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ピーマンファーキーは、遠くだよ?

「ピーマンファーキーが許さないぞ。」

2歳9か月になる娘が、寝る前の赤ずきんちゃんごっこ中にそう言った。
はじめは聞き取ることができず、ピーマンファンキー?ピーマンラッキー?と何度か確認したところ、娘ははっきりと「ピーマンファーキーだよ」と応えた。
ピーマンファーキー扮する娘はその後、悪いオオカミをパンチで撃退し、ついでにおばあさんもぶん殴ると、満足したのかスヤスヤと眠りについた。

父親である私は、ピーマンファーキーが気になって中々眠れなかった。
そもそも普段は寝かしつけた後、妻にバトンタッチするので娘と一緒には寝ていないのだが、その日はピーマンファーキーという見知らぬ男―性別は不明だがなんとなく男性名な気がした―の名前を聞き、なんだか悪い遊びを覚えた思春期の娘を憂う親のような気持ちがした。
ということを、妻に話すと妻も不思議がっていた。娘には昼間テレビを見せているが、その中で「ピーマンファーキー」なるキャラクターは出てきたことがないらしい。
何かのキャラクターから連想したんだろうか。例えば、ニンジンパーティーとか。玉ねぎバンジーとか。
しかしそのようなキャラクターも思い当たらない。
昔NHKでやっていた「やさいのようせい」というアニメを私は昔好きでよくみていた―レタスさんが可愛かった―。

あのアニメにはたくさんの野菜が出てくるから連想されるものはありそうだが、「やさいのようせい」はまだ娘に観せてはいない。

いつの間にか娘は、親の知らない言葉や価値観を作り出し、自立した人間になっていくのだろう。
その過程は、喜ばしいことであると思うが、親の手から離れていく我が子の背中を見送るのは寂しくもある。
まさかそんな娘の成長を「ピーマンファーキー」で感じることになるとは思わなかった。

誰だピーマンファーキーって。というかファーキーってなんだ?
ファンキーならまだわかるのだが。
もしピーマンファーキーというキャラクターがいるとしたら、どんな姿をしているのだろうと、私は想像を膨らませてみる。
まず基本的なシルエットは、ピーマンにほっそりした手足が付いた形。
そしてサングラスをかけ、頭にはバンダナを巻いている。
バンダナの上から、麦色の髪が箒のように逆立っていて、皮ジャンにジーパン。真っ赤なエレキギターを携えている。
駄菓子の、「タラタラしてんじゃね~よ」のパッケージに描かれているキャラクターのピーマンバージョンといった姿である。
ニヒルな口元でぼそっと「ふっ。ファーキーだぜ・・・」と独特な誉め言葉をため息のようにつぶやくのである。

もしくは。

黄色いアロハシャツに白い短パン。腰回りが少し横に膨らんだ米ナスのようなシルエットのピーマンが、陽気な音楽とともに歩いてくる。
福々しい笑みをこちらに向けながら「お前たち~~~。ファーキーだぜ~~~」と言い、おもむろに踊り始めるのだ。

そのような姿を想像し、また声は、声優の三木眞一郎さんのような飄々とした掴みどころのないいい声であろうか。などとディティールを凝り始める。
私はいつのまにか自分が、ピーマンファーキーに心を奪われていたのだと気づいた。

それからも娘の口からはしばしばピーマンファーキーの名前が出てくるようになった。
ある時は公園で遭った犬をピーマンファーキーに抜擢したり。
ある時は娘が自らをピーマンファーキーと名乗り、悪者(パパかママ)を成敗したり。
またある時はお風呂に入りたくない理由を「ピーマンファーキーと遊ぶから」と言ったり。

ピーマンファーキーと初めて対峙してから1週間ほど経ち、彼の存在がもう我が家に溶け込んでいた頃の事。
公園からの帰り道でふと、娘に「ピーマンファーキーってなに?」と聞いてみた。
もっと早く聞けばよかったのだが、それまでは想像の余地を楽しんでいたのだ。
すると娘は少し考えてこう応えた。

ピーマンファーキーは、遠くだよ?

