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第五節 神戸、泣いてどうなるのか

 ”思い出したくない記憶”というものが、ひとつやふたつは誰にだってある。受験に失敗したことだろうか。それとも彼女に振られたことか。人生にとっての暗闇を表面化したくないときに限ってふとした瞬間に浮かんできてしまうのがこの”思い出したくない記憶”ってやつだ。
 セレッソ大阪サポーターとして生きはじめてまだ一年も経っていないぼくにもそんな忌々しいメモリーの数々が、雨期の水たまりのように日々増え続けていた。ここのところ大量の悪夢で頭の中がオーバーフローしそうな毎日だった。
 だけど次々に訪れる問題に対処していくうち、わかち合える仲間が徐々に増えていったのも事実だ。
 ひとりひとりの持っている個性というかアイデンティティをお互いで共有していくのだから必然と言えば必然だ。「世の中の問題はすべて人間関係からはじまる」なんて語っている心理学者もいたなとふと思った。
 ぼくを含めここにいる人間はまだまだサポーターとして半人前どころか赤子である。当のセレッソ大阪というクラブだって一緒だ。マザーのお腹を蹴破って出てきた右も左もわからないよちよち歩きの状態なのだ。
 生まれたときはみな天才児、と人は言うけどそれはきっと悩みがないからだと思う。少しずつ生きるつらさを知り、できないことが増え、諦めにも似た感情が芽生えてくるものなのだ。
 クラブもサポーターも育てかたをひとつ間違えると、必ずその報いを受けることになる。

 兵庫県神戸市の神戸市立中央球技場で行われるCAペニャロールとのプレシーズンマッチはそんなクラブとサポーターにとっての報いにも似た試合だった。リーグ戦に向けた最終調整の場で一体どれだけのサッカーができるのか。興味はその一点だけだった。
 だけどこの試合について考えるべき意味がいくつも存在していたのも事実だ。たとえばひとつ挙げるとしたなら、場所だ。
「なんでこんなところで試合するんやろな」
 アミーゴのひとりが言ったこの言葉がもっとも的を射ている。いくら前身のヤンマーディーゼルサッカー部が利用した関係だからといって、このスタジアムが採用されたのは正直いって不快だった。
 どうしてこの大事なお披露目の場が我らの地元である大阪市でおこなわれないのだろうか。ホームタウンという観点で見たらとんでもない問題だとぼくは率直に思った。
 事情はあるにせよこの一戦にどれだけの意味があるのかわかっているのだろうか。怒ってみても何ひとつ変わらない。まだまだサポーターの力が足りないことを痛感した。
 それでもやるべきことがぼくにはある。観客席で自分を、仲間を奮い立たせるしか道はなかった。まあそれしかこの憤りを代弁する方法を思いつかなかったのが正直なところだった。
 腹立たしさというゴールラインをはるかに越え、草むらの奥地へと入り込んでしまって棒を使ってもけっして届かないボールのように。
 すでに先行きが真っ暗になっている。平日のナイトゲーム。しかも言ってしまえば練習試合なのだ。ウルグアイの名門ペニャロールとの試合を見るために神戸の街にまで旅するセレッソ大阪サポーターが果たしてどの程度いるのだろうか。
 観客動員数という年間興行収入にそのまま直結するこの数字が重くのしかかっていく。経理のことはとんとわからないけど、こんなときはどんよりした気分になってしまうのだろうな。会社経営ってものも。

 瀬戸内海に面する和田岬はまだまだ冬の様相だった。軽く手もみをしながらぼくはスタジアム全体を見渡す…圧倒的に少ない。公開二週目に入ったB級映画みたいに空席が目立つ。見た目の観客動員数はバードウォッチャーも必要ないくらいの絶望的な光景だ。
 まだ少しだけ試合開始まで時間があるとはいってもこれはあまりにも酷い状況といえた。華やかな場所であるJリーグを目指すべき準会員サッカークラブにとっていったいこれは何の罰ゲームなのだろうか。そう思えてしまうくらいの神による仕打ちだ(実際のところ昨年末の天皇杯関西予選のほうがもう少し観客の入りはよかったような気すらする。そのときにはサンバ隊がいて、ぼくらがいて、そしてヤンマー社員もいた)。
 三月の夜。肌寒さが身に凍みる。さっきまではかすかに保つことができていたぼくのモチベーションも時間が経つにつれ急降下していくのをかじかむ指先で感じていた。応援歌を歌おうにも、あまりにもサポーターがいなさすぎる。女子が嫌いそうな汚い言葉ベストスリーをついつい叫びたくなる。なんとか思いとどまれたのはぼくがジェントルマンだからってことだけだった。
 そんな中途半端な思いはさらに混乱を招いていく。ぼくのブロークンハートが尾を引いているかのように怪我人なんかも出てしまう試合展開になった(モウラの怪我をなにより恐れていたのだけれどサッカーではどうしようもない事故が起こるものだ)。
 いくら時間がすぎても一向に増えない観客数。言葉にするのもじつに難しい、なんとも言葉にできないゲーム運びにセレッソ大阪は終始した。

