今年のアカデミー賞一押しは『ノマドランド』
Cinema Review第3回は、ゴールデン・グローブ賞作品賞、監督賞を有色女性監督作品として、初めて受賞したクロエ・ジャオ監督の『ノマドランド』です。
既にアカデミー賞の候補にもなっており、ベネチア映画祭の金獅子賞も受賞している話題の作品です。
主演はコーエン兄弟の『ファーゴ』などに出演し、オスカーを2回受賞しているフランシス・マグドーマンド。彼女はプロデューサーも兼ねた存在です。
今回のレビューは、映画評論家川口敦子と、川野正雄、名古屋靖の3名で行いました。
★名古屋靖
日本からアメリカに行き、好きなバンドのツアーを一つでも多く追いかけたい時、夜12時前にショウが終了、そのままクルマに乗り込んで次のライヴ会場の町まで何時間も徹夜でドライブしなければならない事がある。出来れば夜間移動は緊張するし退屈なんだけれど、移動中に迎える日の出の時間ほど感動的なご褒美はない。アメリカでしか味わえない見渡す限りの大空と大地が少しずつ赤く染まっていくその真っ直中にいると「ずいぶん遠くまで来たもんだ。今日も楽しい一日が始まる、アメリカすごいよ!」と、期待感と高揚感が最高潮にまで高まる。『ノマドランド』はそんな感動を追体験できる映画だ。とにかく映画館の大スクリーンに自分を埋没させることをお勧めしたい。
アメリカ人は意外と海外旅行経験者が少ない。「海外に出なくても国内でまだ見た事がない憧れの地がいっぱいあるから」だそうだ。僕らの海外旅行は、彼らにとっての遠方への国内旅行と同じスケール感だったりする。自分の言語とテリトリーである程度安心して冒険ができるアメリカは本当にでかくて羨ましい。劇中「あなたはどこへでも移動できるノマドね」という台詞のように、ノマドたちにとって部屋はクルマだけど庭はアメリカ全土という贅沢。そんなポジティブシンキングもアメリカ的で好感が持てる。以前アメリカの友人に「もう一度行くとしたらどこ行きたい?」と聞いたとき「アラスカ!」と即答だった。映画でもノマドたち憧れの地としてアラスカやハワイが出て来たのには笑った。
ただ、主人公ファーンがノマド生活を始めたきっかけは決して前向きな理由ではない。アメリカには民間企業1社だけで成り立つ町が数多く存在するが、そこが不採算事業に転じた瞬間から町自体が消滅する現実がある。長く暮らしていたホームタウンが消える不幸。自宅を始め友人・知人はもちろん、生活必需品や、電気・ガス・水道などのインフラ事業も撤退してしまう。日本ではちょっと考えづらい事だけれど、経済優先の資本主義アメリカではよくある事だそうだ。
そんな、夫とホームタウンを失った初老のファーンが、ノマドの先輩たちから様々なノウハウを享受され、慎ましくもたくましく成長していく姿は愛おしくとても美しい。そんな先輩の多くがリアルなノマド達だという事が最初は信じられなかった。素人とは思えないあまりにも自然な演技でその表情や発する言葉も滞りなく明快で分かりやすい。パンフレットのインタビューを読んでなるほどと思った。「私たちは他の人々の生活の中にただ存在していただけで、彼らの人生を混乱させようとはしていません。彼らの真の生活に入り込もうと努力しました。」この映画はフィクションとノンフィクションの境界を取っ払い、リアリティのその先へ新たなジャンルを確立している。
また自分の話になってしまうのだが、「じゃあ、またね。」とアメリカ人は別れ際に”さようなら”を言わない。絶対また再会できるのを信じているかのように。そしてこんなに広い国でこんなにたくさん人がいるのに、偶然にも再会出来た時には「また会えたね。」と言いハグをする。友情とか人とかが最も尊い財産だと実感できる瞬間だ。劇中でも何度かある再会シーンは静かだけれど好きだ。特にタバコをあげた若いヒッピーとのエピソードは自分にも似たような経験があって強く印象に残っている。ボブ・ウェルズの「この生き方が好きなのは、最後の”さようなら”がないんだ」という台詞にアメリカの魅力が詰まっているような気がする。この映画は一見すると社会問題を題材にした深刻なものに見えるかもしれないが、それを乗り越えた先にある自由や希望を描いたスケールの大きい作品になっている。
