筑前國続風土記の中の宗像騒動
筑前國続風土記の宗像郡の項を読みすすめると、後世、山田事件といわれる宗像大宮司をめぐる内紛について書かれてる項目がありました。貝原益軒の目からみた騒動をみてみましょう。
筑前國続風土記 巻之十七 宗像郡 下 山田村より抜粋 (意訳)
増福院には、毘沙門天が昔から祭られています。また、宗像大宮司正氏の後室(=母)と男の妻の墓があります。母子の墓は1つで、侍女4人の墓もあります。全員大宮司の家臣によって殺されたとされています。後室の怨霊の祟りがあったため、地蔵菩薩像を作り、寺を建てて安置しました。
後室の住む屋敷は、山田村増福院の下にあり、これは大宮司の別院でした。これより前の宗像大宮司氏佐は、大内家に属し、周防山口に出勤していたとき、長門の深川と黒川の2つの領地を賜りました。黒川に屋敷を構えて住み、黒川氏と称することにしました。
氏佐の息子の刑部少輔正氏も、黒川に3年住んだ時、陶尾張守晴賢入道全姜の姪を娶って二人の子供をもうけました。兄は鍋壽丸といい、その次は娘でした。正氏の本妻は宗像山田村にいました。娘を1人生み、名前は菊姫といいます。
正氏は親族の氏続の嫡子權頭氏光を娘婿として、菊姫を娶わせて家督を譲り、隠居して山田村に住み、名前を隆尚と改めました。天文16年(西暦1547年)48歳で隆尚は病死しました。上八村承福寺に葬られました。
氏光は名前を改めて氏男としました。氏男もまた大内氏に従い、防州(周防国)に行き勤めていました。しかし、天文20年(西暦1551年)9月、陶全姜は主君の大内義隆に反逆しました。義隆はその乱を避けて落ちましたが、長州深川大寧寺にて自害しました。その後を氏男が敵を防ぎますが、叶いません。義隆の後を慕い追いかけている途中、敵に追いつかれ氷の上というところで戦死しました。生年23歳でした。
その後、全姜のはからいで、正氏が黒川でもうけた陶氏の姪が産んだ子の鍋壽丸を四郎氏貞として、正氏の家督を継がせ大宮司にするといって、天文20年9月12日、宗像へ下り、白山の城に入りました。時に歳は7歳。
宗像の家臣たちは、「氏貞は正氏の子といえども、本妻の子ではない。氏男の弟の千代松殿がいる。これを氏男の養子として家督を継がせよう。しかし、まだ3歳と幼いので、まず菊姫に一族のうちでしかるべき人を婿に迎え、社職をつがすべきだ。氏貞と下ってくることは、一応一族にも事前連絡は必要なのに、それもなく強引に白山へ入城してきたことも、陶殿のすることは道理に合わない。氏貞の家人、寺内治部丞が自分が思うのまま振舞うために氏貞を立てた」と評定し、同意しませんでした。
千代松の父で前の大宮司氏続は、我が子の千代松が立てることを喜んで、家臣たちの考えに同意しました。また、陶の命令に逆らえず氏貞を立てようという人たちも多くいて、家中が2つに分かれて争いました。
陶全姜はこれを聞いて、寺内治部丞に言いつけて、先に氏続と千代松を殺させました。 (その事は鞍手郡山口村円通院の所に詳しく記されています。)
その後、また陶の命令により、正氏の後室並びに息女の菊姫を殺し、氏貞を擁立するとして、宗像の家臣、石松又兵衛尚秀に言いつけ、野中勘解由、嶺玄蕃を使って、後室と菊姫を殺してしまいました。 (一説によると、氏貞の母は、山田の後室について讒言したものを信じて、自分の母子に害があることを恐れて、石松に言いつけて、野中と嶺を使って殺したということです。)
天文21年(西暦1552年)3月23日の夜、勘解由と玄蕃は、山田村の後室の屋敷に行き、まず菊姫の部屋に忍び込みました。その時、菊姫は今夜の月を見ようとして、行水し髪を洗って、姫が縁の端近くに出てきたところを切り殺しました。18歳だといいます。 二人は端より後室のいる奥の間に走っていって、後室を殺そうとしましたが、その後室の雰囲気に恐れをなしました。しばしためらう二人を(後室は)冷たい目で睨みつけました。そして、
「汝らが咎なき主人を殺すこと、この恨み汝らの子孫までことごとく許すまじ。我は女なれども、汝らの手にかかるまじ」
(お前たちが罪もない主人を殺す事、この恨み、お前たちの子孫までことごとく許さない。私は女だが、お前たちの手にかかってたまるものか)
と言って、守り刀を抜いて自害しました。その激しい様子は、見た人を恐怖させ驚愕させました。後室に仕えていた小少将、三日月、小夜の3人の女房は、泣き悲しみ、二人に取り付いて拳をもって叩きましたが、三人ともに刺し殺されました。花の尾という局の女房は、後室の刀を取って自害しました。
母子の遺体を一箇所に集め、屋敷の後ろの山の岩の下の同じ穴に埋めました。その時、死んだ女房4人も墓の側に埋めました。
