第三一節 クラブは変わろうとも
ちょうど二〇周年という節目の年をセレッソ大阪は迎えた。AFCチャンピオンズリーグへの二度の挑戦権を含むこの三年間の実績をどう超えていくのか。戦略を立て、戦術に落とし、そして結果を求められる一年になる。
戦略とはなにを捨てるかからはじまるのだとよく言われる。しかしながら口で言うは易し。どうしても人間は過去の成功例にすがって生きてしまう生物でもある。
今日うまくいったからといって明日から同じような毎日が繰り返されるわけがない。クラブもそう感じていただろう。だからこそ短期間で多くの取捨選択しようと努力していた。
手はじめにゼネラルマネージャー。そしてレヴィー・クルピとの決別。ただ単にブラジル路線からの転換ではない。もっと根深い問題をもまとめて清算した感があった。
さらにはウルグアイ代表のディエゴ・フォルランの獲得だ。もうどんなサッカーになるのか想像がつかない(ヨウイチロウが仮想ルイス・スアレスなんて噂が飛び交ったけどそんな馬鹿な話はない。柿谷曜一朗は柿谷曜一朗でしかありえない)。
役者は揃った。J1初優勝とACLでの躍進。それでも楽観視なんてできやしない。セレッソ大阪なのだ。飛躍の翌年という必須アイテムを持つセレッソ大阪なのだ。
とは言え、南アフリカワールドカップ得点王がどんなプレーを見せてくれるのか。ヨウイチロウ、ホタル、マル、タカ、ケンユウ、タクミのそうそうたるアカデミー出身選手もいる。加えてゴイコ・カチャルや長谷川アーリアジャスールが…。選手層だけを考えればメディアから一定の評価をもらえているのも当然と言えば当然だった。
逆に播戸竜二がサガン鳥栖へ、茂庭照幸がタイのバンコク・グラスへと移籍した。裏でなにがあったかなどぼくには関係ない話だけど、人間関係はいつか組織に深い根をおろしていくものだとぼくはしみじみ思った。
サッカー界における戦略とはきっと、そういうヒト・モノ・カネ・ジカンを「捨てまくる」勇気を持つことなのだろうか。捨てまくった先になにがあるのだろうか。急に鼻を突く嫌な匂いを感じた。
瞬間、ひとつのシーンが脳裏に浮かんだ。
昨年、セレッソ大阪堺レディースが参加しているチャレンジリーグの試合会場で社長とばったり会った。創成期のセレッソ大阪を旅行業で支えてくれた社長は二〇一二年にクラブに戻っていた(あの四日市のハチャメチャなバスツアーやとんでもない行程の鹿児島もすべてこの人のドリームが仕込んだものだ)。
アキのときといい今日といい、若い頃にお世話になった ― 迷惑をかけた ― 人たちと疎遠になったままぼくは大人になってしまった。人付き合いの下手な人間の末路など大抵こんなものなのだ。
ぼくを見かけた社長は、久しぶりやんか、と言いながら近づいてきた。
「お前、歳とったなあ」
「お互いさまでしょう」
若かりし日を思い出しながらお互いに軽口を言いあえることで自分にもまだ人間味が残っているのだと少し安心した。
そのときにはさほど気にも止めていなかったけれど、かすかな匂いがぼく自身から発していたことを鮮明に思い出した。今回と同じ匂いだった。みずからの闇を見たような気がしてなぜだかぼくは身震いした。
それにしても世界基準という幻想はいったい誰のためのものなのか。クラブのため?親会社のため?サポーターのため?正直いたるところでかわされる史上最攻を、とまどいながらぼくは眺めていた。
フランスワールドカップ以降アジアに敵がいなくなった日本代表の緩さに近い。同等の空気がセレッソ大阪というクラブ全体を包んでいた。強いけど脆い。脆いけど勝ち上がれる。はっきり言ってしまえば慢心だ。
二〇一一年のAFCチャンピオンズリーグだってなんだかんだでそんな空気感が漂っていた(いつの世も大阪ダービーだけは別腹だけど)。あのときも世界基準どころかアジアのレベルですら後手に回っていた。