またも意図がつかめない言葉に、今度は怖い話の序章を聞いているときのような不穏な感覚を得た。
ピーマンファーキーは、遠く?
夕焼けに染まった街路樹が風も吹いていないのにざわざわと揺れたような気がした。
娘は真顔とも笑顔ともつかない顔で「そう・・・遠くだよ」
と言いながら、私とつないでいた手を離し一人で先に歩いて行ってしまった。

なんだピーマンファーキー。お前そんな一面もあるのか。
ちょっと不穏な感じもあるのかピーマンファーキー。
目が離せないなピーマンファーキー。
このころには私はもう完全にピーマンファーキーの虜になっていた。

しかし、それからしばらく娘がピーマンファーキーを名乗ることは無かった。
子供の流行はとてつもない速さで通過していく。
少し前まではアレを欲しがっていたのに、今は全く違うソレである。
親の感心が沸いたころには、娘はもう興味をなくし、かわりに親がハマってしまう事も良くある。
私の方から何度かピーマンファーキーの話題を振ってみたが、娘は興味なさげに受け流す。

初めてファーキーと出会って3週間程度たっただろうか。
そのころには娘も私もピーマンファーキーの事をすっかり忘れていた。

2024年4月27日 土曜日
妻と娘と三人で朝の散歩がてら町を歩き、カフェで朝食をとる。
モーニングで有名なそのカフェで私は毎回豆乳ラテを頼むのだが、いつのころから豆乳ラテがなくなり最近は普通のカフェラテを頼んでいる。
パンと、ジャムと、卵ペースト。調子に乗って海老カツバーガーと鶏タツタバーガーも注文すると、毎度のことながらそのサイズに驚かされる。
あぁそうだ。ここのメニューはどれも逆写真詐欺なのだった。メニュー表の写真よりも大きい料理が出てくる。
朝からしっかりと食べて、3人とも満腹。娘曰く、お腹パンパカパンの状態であった。

また、娘はアニメの影響で公衆電話が好きになった。
電話を見つけると「電話かけたい!」といって走っていく。
そして10円も入れずに適当な番号を押して「もしもし!どなたですか!?」と聞くのである。
大抵後ろで見守っている私が「はい、パパです。そちらはどなたですか?」と応える。
駅の電話に3回、道端にある公衆電話に1回足止めを食らって、散歩の時間ははからずとも1時間半を超える。
普通に歩けば往復30分程度の道である。この事実は親サイドの機嫌によって良くも悪くも作用するようだ。
虫の居所が悪ければ、時間の無駄。子に邪魔をされる障害物競走のような苦行のように思えるし、心晴れやかな時ならば子供の自由な発想や好奇心を育む素晴らしい時間に思える。
すべては親の気分次第である。子は親がイラついていると目に見えて萎縮する。
なるべく娘には天真爛漫に育ってもらいたいものだ。
その日は私の機嫌もよく、朗らかな朝であった。

カフェを出て、公衆電話を過ぎ、散歩も終盤に差し掛かったころ、私はある種苗店の前で足を止めた。
そこは、普段シャッターが下りていて営業中の姿をめったに見せない店だった。
丁度子育て本を何冊か読む中で、子供と野菜を育てるのは道徳教育・食育の観点からも効果的であるというのを知りうちでも実践したいと思っていたのもあって気が向いたのである。
店の前にはトマトや唐辛子、ミニなすの苗が並んでいた。
また驚いたことには、メロンの苗もある。メロンを家庭菜園で育てられるのか。どれくらいの大きさになるのだろう。
そんなことを思いながら見ていると、店主に声をかけられた
「お子さんと育てられる野菜もありますよ」
子連れが種苗店で足を止めたらほぼ理由はそれだろう。店主も手慣れたものである。
私は、簡単に育てられてあまり場所をとらないものはどれかと聞いた。すると
「であれば。こどもピーマンがおすすめですよ。苗と身が小さくて育てやすいし、甘いのでピーマンが苦手な子供も食べられると思います」
さすが店主。即答であった。もうそれ以外の選択肢がないかのように要所を押さえた提案だ。
娘に勧めると初めはピーマンを拒んだが、毎日お水を上げて一緒に育てよう。というと、その気になったのか「ピーマン大好き!」といってはしゃいでいた。
ピーマンの苗を買い、ついでに鉢も買って、図々しくも苗の植え替えまでお願いした。
店主は「普段はここまで出来ないんですけどね~」と言いながらも子供の手前、快く引き受けてくれた。ありがたい。
店を出て、鉢に移したピーマンの苗を家に持って帰る途中。この子の名前をどうするかという話になる。

