第二七節 おじさん、引退を考える
ぼくはずっとナラティブ・アプローチで人生を歩いてきた気がする。何章もの言葉たちがつらなることで物語となっていく。これまでと、これからが、どのように折り重なって構成されるのか。ここのところずっと、セレッソ大阪サポーターにとってのストーリーを熟考する日々が続いていた。
一九九三年のあの日から長居の悲劇までを第一章。二〇〇〇年代を第二章とするならば、はたして、今ここから第三章がはじまることになるのだろうか。まるで妄想の世界で生きているかのように、寝床に入るたびに夢のなかで組み上げられていく。
この先のぼくのセレッソライフが、いったいいつまで続くのかなんて想像もできない。だけど、これまでと一緒で、順風満帆に進むことはない。それだけはっきりしている。刹那的な生きかたがぼくの性にはあっている。
それでも、だ。どれだけ時代が変わったとしても、そして、セレッソ大阪のサッカーのスタイルが変化していこうとも、ぼくのセレッソ大阪サポーターの応援へのこだわりやストーリー構成はけっして変わることはない。
いや、解釈が間違っている。変わらない、のではなく、変化することを恐れない、という信念が変わらないのだろう。なんだか禅問答のようだ。
ここ数年、達観したかのような思いで、ぼくはスタジアムに集まるサポーターを見ていた。応援歌はそのひとつだ。常に俯瞰的な見方をしてしまうぼくは、いよいよ自分自身に嫌気がさしはじめていた。
評論家ついでに応援について語ろう。
先生の計らいによってPOWER AND THE GLORYは息を吹き返した ― 生き残ったとも言える ―。少なくともこの二十年もの長い時間で多くの応援歌が生まれ、そして、役目を終えて消え去っていく応援歌も存在したのは紛れもない事実だ。
なかには選手と一蓮托生の応援歌もあれば桜の八番のようにサポーター・アイデンティティとして永く受け継がれた応援歌も存在する。「モリシのゴールが見たい」なんて、言ってしまえばその最たる例だ(この応援歌がある居酒屋で生まれたことを知っている人はもう少なくなってしまった。時代の流れの速さにいつもぼくは気後れしそうになる)。
今ではご法度だろうけれど、一九九〇年代には飲み会をするたびに恒例の一気飲みなんてものがおこなわれていた。その行為を促すように「一気が見たい!」とアイドルの歌のフレーズを叫んだものだった。
いつしかスタジアムでも歌うようになり、徐々にセレッソ大阪の背番号八の応援歌として定着していった。日本代表に選出された日には、ワールドカップ予選のような国際試合でもたびたび歌われるようになっていった。
今思ってもこれほどのインパクトを与える応援だと、作った当時には思ってもみなかった。割れんばかりの「ゴールが見たい!」を聞くたびに、ほんの少しだけ心が和らいだ気持ちになった。
二〇一〇年が明けてすぐにおこなわれた西澤明訓の引退記念パーティに参加した。この二〇年弱にセレッソ大阪から去っていく多くの選手たちを見送ってきた。そのなかでも森島寛晃と西澤明訓は別格中の別格である。
セレッソ大阪との縁を大切にしてくれるふたりのレジェンドプレーヤーが長年のセレッソライフにおける常備薬のような役目を果たしてくれたことにぼくは感謝した。
とは言え、安易に選手に近づきすぎないのがぼくのポリシーでもある。選手とサポーターのあいだにはいい関係と悪い関係が煩悩の数と同じだけ数珠のようにつらなっている。そもそも人見知りな性格だし。
アキの引退パーティでも、それこそぼくはかなりの緊張の色が顔からにじみ出していた(言っておくけどぼくは大人だ。だから目的さえあれば紳士の立ちふるまいもできる)。
大盛況の大宴会場には多くの選手がいた。そうなると成り行き上でカンバセーションへと発展していく。ベテランの選手やここからセレッソ大阪で輝くであろう若いプレーヤーともじっくりと話すことができた。
