「宮下公園」から「MIYASHITA PARK」へ|変遷の歴史
喧しい渋谷の中心地に現れたオアシス、"MIYASHITA PARK"
心地よい空間、アーティスティックな天蓋、治安のいい周辺地域。表面的に見ればポジティブな現状でも、歴史を学ぶことで見え方は変わってくるかもしれない。この場所が誰かにとってのオアシスになったのであれば、それは別の誰かのオアシスが失われたということでもある。
宮下公園の変遷をさらっていくことで、それに纏わる利害関係も見えてくる。また同時に、この場所が昔から持っていた本質的なカルチャーにも目を向けようと思う。
宮下公園の変遷
宮下公園の歴史には少々ややこしい紆余曲折がある。改修工事、ホームレスの立退、反対デモ、またまた改修工事、リニューアル……。
現在の状況に至るまで、宮下公園はどのような状態だったのか、様々な参考文献を引用しながらまとめることにしよう。
-平地の公園として誕生(1953年)
かつて、この場所は東京大空襲によって焼き払われた更地だった。闇市が人々の生活を支え、暗がりの中で必死に生きようとしていた、そんな時代だ。1953年、宮下公園は戦災復興計画のうちの緑地計画によって、産声を上げた。
当時の写真を見る限り、周囲には電車と渋谷川が流れ、その周りには背の低い建物が建っている。いかにも戦後という風景で、どこか不思議と懐かしさを感じる。(あれ、おかしいな、僕は2000年生まれだぞ)
当初の緑地計画はかなり規模の大きなものだったが、時勢や予算が理由であまり実現されなかったという。だがその中で緑地として、形になったのがこの宮下公園であった。そして宮下公園には3000本の木が植えられ、滑り台やブランコも設置されたのだった。今だと少し想像できない。
現在、渋谷の宮下は変わり果てている。巨大なビルが並び、大きな商業施設の上に宮下公園はある。僕自身、そのことを否定するわけではないが、生活困窮者の野宿場所としての機能は果たさなくなった。
そう、かつてこの地はホームレスの方々の野宿場所となっていたのだ。宮下公園の開発は、事実として、同時に彼らの寝床を奪ってゆく過程でもあった。ここで野宿者を支援する団体のホームページから一文を引用して記しておく。
戦後、闇市によって人々の生活をささえることから出発した渋谷の街は、現在、駅周辺を中心に乱立する巨大な商業ビルに威圧されようとしています。
それでも、街の魅力を路面店に求める人は多くいます。
そして、そのようなつながりの中に都市公園はあるべきであり、多少の遊具と豊かな緑があればそれだけで充分です。
僕らが、おしゃれで心地が良いと感じるのとは裏腹に、真逆の居心地の悪さを強いられて追いやられた人々がいるということも忘れてはいけないのかもしれないね。
-東京発の空中公園(1966年)
1966年、この頃から、宮下公園は西側の線路と東側の明治通りに挟まれた長細い形状だった。渋谷川の暗渠化に伴って、宮下公園は人工地盤の上に持ち上げられることとなった。高さは線路の盛り土と大体同じくらいで、人工地盤の下の一階スペースには駐車場が作られた。
この時、東京初の空中公園として話題にもなったという。
しかし、1990年代からこの地区はホームレスの方々の住処となりつつあった。彼らにとっては住みやすい場所だったのかもしれないが、やはり渋谷区としては気になっていたのだろう。
ホームレスにとっては、貴重な寝る場所であり、水場であり、トイレの場所でもあった。しかし、宮下公園の老朽化を理由に、渋谷区は大規模な改修工事・再整備に取り掛かることとなったのだが…。
-リニューアル反対運動(2009-2011年)
この写真は2010年に撮られたものだ。でもなぜNIKEがこれほどまでに批判の対象になっているのか。それには宮下公園の再開発が関連している。
2009年、宮下公園は多数のホームレス滞在と人工地盤自体の老朽化が問題視されていた。それならばと渋谷区は、改修工事の計画を立てたのだ。そこでこの件に関わったのが、かの有名なスポーツウェアブランドNIKEだ。
2009年6月、渋谷区はNIKEに宮下公園の命名権を売却し、その代わり、宮下公園の改修費用は全てNIKEの負担としたのだ。ここまでだと、あまり悪いことがないように感じる。しかし、NIKEは驚きの発表を行なった。
NIKEは、旧宮下公園を「宮下ナイキパーク」と命名することを発表し、なんと有料公園化することを決定したのだ。そして、それまでそこに住んでいたホームレスの方々の退去を推進、シェルターへの入居支援や立退の手伝いを行なったのだという。この方針に、多くのアーティストや市民団体が声を上げたのだ。
2010年4月、アーティストと市民団体による反対運動は激しくなった。
「説明が不十分である」
「公共の場である公園を私企業たるナイキのための閉鎖空間化・宣伝媒体として使用している」
「ホームレスの強制排除をおこなった」
彼らの抗議の理由は上記のものである。かつて、渋谷の憩いの地として長らく愛されてきた宮下公園が、突如として有料公園になることに憤慨したのだろう。思い出のふるさとが奪われるような、そんな気持ちでデモ隊はいたのかもしれない。(これはあくまで個人の考察だ)
また海外の反グローバリゼーションの一部団体がこの動きを支援し、NIKE店舗前でのデモにも発展した。
この時、僕は10歳だった。だからこんなデモがあったことなんて知らなかったけれど、でも確かにデモの理由は明快で、納得のものだと思う。
そんなデモが功を奏したのか、改修工事は延期された。しかし、2010年9月になると、渋谷区は当時の宮下公園の出入り口の9箇所あるうちの7箇所を封鎖し、行政代執行を実施。つまり、行政がデモを無視して強制的に改修工事を執行したということだ。デモ隊のものと見られるテントは撤去され、改修工事は始まった。
しかし、NIKEはネーミングライツ契約の料金を区に支払った上で、「宮下ナイキパーク」の名称を取り下げた。
そして2011年4月30日、改修工事は終了し、リニューアルオープンとなった。多くの人で賑わうと同時に、公園の前では依然として改修反対派がデモを行い、警察が出動する騒ぎにもなってしまった。
-MIYASHITA PARK工事開始(2017年)
2013年、東京五輪大会2020が決定した。そんな背景もあったのだろうか、宮下公園は再び改修工事に踏み切った。そのために公園が封鎖されたのは、2017年3月のことだった。
工事の理由としては、東日本大震災や熊本地震などから耐震性への懸念が高まったこと。経年劣化。バリアフリー的なデザインの不十分さ。防災機能の不十分さ。これらが挙げられた。
そして、PPP(パブリックプライベートパートナーシップ)という形のもと、公園の建て替えが決まった。つまり、官民連携、行政と民間の組織の協力のもとで、改修工事が行われるということだ。
これによって、渋谷区は公募型プロポーザルを行い、連携する事業者を三井不動産に決めたのだ。だからつまり、現在のMIYASHITA PARKのあのショッピング施設やホテル施設は三井不動産の事業ということになる。
しかし案の定、デモが起こった。こちらの記事を見てほしい↓
ここには、抗議者たちの生の声が動画で記録されている。
彼らの抗議の理由としては、以下のようなものが挙げられた。
「公園の価値が損なわれる。公園の商業化の究極的な形だ」
「野宿者の敵視と公園の公共性の軽視がみられる」
こう話すのは、宮下公園の問題について長く取り組んでいる小川てつオさんだ。彼は野宿者の味方だ。宮下公園はかつて、野宿者の集会の場であり、交流の場であった。彼は渋谷区長が、彼ら野宿者の権利を軽視していることに憤慨し、声を上げ続けている。
しかし、声は届かない。度々の面会のオファーも叶わなかったという。
やはり、誰かにとっての良いものに作り替えるということは、別の誰かにとっての良いものを奪うことになるのだ。
これは一長一短で、勝つ人がいれば負ける人がいる、というシンプルな理論なのである。そして、反対運動側はいつも負ける。なぜなら彼らには力がないから。これも残酷だが、現実のように思える。
-MIYASHITA PARK開業(2020年)
2020年7月28日、新型コロナウイルスの影響でオープンが延期されたが、この日にリニューアルオープンを果たした。
コロナ禍でも空気の流れのいい屋上公園は人々に歓迎され、多くの人で賑わった。
また段階的に商業施設やホテルもオープンし、「宮下公園」は「MIYASHITA PARK」となったのだ。
そこは、特有の雰囲気が持ち、特有の人々を惹きつけ、特有の人々を寄せ付けない。若者たちに愛され、居場所となり、chillでゆるい空間になった。
スケボーができ、ボルダリングができ、ベンチでくつろぎ、芝生に寝転び、スタバを飲める。ある夜はナンパの舞台となり、ある夜はTikTok撮影の舞台となる。
浮足立った渋谷の雰囲気はそのままに保ちつつも、人混みや嫌な喧騒からは自由な空間だ。
僕は、この場所に「特異な空気感」を感じている。それは、これまでの激動の変遷の歴史に因るものなのか、それとも若者たち自身によって醸成されるものなのか、この建物の立地や建築デザイン、夜の照明の薄暗さに起因するものかは定かではない。
今後、僕はこの変遷の歴史を踏まえた上で、MIYASHITA PARKの「空気感」の言語化に挑むつもりだ。
今後の調査報告も楽しみにしてほしい。ではまた。
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