★川野正雄
セルクルルージュ・プロデューサー/Local Production Records・オーガナイザー/DJ
映画製作、洋画買付、海外セールス、映画祭運営など、映画ビジネスは、メジャー、インディーズ共に、一通りやってきました。最近気になる映画や音楽などの情報を、お届けいたします。
90年代クエンティン・タランティーノの排出をきっかけに、アメリカの若いフィルムメーカーのFrom Sundance to Cannes というシンデレラストーリーが生まれた。ロバート・レッドフォードが主宰するサンダンス映画祭で注目されたインディペンデントの監督が、カンヌ映画祭にピックアップされ、世界的な評価を得るという流れである。
今や王道とも言えるそのシンデレラストーリーから生まれた新しい才能が、『ノマドランド』の監督クロエ・ジャオである。
既にアカデミー賞候補、アジア系女性監督として初めてのゴールデングローブ賞監督賞受賞、ベネチア映画祭金獅子賞、トロント映画祭観客賞など、多くの栄誉を獲得しているが、久々にすごい監督に出会えたというのが、率直な感想である。
あまりに『ノマドランド』が素晴らしいので、前作の『ザ・ライダー』を、早速アマゾンプライムで鑑賞した(すぐ見れる便利な時代である)。
川口敦子さんのレビューに詳しいが、実際のロデオライダーを役者として起用した見事なカウボーイ映画であり、『ノマドランド』に勝るとも劣らない傑作だった。
何より驚いたのは、サム・ペキンパーの『ジュニアボナー』で描かれているような男の中の男の世界のロデオライダーを、中国系女性監督が見事に描き切っている事である。
この作品はいかにもロバート・レッドフォードが好みそうな現代の西部劇であり、クロエ・ジャオはサンダンス映画祭での上映で注目を集め、カンヌを始めとする各国の映画祭で上映された。
そして本作品の主演兼プロデューサーであるフランシス・マクドーマンドと、トロント映画祭で出会い、本作品は生まれるきっかけが出来たのである。
前置きが長くなったが、本題である『ノマドランド』について。
作品には『ザ・ライダー』のロデオライダーと同様に多くの実際のノマドが登場する。
先日ご紹介したロシア映画<a href="http://lecerclerouge.jp/wp/dau/" title="Cinema Review-1 史上最大の映画プロジェクト『DAU.ナターシャ』" rel="noopener" target="_blank">『DAU ナターシャ』</a>でも同様の手法が取られていたが、プロの役者ではなく、実際の体現者が演じる事で、映画のリアリティは格段に増し、一つ一つの言葉の重みも違ってくる。
ノマドという言葉には、二つの意味があると思う。一つは劇中でマグドーマンド演じるファーンの台詞にもあるハウスレス。車上生活者として移動をしながら暮らすノマドライフ。
もう一つは非正規雇用者として、定職がなく、スポット的な業務を渡り歩くノマドワーク。
どちらがきっかけなのか、ノマドになる理由として、それぞれが心の奥底に過去の何らかの重い感情を抱えていることは、想像にかたくない。
やむおえずノマドになった人もいれば、ノマドを自らの意志で選択をしている人もいるだろう。
映画の冒頭は、クリスマス需要などで繁忙期のAmazonの倉庫シーンが描かれる。
日本でもAmazonの倉庫業務はハードと言われているが、原作でも過酷な職場として描かれているという。
しかしクロエ・ジャオは、Amazonを貴重な安定した仕事の場として描いている。
定住地を持たないノマドが、Amazonのサービスを利用する事はほとんど無いだろう。
しかし彼らにとって、繁忙期のAmazonのスポット的な労働は、貴重な仕事の場である。
この相反する関係性が、現代のノマドの社会的な位置付けを象徴しているように思った。
移住者生活をする事で、多くの出会い、別れ、そして再会が、映画では描かれる。
ファーンも60歳の設定であり、登場人物の多くが高齢者であり、自分ないしは近しい人との死とも対峙している。
出会いと別れを繰り返しながら、ファーンや多くのノマドが目指す終着点はどこなのか?
ファーンが大事にしたいものは、何なのか?
