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『家族の旬 人生の西』明治生まれのばあちゃんのこと②ばあちゃんがぼけた

昭和生まれの筆者が、家族をもうほとんどなくした令和7年時点で、家族を卒業していった家族の人々のことを振り返る『家族の旬 人生の西』。今回は、明治生まれのばあちゃんのことの2回目です。
寺内貫太郎のような父、ぼけたばあちゃん、何事にも耐え続けた母、そして、いまだに受け入れられない最期であった姉、そして、途方に暮れた私。そんな家族の物語。

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ばあちゃんは、ある時から、なぜか、1日に何回も同じことを訊くようになった。私の家に来て、しばらく座っている間に、何度も何度も『今何時ならえ?』と訊いた。お母さんが、『ばあちゃん、さっきゆうたばっかりやで。今3時10分』とあきれながら言うと、ばあちゃんは、『そうかえ』と言い、しかし、それから10分もしない間に、また、耳を後ろにあてて、『今何時ならえ?』と言った。
そして、それ以外には、帰りたい、帰りたい、と言うようになった。そしてそれは決まって、ばあちゃんの生まれ育った佐渡(さわたり)という町だった。『佐渡へ帰りたいわ』と言い、そして、ある時には、ばあちゃんの家から、どこか昔の江戸時代あたりの商人が、峠超えをするような大きな風呂敷包みを背中に背負ってやってきて、私の家の玄関先で、『奥さん、ありがとうございました。これから佐渡へ帰らせてもらいます』と丁重にうちのお母さんに挨拶をして、ものすごい速歩きで、坂を下りて町のほうに歩きだそうとすることもあった。足が痛くていつも膝をさすっていたばあちゃんだが、ぼけてからは足の痛みは感じないようだった。この頃には、誰が誰だかわからず、うちのお母さんのことを、ばあちゃんが子どもの頃に奉公にでた先の奥さんだと思っていたりした。
実の息子のことさえすでに忘れていて、ばあちゃんがぼけ始めた時、ばあちゃんの娘たちがはやく遺言でも書かせないと、と思ったのか、あの畑は、だれだれ、隠居の家はだれだれ、と、ほとんどあまり資産価値もないであろう、畑や山の分配について話していたが、なぜか、うちのお父さん(ばあちゃんの息子)の名前はけっして出てこず、ばあちゃんは、お父さんをみても、『だんなさん』と呼んでいた。お母さんは、『ばあちゃんはよっぽどお父さんのことが嫌いなんやわ』と笑っていた。
令和7年の今でこそ、アルツハイマーや、介護は、誰しもが通る家族の問題なのだが、当時、まだ昭和の50年代はそんな言葉を聴くのはほとんどなかったのだ。もちろん、老人ホームにはいる、などのことは普通に行われていたけれど、『ぼけた』というのはまれだった。
ばあちゃんは、結局、ぼけはじめて16年して、家で亡くなった。その間、家庭崩壊するからばあちゃんを施設に預けては?と勧められることもあった。しかし、それでもそうしなかったのは、一にも二にも、施設にばあちゃんをお願いできるだけの財力がなかった、ということだと思う。でも、家庭崩壊は、義母であるばあちゃんを本当によくみたお母さんが、必死にうちの家を支えていたから、壊れもしなかったけれど、その間、きっと、お母さんの心は崩壊していたのではないかと思う。
罪深いことに、それは私が、40代になった、ずっと後に考えたことだったけれど。
 
次回以降は、ぼけたばあちゃんが巻き起こしてくれた、いろんな出来事について。
(つづく)

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いちあ
チェロで大学院への進学を目指しています。 面白かったら、どうぞ宜しくお願い致します!!有難うございます!!