 スコアレスドロー。
 名前も知らない主審の乾いた笛の音を聞くためだけにぼくはこんな場所に来たのだろうか。
 開幕戦に向けた数々のアイデアもなにもできないまま、いつの間にか試合がはじまっていつの間にか試合が終了したという気分だった。選手に向けてかける声は兵庫運河を通って海へとすべて流れていってしまった。
 もちろん相手はウルグアイの名門クラブ、ペニャロールなわけだ。だから妥当以上の結果といってもよかったのかもしれないけど(ぼくのなかのペニャロールは一九八七年のトヨタカップだ。雪が降りどろんこのピッチで繰りひろげられたFCポルトとの死闘ははっきりと覚えている)。
 ちょうど地球の真裏に位置する国からやってきて移動や時差ボケを差し引いたとしてもチームとしての力の差は歴然だったというわけだ。
「ぼくの応援するこのクラブはもっとやれるはずなんだ」と思った途端、なぜだか涙が頬を伝った。リーグ戦に向けて、チームとしてのサッカーはとても満足できるような状態ではなかった。それだけは明白だった。
 それはサポーターにも言える。組織的な応援ができるほどサポーターが集まらなかったことは試合内容以上に不安要素満載の出来事だった。日々のミーティングとイメージトレーニングで思い描いていた応援スタイルなんてものを一ミリも披露することなくタイムアップを迎えた。やり場のない怒気といき場のない感情とのコントラスト。神戸、泣いてどうなるのか。
 暗雲が立ち込めるとはこのような試合のことをいうのだろうな。お似合いの言葉がスタジアムの床に散らばっていた。NASAKENAI<情けない>。

 心の中にある自信という芯棒がポキッと折れることはなかったにせよ、少なくともシーズンの半分は大阪以外の地でおこなわれるのだからこれじゃアウェイゲームのゴール裏が閑散とするのは必至だ。心配というよりも絶望に近い感情が巻き起こったように思えた。
 失敗とも呼べず、だからといって及第点かと問われるとそんなわけがない。この中途半端さがぼくの性格そのままに表現されていた。穴があったら入りたい。生まれて初めてそう思った。
 最良の船出となるはずの一日がまさかここまで”思い出したくない記憶”になるなんて。そんな予想すらできなかったぼくは、凍える身体をさすりながら寒々しい記憶しか残っていない神戸市立中央球技場をあとにして家路に着いた。
 ついさっき買ったつぶつぶコーンポタージュの缶々をぼくは両手で握る。夏の季節の寒いプール授業で唇が紫色になったことをなぜかぼくは思い出した。とうもろこしの入っているドロドロとした液体がぼくの体温を徐々に三六度五分の平温へと戻していってくれた。
 振り返ろうにも試合のデータがぼくの脳みそにほとんどといっていいくらい刻まれてはいなかった。ほんのついさっきの出来事なのに。誰がシュートを打って、誰がブロックして、そして誰が怪我で途中欠場したのかすらまったく思い出せなくなっていた。
「あのときはこんな感じで…」
「でもシュートが枠を外れたし…」
「仕方ないなあのシーンは…」
 まるでしりとりでもするかのようにひとつひとつのプレーを確認しながらアミーゴと歩いた。

 ぼくの手には絶対零度を迎えつつある例の缶々と、試合会場限定で配られていたお洒落なLフラッグがある。
 どのように表現すれば言葉でわかってもらえるのかと悩んでしまうくらいの幾何学的なデザインだ。幅一メートルほどのこの旗だけがぼくを慰めてくれているような気がした(こんなアイテムで簡単に気持ちが晴れるのだから案外ぼくは何にも考えていないのかもしれない)。
 開幕戦はどれくらいの観戦客が来るだろうか(セレッソ大阪がJFLのリーグ戦で主に使用する長居第二陸上競技場は最大で一万五千人程度の収容が可能なのだけれど。そしてホームアウェイともゴール裏は芝生席。入れられるだけ入れたらどういうことが起こるのだろうか。それにしてもやっぱり大阪市以外でもリーグ戦はおこなわれるのだなとスケジュールを見て嘆き悲しんだ)。
 神戸の夜を体感したぼくは帰りの電車の椅子に腰掛けながらリーグ戦の光景を想像した。
 なんだか寂しさと虚しさが止まらなくなってくる。
 我らのホームスタジアムをピンク色に染めることだけを目指してひたすらにイメージトレーニングをしてきたのにな。
 幾重もの話し合いを重ねてきた意味をどこでどう表現していけばいいのか。例えようのないぼくの心の中の迷いと葛藤が夜の尼崎が映し出す車窓に重なり合っていった。

 家に着いたらすぐに、母親が例のあの温かいインスタントコーヒーを淹れてくれた。この茶色い飲み物。案の定だけどコーヒー本来の苦味など微塵も感じられない。
 でもあのときのつぶつぶコーンポタージュ同様にただただぼくにぬくもりをくれる。優しさが掌を通って上腕二頭筋を経由し、ぼくの心にまで伝わってきた。
「思い出したくない記憶」となった一日の最後の、最良の瞬間だ。しばらく立ち直れないくらい挫けそうになったときは無謀なほどの無味を与えてくれるこのコーヒーが一番だ。なにもかもを忘れさせてくれる。
 誰が淹れてもそれなりの味を醸し出してくれるインスタントコーヒーが今のぼくには充分だった。銘柄なんてものは正直どうでもいいのだ(と思ったらUCCだった。なんという巡り合わせなのだろうか)。

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