第二〇節 日韓ワールドカップなのに
まあ、ひとことで表すなら悲願だ。
一八七二年(一八七三年とも言えるらしい)に初めてサッカーが日本に伝わって以来(こうするとツッコミも入りそうだから書いておくと蹴鞠をサッカーと呼ぶかどうかはあなた次第だ)、世界最大の祭典を国内で開催するのはまさしく悲願なのだと思う。
我が国そして日本サッカー界にとって二〇〇二年日韓ワールドカップは重要なイベントになった。
やっぱり、あの、辱められたかのような国立の夜があってこその結果だとぼくは思いたい。若い頃の一瞬の痛みなんて、成長へのただの一歩だ。たとえ、三歩進んで二歩下がったとしても、だ。
その歩みは生真面目だけど着実に前へと進んでいる。毎週ちょっとずつ送られてきて、ちょっとずつ組み立てていくおもちゃのパーツのような。ささやかなご褒美の積みあげが無性に嬉しかった。
だから、しつこいようだけど何度でも言う。フランスワールドカップ出場時と同じくらいのインパクトを、あの七年前の国立の夜が与えたのだとぼくは今でも信じている。
韓国との共同開催をまっすぐに受け止めるには相当な時間もかかった。だけど、ぼくがとやかく言う次元の話でもないので、決定から今日まで、そっとしておいた。
一九九八年のトゥールーズで嫌というほどチケット問題に泣かされたアミーゴが聖地でおこなわれる日本戦のチケットを手に入れた。お年玉を手にした子供のようにぼくらは喜び、気づけば二人で笑い泣きしていた。
ぼくの名も刻まれている埼玉スタジアム二〇〇二でベルギーに引き分け、横浜国際総合競技場でロシアに勝ったあとのチュニジア戦を迎えた。アミーゴとぼくが持っているのはI―四ゲートのある聖域とは違って真逆のアウェイゴール裏のチケットだった。
試合がはじまる前からスタジアム周辺はお祭り騒ぎだ(このような状況が好きではないのは、ぼくのことをよく知っている人間なら何となくわかるはずだ)。アミーゴ。セレッソ大阪サポーター。日本代表戦ではともに戦う仲間、それから数多くのチュニジアサポーターで物凄い熱気と雰囲気になっていた。
懇願するボードを掲げながらチケットを探してさまよう二人組の女子。いつにも増して大きい声をあげながら自転車で走り回るチルドレン。
This is OSAKA spirits.
これが大阪のワールドカップ、これが大阪のスピリッツなのだ。長居スタジアムでこの試合が開催されることにぼくは感謝した。
とにかく、いつもとは違う場所から眺める長居スタジアムの素晴らしさに改めて感動した。いつの時代もここは世界最高の劇場だと言える。
「アウェイ側からやとこんなふうに見えるんやなあ」アミーゴがしみじみ言った。
年老いて、いつかぼくもI―四ゲートという場所から離れていくのだろうか。そのときは一体どこでセレッソ大阪を見ることになるだろうか。試合は、感傷に浸っているぼくを慮ることもなくはじまった。ワールドカップなのにもっと楽しめばいいのに。
そうこうしているうちにあっという間に時間がすぎていった。いつの間にか後半に突入している。夢から醒め、相手選手に当たってこぼれてきたボールを振り抜いた森島寛晃の右足を見たのはそのときだった。
途中交代で入ってきてわずかの時間。心臓が止まってしまうんじゃないかと思うくらいの衝撃をぼくらは受けることになる。
自国開催のワールドカップで、しかも所属クラブのホームスタジアムで。そこでゴールを決めるなんてシーン。どこからどう見ても空想の世界か、そうじゃなければ奇跡だとしか思えなかった。
一九九四年のアメリカワールドカップ、一九九八年のフランスワールドカップでは不幸 ― みずから招いたに違いない ― に見舞われてきたぼくだから、こんな素敵な物語の一幕に立ち会えるなんて。サッカーの神様は本当に存在していて、ぼくをそばにいて、別け隔てなく皆に幸せをもたらしてくれる存在なのだ。
運よく新潟でのクロアチア対メキシコと、準々決勝のセネガル対トルコ、準決勝のブラジル対トルコを観戦することができた。合計四試合の貴重な体験は、ひとえにかけがえのない仲間のおかげだ。世の中は、どこまで行っても人と人との関係性がすべてだ。ぼくはサッカーの神様に感謝した。
祭りは終わった。ぼくの気持ちは早くもドイツへと向いているけど、その前に、日常が待っている。
さて肝心なのは、前年初めて降格を経験してJ2を戦いの場としていた我らのセレッソ大阪なのだ。
一年での昇格は至上命題だ。主力選手のほとんどが残留したのだから再び優勝と昇格のダブルという空気を醸し出していく必要がある。
でも圧倒的な戦力が逆にプレッシャーになっていたのも事実だ(このパターンはだいたいあかんやつだ。これもJFLのときの空気感と同じとしか思えない)。
ワールドカップの関係もあり、長居スタジアムを明け渡して、長居第二陸上競技場を利用する機会が増えた。芝生に包まれたゴール裏で太鼓が使えない、なんていう蛮行はもうこの時代には皆無だった。歴史は愚から学ぶ、は正しかった。
そんなありがたい環境であってもJ2クラブは酷な扱いを受けた(三月二一日は本当に酷かった。長居第二で川崎フロンターレと戦っている最中に隣の長居スタジアムで日本代表対ウクライナ代表がおこなわれるとか!アンドリー・シェフチェンコ不在のウクライナが相手とは言えワールドカップ直前の日本代表の試合がわずか数十メートル先でだぞ!こんな仕打ちを毎回受けてしまうセレッソ大阪というクラブは日本サッカー協会にとって一体どの位置に存在しているのだろうと思ってしまう。一粒で二度美味しいなんていうキャッチコピーのチョコレートがあったけど、同類にされるとじつに困る)。
