天の道を往く神
天の道を往く神は太陽神、今回はそんなお話です。
福岡県飯塚市には、「天道」という名前の地域が存在します。かつては嘉穂郡穂波町に属していましたが、現在は飯塚市に編入されています。この「天道」という名前は、天道宮という神社に由来していると言われています。この地名の由来について、いつもの筑前国続風土記を引用してみましょう
筑前國続風土記 巻之十二 穂波郡 天道町 (意訳)
筑前國続風土記によると、建立は寛永7~8年のようですが、由来の案内板では1000年以上前となっています。どういうことでしょう。
町の由来となった「天道宮」は、現在祭神は「大日孁貴命」となっています。また、合祀されている神々には素戔嗚尊と菅原道真公が含まれます。昭和19年刊行の福岡県神社誌においてすでにこの記述が存在しています。
しかしながら、筑前国続風土記の記述と現在の情報が異なることから、江戸時代以降に変更があった可能性も考えられます。この事象の背後にある理由は何でしょうか。
神社の案内板によれば、「古老の言い伝え」に基づき、「源満仲が大将陣の麓に祭る天照大神に祈願した場所」として、この時期に天道宮が存在していた可能性が示唆されています。
この記述は、近隣の大将陣神社の由来に関連付けられており、「天慶四年、源満仲が藤原純友の反乱討滅の勅命をうけ、当山に陣をおき、天道の加護により亡そうと西麓に日天子を勧請し祈った」という記述からの派生と考えられます。
しかし、祭神が大日孁貴命であるならば、女神にあたり、社の様式は「女千木」になるべきですが、この社は「男千木」です。すなわち、実際の祭神は男神であることが分かります。さらに、大将陣神社を基準にすると、天道宮は西ではなく北西に位置しています。
では、「西麓に日天子を勧請し祈った」という記述について考えてみましょう。
まず、「日天子」という表現は、一般的には観世音菩薩を指します。大将陣神社の北に七観世音菩薩堂があることから、この可能性も考えられますが、位置的には西麓にはないですね。
「日天子」はまた太陽神としての側面も持っており、天道宮の由来に記されている「天照大神」にも近い関連性があるかもしれません。実際、天照大神には男神説もあるため、天道宮が男神説を強調した神社であるなら、社様式が「男千木」であっても理解できるかもしれません。ただし、祭神の名前が「大日孁貴命」という女神の名前であることを考えると、やはり矛盾があるように思われます。
さらに「日天子」という記述にも疑問が生じます。なぜ「日天子」と表現されているのでしょうか。
大将陣神社から西に位置する範囲には、恵比須神社が存在します。ただし、現在の恵比須神社は規模が小さく、由緒については不明な部分があります。国土地理院の地図をみると、1986年までの記載は見当たらず、以前は荒廃していたかもしれません。(現在は天道宮の氏子の方々によって管理されているようで、実際の歴史は古いと考えられます。)
恵比須様は、別名で「蛭子(ヒルコ)」神ともいいます。伊耶那岐命(イザナギノミコト)と伊耶那美命(イザナミノミコト)との間に生まれた最初の神様です。(彼は葦船に乗せられて流されたとされていますが、大昔の風習で、実際には流された後すぐに拾われたものと思います。)
この神様の名前について、先代旧事本紀では「大日霊子貴尊」とも呼ばれ、大日孁貴命と対を成すもう一人の太陽神(日天子)とされています。
藤原純友の乱の頃なら平安末期ですし、大日霊子貴尊の信仰も今よりずっと隆盛でしたでしょう。
したがって、私は天道宮の祭神について以下のように考えます。
天道宮の祭神は、元々は松永孫四郎入道正齋、あるいは彼にお告げを授けた男神でした。建立当初は信仰が栄え、賑わいを見せていましたが、松永孫四郎入道正齋の死後、次第に信仰が薄れ衰退しました。その後、以前の賑わいを取り戻すため、大将陣神社の由来に記された「西麓に日天子を勧請した神社」という記述から、祭神を大日孁貴命に変更しました。このため、社の様式と祭神が矛盾する状態となりました。
なお、源満仲が西麓に勧請した「日天子」は、実際には大日霊子貴尊で、現在は恵比寿神社になっているものと思われます。
以上のように考えると、天道宮の祭神に関する事情が複雑であることが分かります。実際は、どのような経緯があったのか、その背後にどのような意図があったのか、興味深いですね。
用語解説
宿駅…交通の要地で、宿泊や人馬が用意されている所。江戸時代には街道などにいくつも設置。
阿弥陀堂…福岡県飯塚市川津にある阿弥陀寺の事と思われる。
男千木…神社の建築様式。祭神の性別に合わせて造られる。男千木は外削ぎ。
先代旧事本紀…記紀以外で天地開闢から推古天皇までの記載がある日本の史書。成立は平安初期頃。一説に偽書説もある。
2024.1.16 ルビを追加しました。