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【出産〜産後1.5ヶ月】目と耳の障害児を産んだ私の気持ちの記録

プロフィール

・フルタイム正社員のワーママ
・第2子出産につき育休取得中
・第2子に視覚障害と聴覚障害あり

こちらの記事では、目と耳に障害のある子を産んだ私の、産後から約1か月半頃の状況と気持ちをメインに綴ろうと思います。長いです汗

産後、子どもの障害について調べたり、自分の気持ちを整理する上で、盲ろう児の保護者の方の発信を参照したかったのですが、ネット上の情報が極端に少ないと感じました。
具体的な行政窓口やサポート先についての情報よりもまず、当事者や保護者の方の手記を読みたかったのです。気持ちが知りたかった。

該当の障害をもつ方自体がかなり少ないこともあるだろうと思います。
そこで、障害児の親として、同じ状況もしくは近しい状況にある方の中には、当事者の手記を読んでみたいという方もいるかもしれないという思い、そして私自身の気持ちの整理のためにも、記録を残そうと思います。

ここに書くことは、私の素直な気持ちばかりです。読む人によってはいろんなことを感じるかもしれません。
ですがどうか、ジャッジしたりはせず、「ふーん、この人はそうだったんだなあ」というトーンで読み進めていただけると嬉しいです。
気持ちが湧き上がることそれ自体は、誰もが自分でコントロールできないと思います。
湧き上がる気持ちに善悪をジャッジするのではなく、感じた上で、どう解釈し、どう行動し生きていくかが大事だと私は思っています。
それを理解された上で読んでみてください。

娘の誕生

夏。
我が家に2人目の子どもが産まれた。
髪や眉毛が茶髪〜金髪で、色素が薄い感じの、とってもかわいい、元気な女の子。
みんなにかわいいかわいいと笑顔で祝福されて産まれてきた。

産後入院中、新生児聴覚スクリーニング検査というものがある。赤ちゃんの聴力検査だ。結果は両耳ともリファー(再検査)。反応なしということだった。

「よくあることなんですよ。生まれたばかりだから、まだ耳の中に羊水があったりして、リファーになることがあるんです。だから心配しないでくださいね。また明日検査してみましょう。」
検査終わりの赤ちゃんを連れて結果を伝えに来た助産師さんが、励ますように言ってくれる。

耳のほうも心配であったが、実は目も心配だった。
新生児とはいえ、目をいくばくか開けてくれるはずなのだが、この子は目を開けない。心なしか、目自体が少し小さいような気もした。
眼球を確かめたくて、指でこじ開けて黒目を確認する。
やはり。
黒目が小さすぎるし、グレーがかった色味で、「普通」ではない気がした。

帝王切開の傷跡もあり、産後の痛みにもだえながら、助産師さんが病室に来てくれた時にそれとなく伝えてみる。
「産まれたばかりだからそんなものですよ。心配しなくても大丈夫。」
まずは母体が大事だからと気遣ってくれる助産師さん。

見舞いに来た夫にも伝えてみるが、そんなものじゃない?自分も目は細いから似たのかもね、なんて冗談もはさんでくれる。気にする風でもなかった。

聴覚スクリーニング検査は一度もパスすることなく、リファーのまま退院の日を迎えた。

産後一か月の保健師訪問

出産すると、住んでいる自治体の保健所から保健師さんが自宅訪問してくれる行政の仕組みがある。
うちも例にもれず、保健所から電話があり、産後一か月程度の日取りで地域担当の保健師さんが家に来てくれることが決まった。

感じのよい話しやすそうな保健師さんが来てくれた。
私の体調やメンタルに関するヒアリングを終えて、持参してくださった測定器でベビーの体重を測ってくれる。
その後、聴覚スクリーニングでリファーになったこと、目もまだ診断はされていないが不安要素があることなどを伝えてみる。

情報収集はもちろん、必要な行政手続きや学校見学に保健師が同行してサポートすることも可能です

そう、丁寧に伝えてもらい、驚く。
そこで、まだ分からないことだらけではあったが、まずは情報収集のサポートをお願いした。
当時の私にとっては、スマホで検索して調べること自体かなりしんどかったから。
聴覚障害や視覚障害があった場合に、サポートしてもらえる行政窓口、療育先、学校などの情報を集めてもらえないかとお願いし、快諾いただく。
自分で調べたら分かることだとは思ったが、頼れる人には頼るほうが絶対にいいと思ったのだった。