些細な出来事が、ファーンの心を細かく切り刻んでいきながら、この終わりのない旅は続いていく。
観客は自らの人生観との相対をしながら、ファーンと共に旅を続けていく。
出会いと別れは、シンプルだが、人生の根底に流れるテーマである。
『ノマドランド』は、ノマドのリアルな視点を通じて、このテーマが語られる。
その語り口は、散文的であり、文学的でもある。
あたかも文学作品を読んだような感触で、この映画は観客の心を揺さぶっていく。
中国生まれのクロエ・ジャオが、何故ここまで深くノマドやカウボーイを描けるのか。
ハリウッドのエンターティメントな演出ではなく、フランス映画のような芸術性を目指す演出でもない。
客観的な事実や、日常の風景を積み重ねる事で、観客の心の奥底にテーマを伝える演出は、並大抵な才能では到達できない領域である。
もしかしたら、彼女は現代最高の女性映画監督ではないのか。
プロフィールやインタビューを読んだだけでは、その謎は解決しないので、是非一度川口敦子さんにインタビューして欲しいと思う。
また今回この映画をオンライン試写で見たのだが、アメリカの厳しく美しい風土を感じる為に、再度映画館で見てみたいと思っている。
★川口敦子
1955年生まれ。映画評論家。著書「映画の森ーその魅惑の鬱蒼に分け入って」、訳書「ロバート・アルトマン わが映画、わが人生」等ーーといういつものプロフィールをはみ出すものをここでは書けたらと思っています。
クロエ・ジャオ。長編監督第三作『ノマドランド』で詩とリアルとをひらりと両立させる時空を切り取ったそのやわらかで強かな才能を前に、じっくりと追いかけてみたいと心底、思った。
この春、ゴールデン・グローブ作品賞と監督賞に輝きオスカー最有力候補と注目を浴びる中、”アジア系“"中国出身”“女性監督″と、おなじみのおせっかいなレッテル付けとも無縁ではいられないジャオはしかし、マイノリティであることを成功への切り札のように利用するつもりはない、でももう手遅れかな?――などと、不自由を軽やかにジョークで躱す知的スタンスもあっけらかんと身につけていて、そんな気鋭の軌跡、輝く今への道のりもまた、もっと知りたいとさらなる興味を掻き立てられる。
1982年3月31日北京生まれのジャオは、改革開放期、中国最大規模の鉄鋼会社の重役を経て不動産開発、投資に携わった実業家の父と病院勤務の母の離婚を中学生の頃に体験。父の再婚で「コスビー・ショー」を翻案したような中国初のTVホームコメディ・シリーズや映画『四十不惑』『LOVERS』でも知られる女優ソン・タンタンが新たな母となった。
放任主義の両親の下、学校の成績はもひとつのままマンガ(『ノマドランド』の折、リサーチのため愛用したヴァンはAKIRAと命名)や物語を書くことに熱中、マイケル・ジャクソン、そしてウォン・カーウァイ『ブエノスアイレス』にも心奪われた。スタイリッシュなウォンの映画の底に震えている途上の時を生きる人の覚束なさ、それでも微かに浮上する希望の欠片、世界の果てを睨みながらきっとまたどこかで会えると信じる路上の魂に満ちていく仄明るさ、その愛おしさを思えば『ノマドランド』とのこれみよがしではないけれど見過ごし難い結び目を思わずにはいられなくなる。中国本土への帰還を前にトランジットの感触に裏打ちされた20世紀末香港の今を鮮やかに感覚させもするウォンの快作はまた、08年リーマン・ショック以来の貧困、分断に苛まれるアメリカの今を新種のノマドを通して掬うジャオの映画をしぶとく貫く歴史的現在への眼、思いとも確かに共振してみせる。
いっぽうで90年代、北京で西側、なかでもアメリカのポップカルチャーを享受して成長したという新世代ジャオには、同じ頃、同じ北京で映画を学んでいたはずの中国映画第六世代の雄ジャ・ジャンク―の作品を見たことがあるかとぜひ訊いてみたい(ついでにいえば公開待たれるロウ・イエのノワール『シャドウプレイ』のバブル期の都市の家族の姿を見ると、その闇と結びつけるつもりはないけれど、ロウの映画は見ている?とさらなる好奇心も募る)。『山河ノスタルジア』『帰れない二人』と20世紀末中国のバブル前後の人と国の歩みに向けたジャの真摯な眼差しを少し遅れて生まれたジャオがどう受け止めるかを知りたいから。それにも増して監督ジャが虚実の狭間に果敢に挑む時空を耕し、市井の人とプロフェッショナルな俳優とを分け隔てなくそこで息づかせてみせたこと――ネオレアリズモもブレッソンもキアロスタミもペドロ・コスタも同様の作法を究め,21世紀の映画の世界のそこここで無視し難く同様の試みが試みられているとはいうものの、同じ中国を出自とし(とレッテルづけしてしまうのだが)世界の映画の今を牽引しつつある先達の作法をジャオがどう見るのかはいかにもスリリングな問いとして迫ってくるように思えるから。