私としては、やはり名前は「ファーキー」にしたい。妻もおそらくその気だっただろう。
しかし、娘が決めた名前にしようと思っていたので、もし娘が「ピーマン太郎にしよう」と言えばそれに従うつもりである。
なんとか「このピーマンなんか、ファーンキーだよねぇ」などと誘導するか。しかしそれは子供の自主性を尊重できていない気がする。
そんな葛藤を心の中で繰り広げていると、ふと娘が、苗に向かって
「ピーマンファーキー!こっち向いて!」と言った。
娘が自ら苗の事をピーマンファーキーと呼んだのだ。

娘の中でファーキーは生きていたのか。飽きてこの頃はもう名前も出てこなかったのに。
しっかりと娘の心にファーキーは根付いていて、今日ついに、彼は実体を手に入れたのである。
概念としての存在だったピーマンファーキーが、ピーマンの苗という形でこの世に顕現した。

これは少なからず私の中で感動的な瞬間だった。
家に帰り、ベランダにファーキーを置き水をやる。娘は慎重に水をやるが、どうしても同じ場所に水を撒くので土がえぐれて穴ができる。
穴を埋めながら私が鉢をくるくると、ろくろの様に回し、そこに娘が水をやる。水は均等に土を濡らしていく。
それから、苗倒れしないように、支えの棒を隣に差し、私の書斎にあるPCのケーブルを纏めるときに買って余った結束バンドで固定する。
少しの手間だが、それだけで愛着がわき、私の中で一度落ち着いたピーマンファーキーへの思いが再燃する。
1か月程度で実が成るらしい。それまで、ファーキーに毎日水をやる生活はきっと楽しい時間になるだろう。
娘にとっても楽しい一日の始まりとして、受け入れてもらえたらと思う。

とはいえ、つくづくピーマンファーキーとは何なのだろうと思う。
ある時突然現れ、興味が沸いたころにふと彼の存在が怪しげな光を放った。
そして忘れたころに、ピーマンの苗として我が家に来たのである。

なんだか、妙に不穏でミステリアスな印象が私の頭から離れない。
すっかり安心しきったころに、もう一山事件が起こりそうである。例えば、気づいたらピーマンファーキーに家族全員寄生されてしまうんじゃないか。

ある日私が家に帰ると、部屋の明かりが消えていた。普段は家に妻と子供がいるはずである。リビングに入ると、暗がりの中妻が生のピーマンを一心不乱に貪り食ってた。なんてことが起こるんじゃないだろうか。
何て恐ろしい。妻は理性を失った飢餓の獣のように殺気に満ちた目でこちらを一瞥する。
恐怖に気おされて一、二歩下がると暗がりの中で足もとに転がった何かを踏んだ。パキュっと音を立てたそれはみずみずしく皮の張ったピーマンだった。
見渡すとそこかしこにピーマンが散乱している。その異様な光景を見て、なぜか私はおいしそうだと思った。
まるで楽園だと思った。暗がりの中、正気を失った妻を前にしても、心配や恐怖よりも先に足元のピーマンへの興味が脳を支配する。
なぜ?そうか。私ももう・・・。
ピーマンの青々しい匂いが私の理性を焼き切ってしまった。私は床に転がっていたピーマンを口に放り込む。噛むか噛まないかの内に飲み込み、また掴んだピーマンをほおばる。
手が止まらない。なんておいしい。幸せなんだろう。その時の私にはもはや、まともな理性は一片も残っていなかった。
そんな我々夫婦の姿を、巨大な大木となったピーマンファーキーに抱かれるようにして座る我が子が高みから見降ろしていた。
あさましくピーマンを貪る人間だったモノを見て、娘はニヒルな口元でこうつぶやいた。

「人間って本当に、ファーキーだね」

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