いくら選手が長居スタジアムのスタンドギリギリまで来たとしても、I―四ゲートと選手との距離は物理的にも精神的にも遠い。顔と名前と生き様が直接的に選手へ届くわけがない(逆もしかり)。
届かないからこそコミュニケーションを取れなくなっていく。お互いの理解が希薄になっていく。重要になってくるのが練習場そしてアウェイということになってくる。このふたつのプレイスで魂と魂をぶつけあえるか否か。焦点はいつもそこだった。
話がちょっとずれてしまっている。
ふらふらとパーティ会場を歩いていると、ぼくはある人物と再会した。
一九九三年のファーストシュートからセレッソ大阪を離れるまで幾度となく対話したあのスタッフである。親会社に戻ってからというものお互いに連絡しあうことも少なくなっていた。
久しぶりにその顔を見たぼくは柄にもなく言葉を作り出すことすらできなかった。何年も前に別れた彼女と街で偶然出会ったらこんな不安定な感情になってしまうのだろうか。終始照れ笑いを隠せなかった。
「久しぶりやな。元気にしてるんか」
「元気です」ぼくはひと呼吸おいて言った。「いつセレッソ大阪に帰ってくるんですか」
軽い気持ちでこちらから聞いておいてぼくはハッとしてしまった。この瞬間、本当に戻ってきてほしいと思ったのだろうか。ぼくの内側は罪の意識だけで溢れていた。
時代の流れはときとして根底から人を変えてしまう。人には誰しも定めというものがある。歳を取れば取るほどドロドロしたしがらみで身体をがんじがらめにされてしまうものなのだ。
男と女。酒と泪。
過去と未来。
ヤンマーと日本ハム。
どこからどう切り取っていけばいいのか。ぼくは大人になりすぎてしまったようだ。なぜか、大晦日の蕎麦屋で先生に言われた「お前、社長やれよ」を思い出した。
人にはそれぞれ事情というものがある。この人にとって、セレッソ大阪と関わることが、はたして幸せなのかどうか。ぼくには見当すらつかなかった。
吐いた言葉を飲み込むこともできないぼくの感情を、パーティのメインイベントが覆いつくした。袴姿で登場した西澤明訓に力いっぱいの拍手を送ることくらいしか、今のぼくにはできなかった。
自分自身の自信のなさを、ここではないどこかにまで遠く飛ばそうとしている。ぼくは話の途中で枯れてしまい、中途半端すぎるエクスタシーは生煮えで、それから、我慢できずに果てた。もう立派な中年だ。
セレッソライフも第三章ともなると、ますますぼくのスタジアム巡りは混迷を極め、とんでもないくらいに少なくなっていた。
まるで銀河皇帝によってダークサイドへといざなわれていくアナキン・スカイウォーカーだ。とにかくぼくのリズムは仕事モードによって完全に洗脳されきっていた。
三度目のトップリーグで戦う我がセレッソ大阪は、昨年挙げた三〇勝以上の実績を重ねたうえにJ1クラスの選手を何人も補強した。そんなわけだからチームとして結果が出ないはずもないと高を括っていた。
そうは言っても大宮アルディージャ戦を見る限り、はっきり言って力の差を見せつけられた感があったのも否めない(この試合、かなりギリギリの到着だったから、あの距離なのに大宮駅からタクシーを使った。そのタクシーの運転手がなんとあのJリーガーの叔父さんだった。偶然的な引きにぼくは心底驚いてしまった。まあそれだけならよかったのだけど信号で止まるたびに何度もクリップされた記事を見せられて、一向にスタジアムに着かない感だけが残った)。
これは相当時間がかかるな、とか思っていたら、なんだかあっさりと課題を克服していった。レヴィー・クルピというレジェンド監督のなせる技なのだろう。思考能力の低下が著しいぼくは、あまり難しく考えないようにした。
自分自身の維持できない抑圧された気持ちとは裏腹に、勝利を積みあげていくセレッソ大阪。ぼくは横目にしながら東京砂漠での無機質なワークに身を投じ、そして没頭していっていた。