産後一か月、聴覚検査

新生児スクリーニング検査でリファーになったことで、産後約1ヶ月後、耳鼻科で再検査することになった。
検査を終え、結果をきくために診察室に入る。ドクターの面持ちからして、よくない結果なのが瞬時に感じ取れた。覚悟する。
結果、右耳は反応なし。
左耳は70db程度の反応。

つまり、ほとんど聞こえていなさそうだった。左耳だけでやっと70db。
聴力検査で用いられる単位や検査結果の表のみかたを初めて理解した。

その病院ではそれ以上詳しい検査ができないということで、小児専門の耳鼻科を紹介された。紹介状を受け取って診察室を出る。

まずは、すぐ夫に連絡した。
夫は落ち着いていて、この状況に対してうろたえたり、なにかジャッジするような言動もなく、フラットなように感じられた。そんな彼の反応に安心する。
仕事中のはずの夫は、すぐにろう者向けの最新技術研究の情報やweb記事などをピックアップし、送ってくれた。夫らしい、迅速で現実的で冷静な行動だ。
もちろん私を思いやってのこと。病院の廊下でつい1人、彼らしいな、と思い心のなかで笑ってしまう。
でも、今そんな情報を読み込む気力があるはずもない。もらったURLをがん無視してメッセージのやりとりで会話を続ける。

最近は技術も進んできているから、サポート体制はあるよ。
耳が聞こえなくても、いろんな場所に連れて行って、キレイなものをたくさん見せてあげよう。
この世界を楽しめるように一緒にサポートしていこう。

彼らしい、優しい言葉に救われる。
ああ、窮地に立たされてもこの人はなんとか工夫してやりきる人だった。そういうところも信頼できたから、私はこの人と結婚したんだ。この人となら協力して、子どもたちを育てられるだろう。

産後約1か月、眼科検査

耳鼻科検査から数日後、別途、元々予定されていた産後一か月健診があった。思い切って小児科の先生に聞いてみる。
「目が普通じゃない気がするんです。眼科でみてもらえないですか?」
その場ではうまくベビーの目を開けることができなかったが、先生は急ぎ同じ病院の眼科の先生に当日予約を入れてくれた。

眼科に向かう。
ベテランと思われる眼科ドクターと看護師さんがベビーを預かってくれる。
目を開く器具をつけられたのか、泣き叫ぶベビーの声が廊下に響き渡る。
その声を聴いて、ベビーに申し訳ない気持ちになって涙があふれる。あんなにまだ小さいのに。ごめんね、ごめんね。
泣きながら待っていると、ドクターが息せき切って診察室から出てきた。

「明らかにおかしいです。急がなければならない病気かもしれないから、小児眼科専門の病院を紹介します。お母さんのほうで予約したらたぶん数ヶ月先になっちゃうので、僕の方で今から先方に予約をとります。待っててください」

急展開に驚きつつ、そんなに急がなければならない状態だったのか…やはり目をみてもらってよかった、と思う。涙が止まらなかった。

ドクターは手早く新しい病院での予約を取り付けてくださり、一週間後、小児眼科で専門医にみてもらうことになった。

小児眼科

眼科診察から一週間後、夫も一緒に紹介された小児眼科へ行った。
結果、小眼球、コロボーマ。
なに、それ…と思いながら、ドクターの説明を聞く。
普通より眼球自体が小さく、さらに視神経が一部欠損。水晶体もズレている。手術などで治るものではない。
明るさは感じているようだか、両目とも焦点はほぼ合わないだろう。文字を読んだり、どんな物体かを認識することも難しいだろう、という結果だった。

ドクターの話を聞きながら、左腕の感覚がどんどんなくなっていくのが分かる。まるで左腕にだけ麻酔を打たれたようだった。呼吸が浅くなり、意識が遠のきそうになるのをこらえながら、必死にドクターの話を聞く。泣いたら申し訳ないなと思い、ぐっとこらえて静かに聞いた。

診察がおわり部屋を出る。
やはり、左腕の感覚がほぼない。触っても、ゴムを触っているような、麻酔を打たれたような、変な感覚だった。
酸欠かもしれないと夫に伝え、廊下のベンチに腰掛ける。

耳も満足に聴こえない。
目も、見えない。
この子はどうやって生きていけばいいの?
私たちはこの子をどうやって育てていけばいいの…?