ぼくは頭のなかでさらに歴史のページをめくった。一九九九年にペルージャ、二〇〇三年にはパルマ(ワールドカップ一周年記念試合という位置づけは、いったいなにを記念しているのかすらわからない)と親善試合をおこなった。イタリア・セリエAのサッカークラブと対戦しただけでは到底世界を感じられるはずもなかった。
成熟していないのに気持ちばかりが先走る。いつかのチェリーな気分。大人として見られたいけど子供のままでいたい気分。高まっていく複雑な心境と期待値だけが、成長病の痛みをクラブ全体にもたらしていった。
毎年のようにももたれかかってくる”セレッソらしいサッカー” ― ”自分たちのサッカー”とよく言う ― を脱却したい気持ち。それとは裏腹に華々しく二〇一四年シーズンの幕を開いた。
シーズン当初、ぼくは比較的ポジティブに受け止めていた。夢を語るのは悪いことではない。それらが実現しなかったときには相応の責任がついて回る。ただそれだけの話だっだ。
結果、相応の責任が果たされることになり、セレッソ大阪は三度目のJ2降格の憂き目にあった。強いチームが勝つんじゃない。勝ったチームが強いんだ。衰弱しきったぼくにはこんな名言を思い出すしかできなかった。
降格するチームにはある種の匂いが蔓延している。昨年あのとき感じた匂いも、シーズン前に鼻を突いた匂いも、すべては降格するべきチームから発するものだったのだ。
原因ははっきりしない。誰かがサボったわけでもなく、手を抜いていたわけでもない。だけど、一旦匂いがついてしまったら消すことなんて容易ではない。いくら香りでごまかそうとしても染みつき、そして拡散してしまう。
幸か不幸か(クラブにとって)、ぼくの仕事はある程度の落ち着きを取り戻しつつあった。そのおかげで多くの試合を観戦することができた。けれど観戦すればするほどチームは調子を落とした。匂いは充満するばかりだった。
シーズン序盤のACL。ホームの浦項スティーラース戦はほとんどなにもできないまま完敗を目の当たりにしたし、味の素スタジアムではまったく走れないチームにお目にかかった。
ランコ・ポポヴィッチが去りマルコ・ペッツァイオリが率いたチームになっても、ぼくが観戦する試合で勝利を手に入れることは皆無だった。
監督交代の匂いなどたいしたことはない。二〇〇四年も、監督、何回、代わるんだよ、なシーズンだったけれど、思ったほど匂いは少なかった。
二〇一四年のセレッソ大阪とぼくから発する匂いは泡となり、サポーターの感情がくっつけながら長居のあっちこっちで浮かんでいた。ただひたすらスタジアム内にはもどかしさだけがただよっていた。
ストレス耐性はついていたはず…だった。強いけど脆い。脆いけど勝ち上がれる…はずだった。そんなシャボン玉はシーズンを終えることなく、虚しく、儚く、やがて散った。
そのような凄惨なシーズンでも、スタジアムでは相変わらずグッズ難民が続出していた。おかげでホームゲームごとにサッカーショップ蹴球堂には人だかりができた。
一度入場し、座席を確保したあとにわざわざあびこ筋をまたいで蹴球堂に来てくれるサポーターの存在がありがたかった。逆に、なにか考えなければならない事案でもあった。
「セレッソ大阪が本気で常設店舗を作ったら蹴球堂なんてあっという間に吹き飛んでしまうでしょ」
そんな周りの声が僕の耳にも聞き漏れてくる。
所詮、常設のオフィシャルストアとウルトラスを代表とするサポーターのためのコンセプトショップは似て非なるものである。比較することすらが間違えている。それはすでにオープンさせる前から考えていたことだった。
日本代表において香川真司と清武弘嗣が共存できるのか、と聞くのと同じくらい意味のない質問だ。クラブがオフィシャルストアをスタジアム周辺に築いたらサッカーショップ蹴球堂など必要ない。その覚悟でぼくは毎日を生きていた。