セレッソ大阪がホームゲームの会場を長居スタジアムからサッカー専用スタジアムのキンチョウスタジアムに変更した(まあサッカー専用というよりは球技専用と言ったほうが反感は少ないだろう)。
長居球技場時代は何度となく入ったことがある。その昔、地下の室内練習場でセレッソ大阪主催のフットサルなどもおこなわれていたのだ。ぼくが四級審判の資格を取ったのもなにを隠そうこの長居球技場だった。
これ以上の観客席を作るには、構造的な面だけじゃなく多大なる困難が待ち受けているだろう。だけど大阪市内にサッカー専用スタジアムを作りたいという熱意が人を動かしていると思うとぼくは目頭が熱くなった。
その熱意は選手とサポーター席の近さが物語っている。長居第二陸上競技場の、選手と同じ目線の高さ、に匹敵するかもしれない。この距離感が間違いなく新たなサポーターをつれてきてくれるはずだ。
そこから未来のウルトラが生まれる予感も充分に漂っている。新しい居場所を探すなんて歳でもないおじさんは見守るのみ。あとは多少の金銭さえあれば生きていける。
秋を迎える頃、セレッソ大阪U―18の試合を見るために、ぼくは西が丘サッカー場を訪れた。関東エリアでおこなわれるアカデミーの試合は、二日目のカレーに匹敵するくらい貴重だ。
不惑に達したぼくにとって、アンダーカテゴリーの選手たちはもはや我が子と呼んでも過言ではない(両親が二〇歳のときにぼくが生まれたのだから当然そうなる)。
この場所へは、上手い下手、を見るためだけに来たわけでもない。この先のセレッソ大阪を支えていく人材 ―人財 ― がどれだけいるのかを知る重要な機会でもある。
階段をのぼってメインスタンドに上がった。通路を歩いていると観客席に見慣れた男性が座っていた。先生だ。
「こんにちは。見に来てたんですね」
ぼくが声をかけると、ここに座れよ、と先生は指をさした。誘われるままに左隣の席に腰を下ろす。
「あの一二番の選手、」
先生はいつものように目を細めながら言った。
「よく見とけよ。まだ高校一年生だけど本当に凄いから」
南野拓実…なんてインパクトのある名前だ。セレッソ大阪のU―15、U―18ではすでにかなりの実績を上げているらしい。
この試合ではインパクトを残すことができなかったけれど、クラブにとって、それ以上に日本代表にとって特別な選手になっていくだろう。素人のぼくにでもこれくらいはぱっと見でわかった。
柿谷曜一朗や山口蛍、杉本健勇といったアカデミーの先輩とはまた違った魅力を醸し出している。鋭い目とシュッとしたルックスに似つかわしくないキャッチフレーズがぼくの頭のなかに浮かんだ。
南野帝王。
駄洒落なんかじゃなくプレーや立ちふるまいを見て、本気で「帝王」になる器なのだとぼくは感じてしまった。
それ以来、誰とどこで会っても南野帝王という言葉を語りまくる自分がいた。いつの日か間違いなくこの南野帝王と描かれた横断幕がスタジアムでたなびくのだろう。
それにしてもどうしてぼくはこんな駄洒落ばかり思いついてしまうのか。大人になりきれていないチャイルド。守りに入りつつ、でもキラーパスを送り続けるおじさん。そんなぼくの精神状態に振り回される人たち。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
なにはともあれ、セレッソ大阪はJ1年間を通して初めての三位となり、翌年アジアの舞台へと向かうことになった。この不惑の人は海外へと足を伸ばすことができるのだろうか。どうしても人ごとのようになってしまう。評論家気質が板についていた。
ここ数年、ぼくがスタジアムで観戦すると必ず負けるという疫病神としてのスタンスもかろうじて保っていた。「もう来るな」と言われる前にスタジアムから去るべきなのか。もう引退の時期なのか、それとも。