濡衣
次の記事の調べるのに時間かかってるので、それまでの繋ぎに。知られた言葉なのに由来知らなかったなーの話。
筑前國続風土記 巻五 那珂郡 上 より (意訳)
聖武天皇(奈良時代)の頃、佐野近世という者が筑前の守に任じられて、京より赴任してきました。一緒にきた奥方は、到着してから少しして亡くなってしまいました。
しばらくして佐野は地元の女性と再婚しました。佐野には先妻との間に娘がいましたが、継母となった女性はこの娘を嫌い、どうにかして亡き者にしようと考えていました。
そこで漁師に金品を握らせて、「そちらの娘が夜な夜なうちにやってきて、釣り衣を持って行く」と訴えろと言いました。
漁師は、継母に言われたように先の話を佐野に訴えました。
佐野はこれを聞いてとても怒り、娘のところに行ってみると、娘は濡れた衣を被って寝ていました。これは、娘が寝た隙に継母が被せたものでした。
佐野は騙されてることも知らず、すぐに娘を殺してしまいました。
翌年、娘が佐野の夢に出てきて二つの和歌を詠みました。佐野は夢から覚めて、娘に罪がなかったことを悟り、これまでのことは継母の謀だったのかと、離縁して実家に送りかえしました。
その後、佐野は出家して肥前の松浦山に住みました。松浦上人と呼ばれました。
それからというもの身に覚えのない罪を背負うことを、濡れ衣を着ると言い伝え、歌にも詠まれるようになりました。
その娘の墓は、昔は聖福寺西門の側にありましたが、最近(江戸初期前後)移転して、今は箱崎松原の西の橋の側、博多の東、石堂口の川の東の側の小池の中にあります。大きな石が目印です。
父の夢に現れた娘の詠んだ歌です。
ぬぎきする そのたばかりの ぬれ衣は
ながきなき名の ためしなりけり
ぬれ衣の 袖よりつたふ なみだこそ
なき名をながす ためしなりけれ
濡れ衣を詠む後の世の人の歌は多すぎて、わずらわしいので書きません。
現在は「濡衣塚」として福岡市博多区千代3丁目に保存されています。
聖武天皇の在位は西暦724年3月3日-749年8月19日です。その頃のお話ということでしょうか。
濡れ衣の由来の説は他にもありますが、これが一番悲しいお話ですね。
肥前の松浦山は、今の佐賀県唐津市の鏡山です。ここにも「佐用姫」のお話があったりしますが、それはまた次の機会に。
筑前國続風土記には、お話の最後にしばしば「いたつかはしければしるさず」という言葉が出てきます。「わずらわしいので書きません」、という意味のようです。ぶっちゃけ、「めんどくさい」ということです。書いちゃうところが、なかなかお茶目ですね。
2024.1.31 ルビを追加しました。