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第二五節 年越し蕎麦

『大晦日の昼に美味い蕎麦でも食いに行こう』という文字が手のひらで白く光っている。左手でギュッと握りしめているガラケーの液晶画面。セレッソ大阪の演出を一手に担う、通称”先生”からのメッセージ。たった今届いた一通のメールをぼくはしばらく眺めていた。
 よかった。
 天皇杯は二回戦で早々に敗退していたからこれで大晦日は時間を持て余さなくて済む(とは言ってもJリーグでもJFLでもないサッカークラブに先制された上に終了間際に勝ち越しを決められるという体たらくな試合。腸が煮えくり返る思いだったわけだ。どうもセレッソ大阪というクラブもぼくも初物には滅法弱い)。
 去年末ギリギリに食べた中華料理も絶品だったけど、あの人が連れていってくれる年越し蕎麦も多分格別なのだろう。勝手な想像をしながらぼくはニヤニヤした。
 返答するのに時間を要するなど皆無である。ぼくはシンプルな常套句である『行きます』とだけメール本文に書いた。誤字や脱字を確認するほどのことでもなく、すぐさま送信ボタンを押した。
 二〇〇九年シーズンのセレッソ大阪は三一勝をJ2で掴み、二位でJ1昇格を決めた。前年と同様の三回戦総当たりというなんとも言葉にするのが難しいリーグ戦を戦い抜いた。
 参加クラブ数が奇数だった二〇〇八年シーズンはところどころで小休止も発生したけれど、偶数になった今年は停滞することもなく無事修了したわけだ。二度とJ2には戻りたくない。最終戦直後は心のなかのリトルがそう叫んでいた。
 セレッソ大阪の内部には着実に毒が回りつつある。とにかく、三年間の居心地の良いJ2暮らしに満足してしまっているクラブのほうが、五一試合の長丁場で起こる怪我なんかよりもっと重症だ。
 一部のJリーグサポーターは毎年のようにクラブの意図とは違った選択肢を迫られる。ぼくはそんな状況にも辟易していた。J2のままでもいいやという思考回路がサポーターのなかにも蔓延しはじめている気がしている。それこそぬるま湯に馴れ切ってしまっている由々しき事態。憤る毎日をぼくは過ごしていた。

 一年が経ってもリビングレジェンド森島寛晃が引退した日のことをぼくは忘れられずにいる。サッカー選手の人生は怪我との戦いと言っても過言ではない。どこかの誰かが言った言葉がどうも頭から離れない。モリシと一心同体のセレッソ大阪サポーターにとっては日常だった。
 モリシの応援歌を何曲も作ったあの日々がついこの前のようだ。ひとつの時代が終わった感があるのも否めない。それでも、だ。我が愛するクラブ、セレッソ大阪はこの先も永遠に続いていくのだ(だから「モリシのゴールが見たい」もまた次の選手へと引き継がれていくはずだ。継承とは得てしてこういうことだろうし、続いていくことそのものに意味は必ずある)。
 たえず時は流れるのに自分だけが時代の隅に置いていかれている気分に浸ってしまう。増え続ける試合数と反比例するかのごとく、少しやさぐれ気味なぼくの現地観戦は年々減少の一途を辿っていた。
 そんな長いJ2生活でセレッソ大阪サポーターもかなりの割合で代替わりした。ゴール裏を見渡してみても一目瞭然で、顔と名前を一致させるのにぼくは必死だった(それは年齢のせいではないかと言われたりした。ぼくはまだ三十代なのだぞ)。
 セレッソ大阪サポーター組織の原型を作りはじめてからもう一五年という長い月日が経過している。いまやぼくのことを意識しなくともうまく回っている。どんな組織であってもこれがあるべき姿。今ここにいる彼らがこれからの歴史を創っていく番だ。スタンドの一番上からI―四ゲート付近に集まる多くの若狼の姿が視界に入り、思わずぼくの目から水滴が落ちた。
 それでも、若い芽が育つには相当な気力が必要で、さらには時間も暇もかかる。それが世の常でもある。だからこそぼくは常に水を与え続けなければならない。かつてぼくを育ててくれた、たくさんの先輩方のように。
 増え続ける点と、変わることのない点が、一本の線でつながっていく。その先に道はできていく。多分、生涯をかけて、この道に打ち水を続ける義務がぼくにはある。土埃を鎮め、清々しさを感じられるように。まだまだぼくは道を開いていかなくてはならないのだろう。
 そんななか、過去の歴史を真摯に受け止め、その歴史という地盤の上に途切れることのない自分たちの思いを積み重ねてくれる若者が存在していることがとてもありがたい。REAL OSAKA ULTRASの横断幕しかり、数々の応援歌しかり。
 ユズリハはいつの間にか、セレッソ大阪という大樹に数え切れないほどぶら下がっている。サポーターと同期するように、クラブ内部にも若い力が次々と芽生えはじめていた。
 高校生でプロとして契約した選手はすでにチームの主力になっている。戦う場所を求めて移籍加入した”違いを生み出せる”選手もいる。高校サッカー選手権で活躍した選手もやってきた。それから外国人選手もはるばる我がクラブへ来た。例年以上に素晴らしいプレーヤーたちが続々と集まってきていた。
 忘れてならないのはアカデミー。アンダーカテゴリーからの昇格選手だ。あの日あのとき、アカデミー監督にこっぴどく叱られた日は今もぼくの胸に刻まれている。
 あの瞬間から多くのセレッソ大阪サポーターがアカデミーを追いかけ続けたからこそ今日という日がある。次々と打ち込まれる点はつながり、永遠の線になっていくのだろう。ぼくはそう予感した。
 三度目のJ1の舞台を見ることもなく西澤明訓が引退した。セレッソ大阪がJリーグに参加した一九九五年に加入してからというもの、ボレーやトラップだけでなく、ぼくは幾度となく彼から夢を見させてもらった。
 モリシと同様に、アキにも愛すべき応援歌がいくつもラインナップされている。特にスタジアムで「アキが大阪にいる限り」を歌うとき、ぼくは一種のエクスタシーをいつも全身に感じた。
 なぜあの選曲になったのか。なぜあの歌をチョイスしたのか。どこでいつ応援歌が完成したのか。今もってなお覚えていないことだけはわかる。
 その瞬間、なにかが降りてきて、その言霊が形となったのだろう。降りてくるとはそういう感覚だ(そう言えば、いつぞや、ある応援の歌詞を「戦え我らの大阪」に変えたのだってそんな直感からだった。ぼくには音楽センスがまったくと言うほどない。ましてや楽器もろくに弾けない。だけど感じるだけでなんとかなるものだといつも自分自身に感心する)。
 二〇〇〇年のあの試合も、二〇〇五年のあの試合も、何度もアキのゴールに救われたことも、そしてあのスーパーなゴールたちのあとに見た悪夢のことも、しっかりと脳みそが覚えている。
 八番と同じくらい、二〇番が偉大なエースナンバーだという自負。そしてその偉大さを増幅させる応援歌。この先の未来において必要である。セレッソ大阪サポーターにそんな思いを背負わせてくれたストライカーは、絶大なインパクトをぼくに残して、さり気なくピッチを去っていった。