そんな二〇〇二年シーズンにひとりの外国人選手が加入した。アルミール・トゥルコビッチ。ボスニア・ヘルツェゴビナとクロアチア、ふたつの国籍を持つ。
あまり馴染みのない両国(ボスニア・ヘルツェゴビナはともかく、フランスワールドカップ、日韓ワールドカップと二大会連続出場のクロアチアは日本にとって同志のような感もある)にぼくは強い興味を持った。
旧ユーゴスラビアの実情を知り、そして内戦というつらい過去を知ることになった(いや、過去といってもほんの一〇年前の話だ。これはなんの誇張もなく、今、だ)。特に、初出場ながらフランスで三位を勝ち取ったクロアチアには、より深く感じるものがあった。
ぼくの歴史観と言えば幕末や明治維新専門で、俗にいう戦争を知らない子供たちだ。だから今回のクロアチアをきっかけに、逆に日本の戦前戦後の歴史にも興味を持つようになった。
祖父母を早くに亡くした我が家(父方のおじいちゃんはぼくが生まれる前にすでにいなかった)だったから”あの戦争”についてのインプットが限りなく少なかった(プラス歪曲された歴史観もだ。ユーゴスラビア内戦ほど生々しくはないけど一〇〇年も経っていない目の前の歴史だから、受け止めるのが怖かったのだと思う)。
若い頃にもっと学んでおいたらよかったなと今になって臍を噛む。
話は戻る。
クロアチアに比べてボスニア・ヘルツェゴビナはより深刻らしい。トゥレの祖国にいる彼らに向けてなにかサポートができないものかとぼくらは考えるようになっていった。なぜならぼくらはサポーターだから。
アミーゴとともに多くを思案した末に、有志でのボランティアをおこなうことを決めた。こうなると話は早い。だってセレッソ大阪にはあの人がいる(”長居の悲劇”の二〇〇〇年には社長に就任していた)。外国人選手とクラブとサポーターの関係。Jリーグのあるべき姿を体現していくのもサポーターの役割だ。
大小の歯車が徐々に噛み合っていく手応えがあった。スタジアムではクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ関係のブースを出すことができたのも社長のおかげだ。二年前の骨髄バンク登録キャンペーンブースの際にも助けてもらった記憶が蘇ってきて、ぼくは目頭が熱くなった。
試合当日のスタジアム運営では喧々諤々することも多かったけれど、どんなときでもちゃんとサポーターの話を聞いてくれる。それだけでぼくの心は穏やかになる。そんな、素晴らしい人たちに囲まれていることで、セレッソ大阪とぼくの関係性もこの一〇年で大きく変化していった。
とは言うものの、長居スタジアムや長居第二陸上競技場で観戦することすらままならない状況が続いた。コールリーダーという役割はすでに若いサポーターに委ねていた(まあこんな役割は誰にでも可能なように作ってきたつもりだ)。
受け継ぐ、という言葉が的を射るかわからないけど強烈なリーダーシップだけでこのゴール裏という世界をつなぎとめるのはじつに難しい。
正しいとか間違っているとかではなく、織田信長、豊臣秀吉よりも二五〇年以上もの継続した安定の時代を築いた徳川家康により近い感覚を持っておくべきだ。
物事の本質が人間関係がすべてなのは先のとおり。きっと一〇年の節目を目の前にして、クラブだけじゃなくゴール裏のサポーターも変革のときを迎えている。
あの一九九五年のゴール裏での太鼓問題とまでは言わないものの、長居の悲劇を境にサポーターは再び岐路に立たされている。
創世記のJリーグが抱えていた価値観や見解の相違と、現状のセレッソ大阪サポーターの応援に対する価値観や見解の相違が、まるでスパゲッティのように絡まり合ってしまっている気がした。
サッカーは生きている。ましてやサッカーを支えるサポーターは生き物のなかで一番賢くて一番残酷な人間でもあるのだ。
犬だって人間の夫婦喧嘩の空気や臭いをものの見事に嗅ぎ分ける。人間がはじめた戦争は、必ずや周辺の生き物にも多大な迷惑を加えていく。そしてそのうえで一番の被害を被るのも人間なのである。
そんな人間の空気や臭いに呼応するかのようにJ2へと急降下したのが二〇〇一年だった。
それもあって、ここのところ、自分自身とクラブの関係についてぼくは考えるようになっていた。これまでは応援を仕切るコールリーダーという立場でクラブと接してきたけれど、三〇歳を越えてこの先どのように生きていけばよいのだろうかと自問自答する日々が続いた。
頭のなかのかさぶたのようなものが日に日に大きくなっていくのを感じる。冷や汗とともに目が覚める夜を何度も過ごした。
ワールドカップイヤーの二〇〇二年。セレッソ大阪は一年でJ1復帰を決めた。結局のところJ2でのぼくの複雑なサポーターライフは公私両面で四方八方に引きずられていただけだった。
まるで方向性を失った凧のようだ。風に持っていかれながらあっちこっちに振られてしまうことに疲れ果てていった。
そうしているうちに修復できないくらいに糸が絡まってしまって、周りの仲間との距離がどんどん広がっていく感覚にも陥った。
これからどうすればいいのだろうか。
とにかく、スパゲッティにフォークを突き刺すかのように、凧の糸を巻き直していくかのように日常を過ごすほか方法が見つからなかった。