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第一八節 Remember527Restart528

 何を隠そう、ぼくは雨男だ。
 大半のビッグマッチを雨のなかで過ごし、雨量が増えれば増えるほど気持ちの不安定さが増長されていく。そして ― これもお約束通りなのだけど ― 負けた。晴れの神の名前など覚えてはいないけど、多分ぼくは相当なくらい嫌われている。
 思い出すのは三年前の天皇杯。長崎でのジュビロ磐田戦(なぜ長崎の地でこの二クラブが試合をするのか。ぼくの脳みそは理解に乏しい)。車旅団での遠征のはずなのに着替えを持ってこなかったことを、とてつもない大雨の中での敗戦のあとで気づいたのだった。
 近くにあったユニクロでトレーナーとパンツ(もちろん外側も内側も)を買い、翌日平和公園と中華街にいき、敗戦の痛手を癒した。そんなどうでもいい思い出を今でも覚えている(しかもこの試合では相手クラブの選手とだいぶ揉めた。そういう黒歴史もしっかりと脳には記録されている)。
 そんな雨男の末路が一歩一歩死神のようにぼくへと近づいている。先週の三ツ沢に引き続いて五月最後の週末の大阪には雨の予想が出ていた。土曜日が待ち遠しい。だけど、雨なのだ。
 一日に何度も天気予報を気にしながら日々を過ごした。セレッソ大阪のセの字も口に出さなかった人が「次、勝ったら優勝?すごいことやな」と声をかけてくれるようになった。一週間の進みがとても遅いと感じている自分がいる。
 得意の合同コンパもここでは自粛せざるを得ない。飲みに行くこともめっきりなくなった。自宅にこもりっきりで優勝記念Tシャツのデザイン作りなんてものに没頭する。
 なんとか水曜日には完成した。狼がJリーグカップをくわえているデザイン。ヤバい。格好いい。出来栄えはともかく、発想だけは人には負けないなと、壁の薄いひとり暮らしの部屋で近所のことも考えず馬鹿笑いした。

 当日はピンク色のビニール袋も大量に準備できるとアミーゴから連絡が入った。投げてはいけないと再三再四注意されている紙テープも、かなりの本数が用意できていた。駄目だ。試合をそっちのけでセレモニーのことばかりに没頭してしまっている。
 考えなければならないことがぼくにはあるはずだ。忘れてはいけないのは当日の応援だってこと。勝つための応援、どの場面でどんな応援歌を繰り出すのか。イメージしながら床に着く毎日。パッと目が覚めたら緊張で寝汗をかいているという朝をここ数日繰り返している。
 週末のことを考えると震えが止まらなくなった。こんな気持ちになるのは初めてだ。誰かに相談したり酒で気を紛らすのも考えたけどぼくの性分には合わない。そう思い、ひとりで抱え込むことにした。
 猫の額五〇個ほどのベランダに出て空を見あげた。週末の予想をそのまま聞き入れたかのごとく真っ暗闇が広がっている。B五サイズのらくがき帳にぼくは得意の猫型ロボットのイラストを描いた。
 あんなこといいな。できたらいいな。一等星すら見えない虚空に向かってつぶやくように歌った。

 金曜の夜になった。マンションから駒川商店街にあるセレッソ大阪オフィシャルショップへと向かった。試合前日のプレッシャーでほとんど寝る気がおきなかったので、アミーゴとともに朝までTシャツ作りに没頭した。
 ガッチャン、ガッチャン。CHAMPIONの文字と狼たちが次々とぼくの目の前を通り抜けていく。
 もし優勝できなかったらこの子らはどんな運命を辿るのだろうか。他人事のようにぼくは印刷を繰り返した。
 敗戦を想像をするのは今週に入って初めてのことだった。嫌な予感がした。切り替えよう。すぐに、西澤明訓が二点、モリシが一点。三対ゼロで優勝する。そう強く考えるようにした。けれどなぜかマイナス要素ばかりが頭に浮かんできてしまう。
 逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ。いや、逃げる必要もないし、いずれにせよ勝てばいいのだ。無心を貫く決心をしてTシャツを作り続けた。すべてが終わる頃には大阪の空が明るくなっていた。

 長居公園に到着した。スタジアム周辺にはあちらこちらに人だかりができている。四万人以上の観客が予想されていた。天気同様にこれは間違いなく当たるだろう。
 入場してI―四ゲートへと向かう。ゴール裏はいつものように先発隊によって場所が確保されていた。
 ゲートの入口のところで美しい緑色のピッチを見つめた。そしてぐるりスタンド全体を見渡す。隣では何人かの若手のウルトラが三本のポールを等間隔に立てている様がある。ひとりひとりにぼくは声をかけた。
「ご苦労さん。いつも色々とありがとうな」
「今日はめっちゃ最高の応援をして絶対に勝ちましょうね!」若手サポーターのひとりが言った。
「勝つで。絶対に。俺らのここには色んな思いが詰まってるからな」
 そんな会話をしながら、ぼくは手を伸ばして彼の胸を軽く突いた。その人差し指がなぜだか震えている。緊張感の高まりを体全身で感じた。