小学生の頃、図書室で借りた偉人伝シリーズで読んだヘレン・ケラーを思い出す。
サリバン先生がしてくれたように、手の感触のみで物事を全て伝えなければならないのだろうか。
言語獲得に時間がかかるだろう。
絶望的だ…
そんなことを思いながら、左腕の感覚が全然戻ってこないことに焦る。

数え切れないさまざまな感情が溢れてきた。

キレイなものをたくさん見せてあげようと言ってくれた夫の言葉が頭の中で反芻される。
目も、見えない…キレイなものも見せることができないんだ。

眼科診察を終えて、今度は小児耳鼻科へ向かう。
耳鼻科では、脳波測定で聴力検査をする予定だった。
検査から数十分後、耳鼻科のドクターに呼ばれる。
結果、両耳とも反応があった。
生後1か月の検査では右耳が反応なしだったので、ひとまずほっとする。

左右で多少違いはあるが、50〜70db。いわゆる中等度難聴の部類に入ると説明を受ける。
生後3ヶ月経った時点で再度脳波検査をし、その結果をもって補聴器の検討を進めましょうということになった。

眼科と耳鼻科の検査を終え、状況が少しずつ分かってきた。
夫婦でこれからのサポート体制について話す。
今はまだ私が育休中だからいいが、復帰はどうする?来る保育園入園申し込みは?療育が必要だよね?支援学校の見学にも行かなきゃ。などなど。

自責

この子の障害は、きっと自分のせいだ。私が妊娠期間中に、原因になるようなことをしてしまったに違いない。
スマホに記録していたカレンダーを遡りながら、妊娠発覚後、誰と会い何を食べ、どんなことをしたのか思い出していく日々が始まった。

思い出せば出すほど、原因となるのはあの飲み物なんじゃないか、あの食べ物なんじゃないか。いや、あの行動がまずかったに違いない、などという思いが止まらない。
行動を思い出してはスマホで検索し、やはりそうだ、あの行動は胎児に影響がありうることだったんだ…と絶望する。それを繰り返す毎日。
誰かにこの話をしても、返ってくる言葉は分かりきっていた。

絶対にあなたのせいじゃない。自分を責めないで。

ドクター、助産師さん、家族や親戚、友達、保健師さんにいたるまで、誰もがこう言ってくれるに違いなかった。そして、実際そうだった。みんな優しかった。
でも、そう言って慰めてほしいわけではなかった。
むしろ、そうだ、その行動に問題があったのだ、原因はお前だと、誰かに断言してほしかった。自分の責任であることを早く知りたかった。
そんなこと無理なのは分かりきっているはずなのに、もしも自分のせいだとわかったら、なにかこの子に対して償いができるのではないかと思いたかった。償って現実が変わるわけではなし、償いようもないのに。
手術で治らないことは分かっていても、私の目と耳をこの子にあげたい。

代わりに私が見えず、聴こえない人生になればいいのに。怖いけど、そうなればどんなにいいだろうか。
神様仏様、もし、私の妊娠生活に不備があって、それが原因でこの子に障害があるならば、どうか私の目と耳を捧げます。だからこの子を助けてください。
診断がおりてから、毎朝近所の神社とお寺にお参りにいって、神様仏様にそう祈った。

なぜこうなったかの原因もわからず、現実を受け入れるしか選択肢が与えられていないように感じることほど辛いことはない。

心の整理

産後1か月半。診断後数日。
医師が患者の胸の複数箇所に聴診器をあてて診察していくかのように、私は自分のさまざまな感情を感じ続け、言語化し続けた。
私にとって最大で最重要な問いは、私はこの状況をどう解釈したいのか、ということだった。
現実は変わらないのであるから、それをどう解釈して生きていくかは自分次第だ。
悲劇ととるのか、運命ととるのか…様々な解釈の可能性を探った。もちろん、正解などない。正解はないが、解釈の落としどころを探らないと、心の重荷のようなものが取れない気がして苦しかった。
だからこそ、自分の素直な気持ちを感じ続けることが大事だと思ったし、同じ状況にある人たちの手記も読みたかった。(見つけられたものもあったが、なかなか数は少ない)

もちろん当時、順序立てて思考できたわけもなく、産後4ヶ月経った今になって整理できることだ。
考えていたことは主に4つに分けられる。

1.視聴覚に障害をもって生きる当事者としてのこの子の人生について
2.障害を生んでいる社会について
3.長男であるお兄ちゃんのケアについて
4.自分の気持ちと人生について


1.視聴覚に障害をもって生きる当事者としてのこの子の人生について
この子の人生を決めるのはこの子だ、と思った。この状況を私がジャッジするべきではない。どう感じ、解釈し、どんなふうに生きていくかはこの子自身が選べるのだ。選べるように、私たち家族がサポートする。それだけだ、と思った。私たち家族は初めてのことだらけで不安があるけれど、この子自身は幸せに生きていけるだろうという、絶対的な確信がある
まずはそう思える自分にすごくほっとした。

2.障害を生んでいる社会について
私は大学時代にジェンダー論と社会福祉について勉強していた。同級生に比べれば決して真面目な学生ではなかったが、人生を通して興味のある分野を専攻していたので、関連分野の本はそれなりに読んだし、興味のある先生の講義は熱心に受けてはいた。
その中で、私が通っていた大学に出張講義に来てくださっていた、全盲の東大教授、星加良司先生の講義を一時期とっていたことがある。(注:私自身は東大出身ではないです)

そんなバックグラウンドもあって、元々「障害の個人モデル」と「障害の社会モデル」という概念自体は知っていた。
「障害の社会モデル」は、障害者が直面する困難は個人ではなく社会に起因するという考え方である。(個人モデルはその逆)

だから私の不安感はもっぱら、我が子に障害があること自体そのものに対してというよりも、
障害があることによって他者や社会との関わり、情報獲得が困難を極めるのではないかということに対してのほうが明確に強かった。
つまり、目が見え、耳が聴こえる人ならなんの躓きもないことでも、障害があることでできない、難しい、壁になってしまう。そういう社会との関係に対しての不安だった。

  • 言語獲得に始まり、その後の学習自体かなり難しいのではないか?

  • 他者とのコミュニケーションは円滑にできるのだろうか?

  • 友達はできるのだろうか?

  • 自立して生活できるだろうか?

さまざまな困難がこの先立ちはだかるであろうことを思うと、涙が止まらなかった。
全盲で東大にストレート合格し、東大教授になられた星加先生のことを知っていてもなお、そんな不安が押し寄せた。
だって、うちの子は目だけではない。耳も不自由なのだから…

3.長男であるお兄ちゃんのケアについて
第2子である娘の上には、長男であるお兄ちゃんがいる。
障害のある子の兄弟のことを「きょうだい児」というそうだ。SNSで調べるうちにそんな言葉も知っていく。
彼は年齢的に、気持ちを言語化したり、正確に伝えること自体がまだ難しいだろう。
普通に過ごしているようでも、本当は戸惑ったり、不安に思っているかもしれない。 
状況がわかってから、お兄ちゃんにも妹の状況を伝えていた。
それに、私たち夫婦が妹のケアにつきっきりになったり、妹ばかり心配し、かまうような言動を増やせば、お兄ちゃんにも影響があるに違いない。
お兄ちゃんが不安に思ったり、心を痛めたり、さみしい思いをしないようにしなければ。そう強く思った。
毎日お兄ちゃんと対話する時間を必ずもとう。彼の言葉に耳を傾けよう。定期的に2人で出かけて、大切に思っていることを全力で伝え続けよう。
夫ともそんなことを話したのだった。

4.自分の気持ちと人生について
2人目の子を授かり、家族4人で楽しく生きていく人生。
そんなイメージがガラガラと崩れ去ってゆく。
きっといろんな人から「かわいそう」だと思われるだろう。私にとって、他人からかわいそうと思われることほど腹が立つことはない。人の目を気にする自分にも嫌気がさす。
仕事復帰はどうしよう?調べれば調べるほど、ケアと仕事との両立が無理なんじゃないかと思えてくる。
長男出産後も、1年間の育休を経て復帰し、継続してフルタイム正社員で働き続けてきたが、ここにきて断念すべきか…
自分のキャリアを子どものために諦める。果たして自分にそれができるのだろうか?はたまた、両立する道を選択し得るのだろうか?全然分からなかった。
それにもし、自分が心身のどこかに支障をきたしたら?メンタルが崩れることは一番避けたい。
不安な気持ちに襲われる毎日で、身体や心が壊れては元も子もない。自分、そして家族のためにも、元気でいられるようセルフケアをしなければ…
あと、友達や同僚と子どものことを話すときに、うまく対応できるだろうか?障害のことをわざわざ話す必要はあるだろうか?
この子の個性やアイデンティティの本質は障害にあるわけじゃないのに、「こんにちは、うちの子は目と耳に障害があるんです。(どうか、変な目で見ないで…)」とまずは説明しなければならないような気さえしてくる。哀れみ、好奇の目、いろんな他者の目が注がれることが想像されて、暗い気持ちになる。