翌年、天文22年(西暦1553年)3月18日、嶺玄蕃は鞍手郡蒲生田観音に詣で帰る時に、女性二人が急に出て来たのを見ました。それはかの後室と花の尾の局でしたが、すぐに消えて見えなくなりました。玄蕃は足が震えて、手がわなないて、ようようにして帰宅しました。苦しそうな息をして、胸が痛い、刀で刺し通されるようだ、といって急に死んでしまいました。これは後室の最初の祟りです。
その後、玄蕃の妻子兄弟数人、同時にみな病気になって、玄蕃のようになり、同月23日までに全員亡くなってしまいました。 野中勘解由はこれを聞いて、とても恐怖し、(逃れようと)祈祷をしました。しかしある夜、後室と花の尾の局が夢に現れて、その憤りを述べて、勘解由をものすごく責めました。夢から覚めると、大汗をかいており、身体を動かすことができなくなっていました。翌日病気で亡くなりました。その後7日間で急病にて7人が亡くなりました。この後、関わりのある人たちはものすごい恐怖を覚えました。
氏貞とその母は恐怖して、いろんな祈祷や祭礼を行い、祟りを免れるよう請いました。
永禄2年(西暦1558年)の春、氏貞の13歳の妹が、急に狂ったようになり「我は正氏の妻なり」と言って、目を吊り上げ恐ろしい様子で、その母を責め、我と我が子を殺したことを怒り恨んで、母の喉に噛み付きました。側にいた人たちが、何人もかかって引き剥がしました。そのほかにも後室に仇をした家人たちを責め怒り、今、恨みをはらさんと、怒り責めました。その結果、その日多くの人が急死しました。氏貞の妹も狂乱が止まらず亡くなりました。 [一説に、氏貞の妹の名は菊という。狂病が治り、元亀2年(西暦1571年)、立花鑑連の室(=妻)となる。立花の城に嫁ぐ。]
氏貞の母の喉の傷は癒えましたが、後に他の病気で亡くなりました。後室に殺した謀議に加わった家人たちは、次々に急な病で亡くなっていきました。 恐怖した氏貞は、田島の村中に社を立て、氏八幡と号して正氏の後室の霊を祭ることにしました。また山田村増福院に後室母子のため、祭田を寄付して香花を供えました。かの仇を行った者の子孫まで、その怨霊の祟りは止まることはありませんでした。
天正14年(西暦1586年)、氏貞が死去した後、氏貞の後室は自分の娘に祟りがあることを恐れ、正氏の後室と息女及び侍女4人を地蔵菩薩とし、山田村の増福院に6人のために6体の地蔵を安置し、また祭田を寄付しました。
小早川秀秋の時、増福院の寄付の田地を全て没収されてしまいました。貝原篤信は昔のある人の求めに応じて、この祭田の記事を書きました。
[一説に、正氏の後室及び菊姫を殺したのは、石松又兵衛尚秀だという。これは宗像社人及び里人が伝えるところと宗像記同追考の説なり。しかし石松氏の遠い子孫の家に伝えるところ、及びそのほかの説は石松尚秀ではない。かの後室母子を殺したのは、野中・嶺両人だという。石松又兵衛は、永禄3年(西暦1560年)、名を但馬と改めた。氏貞死去の後、剃髪して可久となる。その遠い子孫は今尚多い。石松が弑逆を行っていれば、その身及び子孫に祟りが有るはずだが、全くないのが(殺していない)証明だろうという。石松尚秀は宗像記追考では尚季となっている。]
尚、一連の謀を行ったラスボスの陶全姜のその後ですが、厳島の戦いに敗れ、天文24年(西暦1555年)10月1日に自害しています。
毛利元就は陶全姜の首実検の際、「主君を討って八虐を犯した逆臣である」として全姜の首を鞭で3度叩いたということです。
しっかり報復されていますね。また自刃した場所が、宗像大社と同じ祭神を祭る厳島神社のある厳島というところも偶然ではないでしょう。
今宮社ですが、確かな場所は不明です。どこかに名前を変えて合祀されている可能性もありそうです。
余談ですが、神社由来を調べていると、あちこちの寺社で小早川秀秋が祭田や神領を没収している記事が見受けられます。元々浪費家のようで、小早川家に養子に入った後もかなりお金に困っていたようです。
用語の意味
宗像大宮司…福岡県宗像市にある宗像大社の宮司
後室 … 身分の高い未亡人
天文 … 西暦1532年から1555年
永禄 … 西暦1558年から1570年
元亀 … 西暦1570年から1573年
天正 … 西暦1573年から1592年
宗像記追考 … 西暦1617年、沙門宗仙著。1603年に沙門祐伝が著した「宗像記」の増補訂正する為に書かれた。
権臣 … 権力を持った家臣
防州 … 周防国、山口県東南半分
辨(ベン) … 現代字だと「弁」。昔は人名に使われることは珍しくない。
局 … 高い身分の女性(この場合は正室)の為に仕切られた部屋。
2024.1.13 ルビをつけました。