ついつい比較に走る悪い癖を反省しつつもこの際だからジャオの映画、とりわけ『ノマドランド』に射し込む先達の影をもう少しだけ追ってみたい。となるとまずはマジックアワーの文字通り魔法のような光の情感、暮れなずむ空に映える詩情で結ばれたテレンス・マリックのことが想起される。とりわけマリック最初期の『地獄の逃避行』は原題“Badlands”からしてジャオの映画が切り取る西部の荒野、そこに美しく浮上するロマンチシズムと静かに響きあう。あるいは移動する季節労働者を物語の核心に置いた『天国の日々』にしても、ヴァンを駆る移動的季節労働者として21世紀を生き延びる新たな種族を追うジャオの映画に遠いこだまを響かせる。ちなみにヨルゴス・ランティモス、カルロス・レイガダス、ミランダ・ジュライにココナダとクセ者アーティストをクライアントとして多く抱えるイレーネ・フェルドマンを共にマネージャーとしていることもあり、ジャオは『ノマドランド』に関する意見のメモをもらったりと謎に満ちた隠者的存在として知られる先達マリックとカジュアルに(?)コンタクトがとれているらしい。
もっとも映画狂的目配せの部分に関しては、ニューヨーク大学院映画科(教授のひとりがスパイク・リーだった)で知り合った英国出身の撮影監督(にして年下の恋人でもある)ジョシュア・ジェームズ・リチャーズの選択に依る部分が大ともいえそうだ。
いくつかのインタビューでリチャーズは、家/定住の地に背を向けて遠ざかる男を扉のこちら側/家/定住の地からとらえたジョン・フォード『捜索者』の名高いエンディングを『ノマドランド』の終幕で引いたと明かしている。ジャオの長編第二作『ザ・ライダー』のヴァラエティ紙による上映会後のQA(2018年4月)で、自分にはあまりなじみのなかったジャンル、西部劇を参照するようにとリチャーズに勧められたとジャオが首をすくめつつ告白する様が動画サイトで確認できる。あるいは21世紀のノマド・コミュニティを精神的に束ねるボブ・ウェルズの集会(RTR)に立ち寄ったファーン/フランセス・マクド―マンドの逍遥のペースに関してはハル・アシュビー監督、ハスケル・ウェクスラー撮影『ウディ・ガスリー/わが心のふるさと』を参考にした、マクドーマンドの刈り込まれた短髪はカール・ドライヤー『裁かるるジャンヌ』へのオマージュともリチャーズは述懐している。『アンモナイトの目覚め』の監督フランシス・リーの長編デビュー作『ゴッズ・オウン・カントリー』の撮影も務めた彼はジャオのデビュー長編から『ノマドランド』までの3作すべてで撮影監督を務め、のみならずプロダクション・デザイナーとしても腕を振るっている。公私共にのパートナー、ジャオの世界へのリチャーズの貢献度はクレジットされた役割にとどまらぬものがあるとみていいだろう。無論、彼の最大の貢献は映像そのものの力に他ならない。地平線、沈む夕陽、上る朝陽、薔薇色に染まる雲、砂漠にぽっかりと立つ恐竜、青く澄んだ夜、荒海、雨、風、そしてまた荒野を切り裂き続く道。掬い取られた圧倒的に美しいアメリカの景観、それが絵葉書みたいなきれいさに堕すことなく迫ってくるのは、人の心、その感情の真実がぬかりなく景観を裏打ちしているから、息をのませる映像と厳然と拮抗してそこにあるからだ。そうしてみると撮影監督リチャーズと監督ジャオの共闘、その結晶ともいうべきふたりの映画を輝かせる無二の磁力の核心もまた人と世界の真実への旺盛な興味なのだと改めて気づく。