セルフケア

視覚と聴覚障害があると分かった今、親としてやるべきことは、すでにある程度決まっているはずである。
病院との連携。言語聴覚士の方との相談。盲学校やろう学校の見学。行政窓口に行き受けられるサポートや相談先のピックアップ。

情報収集し、実行し、サポートしていくのみである。行政や医療、当事者やサポートしている団体などにも適切に頼ればいい。

私たち夫婦なら、自分たちだけでかかえすぎて倒れることもないだろう。適度に人に頼りながら、協力しながら対応していけるだろうと思えた。

一方で注意しなければならないと直感的に感じたのは、自分の心のケアについてだった。
心は気付かないうちに疲れ、蝕まれる。家族のためにも、私が心身を病むわけにはいかない。
一番やりたくないのは、気持ちに蓋をし、いつかそれがあふれて心が壊れることだった。
そうならないためにも、いくつかのことを決めた。

・湧き上がってきた気持ちをジャッジしない
・気持ちに蓋をせず「感じきる」
・信頼できる人に気持ちを話す
・運動する

気持ちに良し悪しや正解はないと思っている。自然に湧いてきてしまうものだから。
でもそれをどう解釈し、言動に表していくかは自分で選べるはずだ。
いろんな感情になるだろうけど、まずは感じきろうと誓った。
きっと、感じきったという事実こそが、今後の人生で自分の助けになるときがくるだろう。

そして、信頼できる人に気持ちを話した。家族や、友人たちに。
注意したのは、私の気持ちをジャッジしたり、親切心からだとしても、聞いてもいない余計なアドバイスや持論を展開してきそうな人、障害に対しての偏見や哀れみを表現してきそうな人とは会わない。会っても子どものことは話さない、ということに注意した。
(私を含め、誰もが何かに対して偏見やバイアスは持っていると思う。それがある事自体は自然だし悪ではないけれど、表現するかどうかはその人次第だから。)

今の自分の状態では、そういった人とのコミュニケーションは負荷が高すぎるし、傷つくだろうと思った。
幸いにして、こういう話を素直に話せる家族や友人が複数人いたことで、私はとても救われた。命が救われたといっても過言ではない。
ときには電話で、ときにはオンライン会議ツールで顔を合わせて。はたまた、直接家に来てくれる友人もいた。
あのとき、何時間も話をじっと聞いてくれてありがとう。私の気持ちを受け止めてくれてありがとう。否定せず、哀れまず、静かに聞いてくれて、本当にありがとう。
みんながそうしてくれたから、いま、元気に生きていられていると伝えたい。

産後約1.5ヶ月、保健師訪問

眼科と耳鼻科の診断がおりてから更に2週間ほどして、2度目の保健師訪問があった。今度は夫にも在宅していてもらい、ベビーと3人で迎えた。

今回は、以前お願いしていた情報収集の件でわざわざ家まで来てくださった。
家に上がると、娘をかわいいかわいいと言ってくれることにもありがたくて、涙が出る。
他者にとってもこの子がかわいい赤ちゃんで、愛される存在であると確認できるだけで、涙が出た。

ダイニングテーブルをはさみ対面して座る。
何枚かの案内紙やパンフレット、webサイトを印刷したものなどを広げて並べてくださる。

盲学校はここ、ろう学校はここ。
個別相談はここで。
最近、都内に盲ろう者支援センターができたから行ってみるとよさそう。
保育園入園の手続きや窓口はここ。
などなど。

さらに、すでに盲学校、ろう学校、自治体の保育園入園の担当者の方に保健師さんから電話済だという。
すでに事情を話してあるから、それぞれこの人宛に電話すればスムーズですよ、と案内してくれた。

すごくありがたかった。
まず自分で検索して、調べることが心理的に相当しんどい。そして電話するなんて更にしんどい。
きっとそういうことも職務経験からご存知なのだろう。先回りしてやってくださったことで、相当肩の荷が下りた気がした。
やはり、プロに頼れるところは頼っていくのがいいと、夫婦で確信を深めた経験だった。



だいぶ長くなってしまいました。
産後1.5ヶ月頃までの記録はいったんここまで。

今後は、その後の情報収集の様子、当事者の方のお話をきいた話、学校見学、保護者の方とのグループワーク、いろいろな書籍を読んで考えたことなどを書いていこうと思います。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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