#46 またピアノを弾いてみる ~小品のすすめ~
最近、またピアノを弾くようになった。
主に、フォーレの歌曲の伴奏ピアノを弾いている。それ以外だとドビュッシー、ラヴェル、サティ、モンポウなど。些か好みが偏り過ぎだろうか。
技術的に難しい箇所は省略して弾くようになった。また、一曲丸ごとではなく部分コピーをするようにもなった。例えば、テーマ部だけ弾いて終わり、みたいな。つまみぐいのようなものだ。
以前の私と比べると、随分と気軽に取り組めるようになったものだ、と思う。気軽さは身軽さにつながる。だから、とりあえず今は肯定的に捉えることにしている。
また、私は五線譜の読譜に苦手意識を持っている。
他者と比較したことが無いからよくわからないが、多分、遅い。
だから、極力暗譜することにした。
暗譜が得意なわけではないが、読譜よりもずっとマシだ。
曲を覚える際は頭でっかちにならないようにしている。つまり、体で覚えるということ。元来、私の学習とはそのようなものだった。だのに、近年めっきりそうした学びをしていなかった。そうしたことに気付く。粗悪なオツムを必死に回転させ、冷却が追い付かないように感じていた。だから、より楽にできる道を行くことにした。切り替え。
そもそも五線譜は情報量が多すぎる。私ときたら母語の文章だって読むのに時間が掛かると言うのに。その上、管弦楽や吹奏楽の総譜に関しては移調楽器とかいう代物もあるとくる。正直、私はもう半ば諦めているようなところがある。そこまでオケ好きでもないし。もういいかな、と。
できることではなく、できないことこそが個性を規定している気がする。
あれ、誰かそんなこと言ってた気がするが・・・誰だったか?
あぁ、こうなるから記録は必要なのだろう。
私はnoteによる記録の術を持っている。これは最近の僥倖だ。
私は、作曲家が書く小品が好きだ。小品とか、小曲といったことばそれ自体も良い感じがする。
質素、簡素、ある種の貧しさ。そして貧しさから浮かび上がる控えめな優雅さ。
そうしたものが私にとって大切なものであって、あまり大きなものへの憧れは無い。
あぁ、だからオーケストラにも疎いのか。
それにオケは庶民的でないのも理由かもしれない。私の本分はあくまでも庶民であるから。
それで、そう、小品の話だった。
その小品の中でも、コンクールや試験の審査用に書かれたものだとか、企画のために書かれたものだとか、そういった趣旨で生みだされた作品がある。
私はそういう曲をピアノで弾くことが好きだ。
有名なものだと、ラヴェルの「ハイドンの名によるメヌエット」などが挙げられる。
楽譜を読んだり、その音楽を聴いていると、作曲家は見栄っ張りな所があると思うことがある。
力作というのは本当に隙がないし、意図を隠そうとしていると感じる。完全無欠感があるというか(「悪魔の代弁者」みたいなことをやっているに違いない・・・・)。
しかし、小品などはラフさというか、適当な感じが残っている。私はそこが好きだ。即興性を感じることもある。
作曲家の本質というか、癖のようなものがそのまま残っている感じ。その人の核が凝縮されている感じ。飾らない、素の姿に近い。
そのような傾向があるから、その人の思考とか感覚を理解する上では小品の方が適していると私は思う。
その上、小規模であるし、技巧的にも易しく気軽に演奏できるので、楽しむうえでも結構良い。
何というか、私にとっては得しかない。まぁ、もっとも、その曲が好きであることが大前提なのだけれども。
参考までに、私がピアノでよく弾いているフォーレの曲のリンクを貼りつけておく。ピアノを弾かれる方は是非とも弾いてみてほしい。
初見視奏曲(1903年)
今日もまたピアノを弾くと思う。楽しみだ。