ジャオの軌跡に戻ってみよう。14歳。世界は嘘に満ちている、この欺瞞でいっぱいの閉ざされた場所から絶対に脱出できないのではーーと、不安を胸に囲っていたとフィルムメイカー誌とのインタビュー(2013年8月14日)でジャオは振り返っている。両親にも体制にも反抗の心を尖らせていた少女は英語もできないままに英国の寄宿学校行きのチャンスに飛びついた。さらに憧れのアメリカへ。LAでハイスクールを終えた彼女は夢見ていた世界とアメリカの現実とのギャップをかみしめ、政治を学ぼうとマサチューセッツ州にある女子大マウント・ホーリーオーク・カレッジへと進む。が、そこでの4年を過ごすうちに政治にも、それを学ぶことにも倦みはてて、バーテンダーをはじめとするいくつもの仕事に就いて、「様々な人々と出会い、それぞれの歴史を知り。映画でならそうした出会いや経験、みつけた興味をひとつにできるのでは」とニューヨーク大学院映画科入りを決めた。
在学中にものした最初期の短編をめぐる資料(IMDb Pro)をみると様々な人との出会いをベースにしたジャオの映画の作法の基本がすでにそこに見て取れる。報われない結婚生活を送る主婦が一人過ごすクリスマスの夜にPC修理にやってきた移民の労働者とそれぞれの孤独を分かち合う『The Atlas Mountains』(09)、中国近郊都市に暮らす14歳の少女が見合い結婚を強いられて自由への危険な道を選ぶ『Daughters』(10)、春節の日にセネガル人の恋人を同伴した中国人一家の息子が家族に波紋を投げかける『Benachin』(11)――。いずれも『ノマドランド』とも通じるマージナルな環境に置かれた人への眼差を感知させて面白い。とりわけ中国に帰って撮ったという『Daughters』についてジャオは、チャン・イーモウ『紅夢』を大いに模倣したと率直に明かしつつ、映画科の制作課題は俳優と仕事することだったが、舞踊学校に通う少女をみつけ、そこから映画を紡いだ、すでに少女がいる世界にフォーカスしていくこと、非俳優と組むことをして自身の映画作りの術を見出したと、ヴァルチャー誌で述懐している。「暗い部屋にこもって自分ひとりで登場人物を生み出す、創造する、そういうタイプの監督でも脚本家でもないんだと気づいたの」
NYU卒業制作として撮られた長編デビュー作『Songs My Brothers Taught Me』(15)、続く『ザ・ライダー』(17)と、ノース・ダコタのラコタ族パインリッジ先住民居留地で出会った人々と時間をかけ、その世界に入り込むことで手にした物語を、当の人々が生きるーーそんな作法を徹底させ、磨きをかけてジャオの映画はサンダンス、カンヌと世界に羽ばたいていく。とりわけ『ザ・ライダー』! 頭部の負傷でロデオを諦めざるを得なくなるカウボーイの挫折と再生という、いってしまえばありふれた物語の型をとりながら、映画はそこに息づく真正の怒り、悲しみ、慈しみ、繰り返せば人の心の真実を切り取る。主人公の青年の知的障害をもつ妹、彼の親友で事故で四肢麻痺の障害を背負ったロデオ界のヒーローと、ともすれば偽善的描写に陥りがちな"素材″と向き合い、あるがままの在り方をあるがままに掬い上げて対峙する。そんな快作の公正で清潔な眼差し(またまた比較の悪癖を持ち出せばガス・ヴァン・サント『ドント・ウォーリー』とも通じるそれ)にもう一度深く、肯かずにはいられなくなる。
現実に向けた真にフェアな眼と耳、まっすぐに見る力、聴く力。ジャオという監督を、その映画『ノマドランド』をとびきり忘れ難くするのも実はそうしたシンプルな(だから得難い)力ではないか。ジェシカ・ブルーダーのルポルタージュをもとに、映画は独自の物語を抽出する。(フランシス・マクドーマンド)/ファーンを見る人、聴く人として、原作/現実にいる人々の物語を辿りながら、彼女自身の一年の旅、奪われるままに移動生活へと乗り出したひとりが、家もなく法もなく、けれども何物にも縛られない自由と自分を見出して新たに旅立つまでを親密な息づかいと共に見つめ切る。彼女の旅が円を描き振り出しからまた新たに始まる。”セルクル・ルージュ″赤い環の中で、人はどこかでまためぐりあうーー臆面もなくそんな手前味噌な感懐を呟かせるほどに、冴えたジャオの物語りの力に見惚れながら映画の、人の、世界のその先を懐かしく想った。
(C) 2020 20th Century Studios. All rights reserved.[/caption]
『ノマドランド』
2021年3月26日(金)より 全国公開中
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン