ大阪の試合が一番。ヨドコウ桜スタジアムでおこわれる川崎フロンターレとの一戦だ(川崎との対戦時にはいつも感じるけれど、やはり二〇〇〇年の長居スタジアムはなにかの呪いが充満していたとしか思えない)。 もうひとつはF.C.
「『はじまりがあるものにはすべて、終わりがある』・・・私はなんと言った?」 映画マトリックス・レボリューションズでエージェント・スミスの放つこのセリフがぼくは好きだ。 はじまりがあって終わりがある。 それだけで完結していたならぼくの心にまったく響いてはこなかっただろう。 最後の「私はなんと言った?」が直接的にぼくの胸へと突き刺さってくる気がした。なんとなく自分の生き様を投影しているように思えてならなかった。 サッカー観戦なんてただの道楽だと見る人は一定数いる。逆に人
二〇一七年というセレッソ大阪にとって重要な一年を語る前に、言っておかなければならないことがある。 クラブにとっての悲願は主要大会におけるタイトルだ。しかしながら日本フットボールリーグ(JFL)の優勝以外になにかを成し遂げたのかと言われれば皆無である(J1昇格プレーオフを主要大会と認めていいかどうかは議論の的だ。もし是とするのならば一応優勝したことにはなっている)。 いつしかシルバーコレクターとさえも呼ばれなくなった。セレッソ大阪として、大阪市のサッカークラブとして、どう
REAL OSAKA ULTRAS(レアル・オオサカ・ウルトラス)。真の大阪は誰かと聞かれたら一目瞭然だろう。一定のサイクルで昇格と降格を繰り返すクラブ。愛おしいと思えたなら今すぐにでも長居スタジアムに行くべきだ。ぼくは声を大にして言いたい。 仮に、そんな思いに駆られなかったとしても長居公園はぜひとも訪れてみてほしい。いや、訪れるべきだと思っている。 公園内にはスタジアムが三つもある。他にも数多くのスポーツと触れ合える環境が存在している。さらには植物園を中心とした自然と
ちょうど二〇周年という節目の年をセレッソ大阪は迎えた。AFCチャンピオンズリーグへの二度の挑戦権を含むこの三年間の実績をどう超えていくのか。戦略を立て、戦術に落とし、そして結果を求められる一年になる。 戦略とはなにを捨てるかからはじまるのだとよく言われる。しかしながら口で言うは易し。どうしても人間は過去の成功例にすがって生きてしまう生物でもある。 今日うまくいったからといって明日から同じような毎日が繰り返されるわけがない。クラブもそう感じていただろう。だからこそ短期間で
どんなサッカークラブにも思い入れのある背番号が存在している。一〇番なんてものはとてもわかりやすい例だろう。 キャプテン翼への依存度が高すぎるのか、九番、一〇番、一一番をつけるのは並大抵のことではないし、パワー、技術、そしてガッツのすべてが必要だ。 さらには海外のサッカー選手もかなりの影響をおよぼしている。 パオロ・マルディーニなら三番(古い)。 ヨハン・クライフが好きなら一四番(もっと古い)。 もちろんクラブによっては愛される番号が違う。この背番号問題についてぼく
父親が死んだ。 ちょっとした風邪の症状で緊急入院したあと意識がなくなったと母親から連絡をもらった。翌朝、急いで新幹線に乗り込んで大阪へと向かった。病院に着いた頃はまだ小康状態を保っていた。けれどその日の夜中に医師から呼び出された。 深夜三時。到着すると医師が「お父さんに声をかけてあげてください」とぼくらに向かって言った。母親は何度も、お父さん、お父さん、と呼びかけている。しかしながらぼくには声のかけかたひとつ思い浮かばなかった。 それでもとにかくこの場でなにかを言った