 またJ2優勝はなし得なかったけれど気持ちのいい一年を過ごしてきた。その年末も年末に、最後の最後に、先生と一緒に蕎麦を食いながら年を越すなんていう。
 場所が麻布十番だというのに(東京を知らない人にはわかりにくいだろうけどぼくからしたら麻布十番とはいわゆるセレブの街なのだ)ぼくは、いつもと変わらずREAL OSAKA ULTRASと編み込まれたジャガードマフラーを身に着けている。
 真の大阪のウルトラス。これがぼくの勝負服。勝負マフラーでもある。NEVER STOP NEVER GIVE UPとともに歩んでいく、ぼくの気持ちを最高潮へと高ぶらせてくれるお守りのようなものだ(二〇一〇年シーズンはようやく待ちに待った大阪ダービーが再開される。改めてそこで真の大阪は誰なのかってことを明確に示す必要がある。ダービーのないリーグなんて、らっきょうのないカレーライス、と同じだ。アクセントもなんもない)。
 電車を乗り継ぎ最寄り駅まで向かう。年内最終日だけあってさすがに電車は空いていた。
 駅から徒歩で数分。蕎麦屋へと着いた。先生はすでに店内にいるらしい。さすが大晦日だけあって店は繁盛しているようだ。かなりの人で混雑しているのが外からでもわかった。日本の風物詩でもある年越し蕎麦がなくなるなんてことは絶対にないだろうな。ぼくは素直に思った。
 ドアを開けると店の奥のほうからこっちこっちと手招きする姿が見えた。呼ばれるがままに店の一番奥の席へと進んでいく。会うのはいつ以来なのかな。思い出せないままビールで乾杯する運びとなった。
 だいたい、こんな時間にこんなところでこんな輩(そう、ぼく)と飲んで食ってしている場合ではないんじゃないのか。一緒にいるとぼくはいつもそう思ってしまう。
 セレッソ大阪という縁だけでつながっているだけの脆弱な関係かもしれないけど、セレッソ大阪でつながっている限りそれは太く強固な鎖でお互いを巻き付けあっている気持ちでいられた。人は人を呼ぶ。縁は縁を結ぶ。

 唐突に先生が話を切り出した。
「駄目だよ。今のままじゃこのクラブは本当におかしくなってしまう」
 きっと酔ってもいないはずなのに、やや戯けるようなしぐさで先生は言った。まるで戦国時代の傾奇者、前田慶次郎利益が見せた弁説と同じではないか(戦国時代には本当に興味が希薄なのだけど前田慶次郎だけは完全に別格扱いだ。一夢庵風流記はぼくの心のバイブルとして数えられている名著でもある)。
「もう何年もぼくらは言い続けてきていますよ。仰るようにこのままだと本当に駄目になってしまいます。どうしたら変えられると思いますか?」
 ぼくは言葉を待った。沈黙が続く。ビールの泡が弾ける音、それだけが耳に入ってくる。
「そうだな。小さく変えてもどうしようもない。変えるならどんと大きく変えないといけない。いいスタッフはたくさんいるんだよ…」
 先生はビールを一口含んだあと、だけどな、と続けた。
「親子の関係というものはとても難しい…な」
 ぼくは空になった先生のグラスにビールを注いだ。なみなみと注がれた液体を黙ってふたりで見ていた。
 そのとき、急にどこからも音がしなくなった。まるで店内からすべての音がむしり取られたような無音。もしかしたら自分の耳がなにも受けつけなくなったのかと思えてしまうくらいの状態にぼくはたじろいだ。
 なんとか平静を保ち手酌を終えた。瓶を置き、左手に持ったグラスを口をつける。なにかを言いかけては閉口する。言いかけては閉口する。ぼくは何度も繰り返していた。
 どうも一日に何度もこういうことが起きる。自分に人間性が乏しい。自分が自分ではないと感じる瞬間が最近よく訪れる。まさに今そのタイミングなのかもしれない。先生に見透かされないようぼくは心のなかだけで呼吸を整えた。
 真っ白な時間とシンクロするボールの気泡が、、このグラスを離れて蕎麦屋のぼくの周りにだけ大量に漂っている気がする。そのあいだもずっと無音は続いていた。時間を持て余すかのように先生と出会ったあの日のことをぼくは必死に思い出そうとしていた。

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