とあるサッカー雑誌が裏表紙一面にサッカーショップ蹴球堂の広告を掲載してくれた。タイトルはJリーグ昇格時に描いた『セレッソ大阪、今ここに…』。正直痺れた。これはなにかの啓示なのかもしれない。ぼくは素直にそう思った。
広告を見てサッカーショップ蹴球堂に立ち寄ってくれるサポーターが増えていった。多くの過去と、今を生きる気持ちと、迫りくる未来を融合させていくためだけにこの小さな店が存在しているのだ。歴史の重さをぼくは改めて自分の背中に感じていた。
そのあいだに、ぼくは短期入院をした。
五月の暑い朝。サッカーショップ蹴球堂の八周年記念(八はいかなるときでも重要だ)のフットサル大会のピッチに立っていた。運動不足を感じながらもボールを持って颯爽とドリブルに入った途端、股関節にとんでもない違和感を感じた。
翌日通院し、診断結果は鼠径ヘルニアだった。人生ではじめて自分の身体にメスを入れることになった(しかもデリケートゾーンに!下半身麻酔だから意識のあるなかで手術がおこなわれる。オペ中の先生の鼻歌なんかも当然耳に入ってくるわけだ!)。長期離脱する選手の気持ちをぼくは少しだけわかった気がした。
ブラジルワールドカップは病院のベッドで見る羽目となり、ぼくの体調同様に早々と日本代表は姿を消した(ヨシトがいて、シンジがいて、キヨがいて、ヨウイチロウがいて、ホタルがいるにもかかわらずだ。アズキを含めてこれほど贅沢なセレッソ大阪ワールドカップなのに。現地にいない自分を呪うしかなかった)。
痛みなんてしばらくすればなくなるのだけれど、ついた匂いはいつまでもただよい続ける。放っておくといつの間にか意識すらしなくなくなるほど麻痺してしまう。ぼくもクラブも施術が必要だった。
幸いにもぼくは短い期間で済んだ。だけどセレッソ大阪はそういうわけにはいかなかった。サポーターは二〇一三年の幻影に囚われ続け、そして選手たちはピッチに充満する匂いに戸惑いを隠せないままシーズンはジ・エンドへと向かっていった。
そんな一〇月。
台風の影響をモロに受ける予定の日本平での清水エスパルス戦。一〇数年ぶりにぼくは大阪から静岡へ向かう車旅団の一員となった。直前に西田辺の銭湯で汗を流したぼくは、さっぱりした気分で旅団のメンバーをぼくは見渡した。
…若いサポーターが多い。あの頃とは様変わりしている。それでもフィロソフィーやアイデンティティはなにひとつ変わっていない。気持ちをつなげ、紡ぎあい、譲りあった結果だ。ぼくは心の底から感謝した。
車を運転する若いサポーターを見ながら、シーズン開幕前に依頼を受けた講演会でぼく自身が話した内容を思い出していた。
「背負う必要はまったくないです。 ひとりひとりが戦えばいいんです。全員がサッカーを好きであり続けること、 それが素晴らしいチームを作ります。そのなかでリーダーが応援をリードして、 試合と一体化することが大切です。応援をできる楽しみがサポーター人生であれば、死ぬまで応援を続けられると思います」
ぼくは何度も首を振り、改めて若いアミーゴを見た。
時代は変わった。若い彼らからはあの匂いがしない。自分自身をかいでみる。五体すべてに得体の知れないなにかが染みついてしまっているのがわかる。人生などそんなものだ。
「なんとか残留したいよな」
ぼくは隣に座るひとりの若者に言った。少しだけキョトンとした彼は、ぼくに向かって力強く言い放った。
「We will always be here,ever.ぼくらはいつでもここにいる、ずっと…。あの日以来、この言葉がずっと頭のなかで回ってます。ああ、いまぼくはクラブとともに生きてるんやって思えるんです。こんな苦労だって短い歴史のなかではほんの一瞬の苦悩ですよね。ぼくはやりますよ。戦い続けます」
返す言葉がなかった。苦難の道だからこそ伝わる思いもある。ぼくは誰にも気づかれないようそっと唇を噛み締めて、泣くのを必死にこらえた。