 柵の上に登る。若手がさっき設置してくれたポールを握って身を任せながら、下から渡される拡声器のストラップに手を通した。誰が置いたのか、セレッソ大阪のレジェンドゴールキーパー、ジルマールのTシャツが、ポールの先端には飾られていた。
 改めてぼくはまわりを見渡す。セレッソ大阪のホームゲームでこれだけの人が集まったことはないと記憶している。胸の高鳴りを抑えつつ拡声器に口元を当て、ボタンを押す。コールを導くトラメガの鈍い金属音に声を混じらせながらぼくは叫んだ。
「ついにここまできたぞ。今日は絶対勝つぞ。俺らの声を選手に届けるぞ。いいか。最後まで戦い抜くぞ」
 ぼくの言葉が終わるやいなや四方八方からセレッソ大阪コールがはじまった。アップ中の選手たちの緊張度合いが四〇メートル離れたスタンドにまで伝わってきている。いい方向に出てくれれば…という他力本願な気持ちが膨らんでいった。
 そのとき生ぬるく湿っぽい風がぼくの頬を通り抜けていった。また嫌な予感がした。嫌な予感は、予感のまま終わることはない。天気予報と同様に、その予感がぼくの頭上に力強く降り注いだ。
 あっけなく試合が終わった。

 四万人の声援があろうとも、サポーターが死物狂いで応援しようとも、選手が今季最高の試合を見せようとも、セレッソ大阪の敗北はJリーグにとっての既定路線だったのだろう。
 どこかのモノマネ番組のように意図的な優勝の持ち回りなんてものは、少なくともこのサッカー界には存在しない。
 そういう意味では、まだ早い、と言われたのか、資格がない、と言われたのかはわからないけど、少なくともぼくらにとっての栄冠が来る日ではなかったということだ。
 静まり返る観客席をぼくは見回した。四万三千人という大人数を飲み込んだ長居スタジアムの空気が、試合前とまったく変わっていないことに改めて気づいた。
 ぼくにはわかっていた。この空気感は先週末の横浜から続いていたのだ。この勘は正しかったのだと胸を張って言える、今となっては。でも、ぼくは誰に向かって胸を張っているのだろう。
 横浜F・マリノス戦のときのような身や骨がえぐられるような思いに、この試合では最後の最後までなれなかった。
 周りに目を配れるくらいの精神状態。つい先週までは存在すらしなかったのに今日はなぜか安定していた。いや、安定しすぎていた。「諸君、狂いたまえ」のはずだったのに。なにも考えず突っ走るだけだったのに。
 柵の上から足元の通路を見た。ピンク色のビニール袋が、疲れ果てた戦場の兵士のように力なく横たわっていた。
 なぜぼくは柵の上にいるのだろう。なぜぼくは上から見下ろしているのだろう。そんな意識すら失われつつあった。見あげれば無数の紙テープが宙を舞っている。ぼくは一体ここでなにをしているのだろう。しみじみとそう思った。

 どこからどう見てもぼくは完全なる敗者だった。夜郎自大。試合がはじまる前から、いや、もっと言えば先週の三ツ沢から。試合終了のホイッスルが鳴ったわずか一秒後から。その時点からすでに、ぼくは、ぼく自身に負けていた。
 精一杯やったつもりになっていた。身の丈も知らず、なにもわかってやしなかったのだ。ぼくはまったくもって、なにひとつチームのためになっていなかった。この日のために生きてきたはずなのに。今日の勝利のためにこの一週間が存在していたのに。
 自分はいったい誰なのか。
 なぜこの世にいるのか。
 何のためにここにいるのか。
 ここにいていいのか。
 考えれば考えるほど自暴自棄になってしまいそうだ。ぼくの気持ちを知ってか知らずか、選手たちはピッチに座ったまま立ちあがれなくなっている。モリシにいたってはうずくまったまま身動きすらしていない。
 相変わらず紙テープが飛んでいる。怒りに任せて叫ぶこともできたけどぼくは無音を貫いた。そのとき、ゴール裏のアミーゴが「セレッソ大阪」と大声で叫びはじめた。
「セレッソ大阪」
「セレッソ大阪」
「セレッソ大阪」
 堰を切ったかのように次々にとサポーターの声が増幅していく。
 ぼくはかぶりを振った。なに馬鹿なことを考えていたのだろう。ちゃんとあるじゃないか、理由なんてここにたくさん。
 愛すべきアミーゴ。
 愛すべき仲間。
 愛すべき選手たち。
 愛すべきクラブのスタッフ。
 支えるべきサッカークラブ。
 ともに歩いていくセレッソ大阪愛するすべての人。
 みんな、目の前にあるじゃないか。
 流れを止めないよう太鼓を激しく打つようにぼくは指示をした。ボンボンボボボン。大きな音をいくつも響かせながら複数の太鼓が徐々にシンクロしていく。サポーターの声がさらに増幅されていく。このコールが新緑の芝生の上で力尽きて倒れた選手たちへのラストメッセージだ。
 ひたすら繰り返すクラブ名の連呼。最後の最後まで、ぼくららしい。

 試合終了のホイッスルが鳴ってから、もう随分と時が経っていた(やはり延長Vゴールというあっけない結末はよくない。歌の途中でいきなり停止されたカラオケと同じくらい侘びしさが残る。この仕組みは絶対に止めたほうがいい)。
 ぽつりぽつり、ひとりずつ選手が立ちあがっていく様を見て、ぼくはひとつの思いに耽っていた。
 この試合を伝えていかなければならないのだと思った。この試合が伝わらないわけはないとも思った。セレッソ大阪サポーターとして今日という日を後世に残していかなければならない。そしてそれはぼくの汚点のひとつとなっていくのだろう。
「セレッソ大阪」
「セレッソ大阪」
「セレッソ大阪」
 この日一番とも思える声量が長居スタジアムでこだました。七年という月日が早いのか遅いのかなんてぼくにはわからない。でも、まさに今、ここにあるすべてを愛し、そして育てていかなければならないのだとぼくは強く感じた。
 I―四ゲートの階段を降りる瞬間、なぜかRemember527Restart528というフレーズが頭のなかに浮かんだ。
 そうだ。大事なのは明日だ。
 Tシャツのデザインにでもしてみて、さっそく着てみようか。薄暗いコンコースでぼくはそう思った(そして実際に作って、実際に着た)。

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