二〇一一年二月二六日土曜日五時一〇分。 二〇年経たずしてアジアとの戦いに挑めるとぼくは想像すらしていなかった。昨年のJ1リーグ三位という成績は、はたして実力なのか、それともフロックと呼ばなきゃならないのか。判断することなどぼくには到底不可能だった。 ただひとつ言えるのは、結果としてこうなったという事実だけがそこにあることだ。穿った見方をせず素直に受け入れていくのも人にとっての成長への大事な要素だ(プロレスで言ったら若手レスラーをタイトルマッチに挑戦させることに近いのかも
ぼくはずっとナラティブ・アプローチで人生を歩いてきた気がする。何章もの言葉たちがつらなることで物語となっていく。これまでと、これからが、どのように折り重なって構成されるのか。ここのところずっと、セレッソ大阪サポーターにとってのストーリーを熟考する日々が続いていた。 一九九三年のあの日から長居の悲劇までを第一章。二〇〇〇年代を第二章とするならば、はたして、今ここから第三章がはじまることになるのだろうか。まるで妄想の世界で生きているかのように、寝床に入るたびに夢のなかで組み上
例のクラブスタッフから『ミーティングをしたい』との電話連絡が入ったのは今からちょうど二年前のことだった。セレッソ大阪のサポーターになってからというもの話し合いなど星の数ほど存在している。だけどそれらの話し合いはけっして重要なものばかりでもなかった。 クラブスタッフの声色からはさほど重要性なものの空気を感じ取れなかった。電話の先から聞こえる声は『いい話だから』を何度も繰り返している。それでも過度な期待をせぬようぼくは冷静に努めた。 有史以来、クラブとサポーターの話し合いに
『大晦日の昼に美味い蕎麦でも食いに行こう』という文字が手のひらで白く光っている。左手でギュッと握りしめているガラケーの液晶画面。セレッソ大阪の演出を一手に担う、通称”先生”からのメッセージ。たった今届いた一通のメールをぼくはしばらく眺めていた。 よかった。 天皇杯は二回戦で早々に敗退していたからこれで大晦日は時間を持て余さなくて済む(とは言ってもJリーグでもJFLでもないサッカークラブに先制された上に終了間際に勝ち越しを決められるという体たらくな試合。腸が煮えくり返る思い
むかしむかし、あるところに青と黒の姿をした鬼がいました。この鬼。自分は弱いくせに自分よりも弱い村の者をいじめたりして暮らしていました。 怒りが限界に達していた村人たちは、この悪い鬼を退治してくれる誰かを探していました。ひとりの者は遠くまで探しに行ったり、また別の者は山に登って神様にお願いをしたりしていました。 そんなある日。 村にひとりの若者がやってきました。若者は桃色の鎧を身にまとっており、その背中には満開の桜の花びらが描かれていました。 しかし、村人が気になった
スルガ銀行チャンピオンシップが開催される運びとなった。Jリーグカップ王者と南米のコパ・スダメリカーナ王者による国際試合 ― 公式戦 ― が日本でおこなわれることをぼくは新聞で知った。 日本代表もそうだけど、世界との戦いに向けて日本サッカーはレベルアップが必要だ。国家代表と同様にJリーグクラブも世界の強豪との真剣勝負がことさら重要になっている。 今回のような南米のクラブ対日本のクラブの構図は日本サッカー協会が考える強化策の一環なのだろう。嬉しい話だとぼくは素直に思った。
様々な思いが交錯しながらも、それでも最終的にぼくは東京に住処を変える決意をした。花の都に憧れを抱いてなかったかというと嘘になる。人との出会いの数や経済規模なんかで考えてみても、間違いなく日本第二の都市 ― と自負している ― 大阪との比ではない。 大阪市の西のほう。大正区で生を受けて四〇年近くをともに過ごしたこの街はいつまでもぼくのホームである。アミーゴ、そして多くのセレッソ大阪サポーターとときを同じくする機会が極端に少なくなるだろう。それがとてつもなく寂しかった。 ま