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手放すということ(iPhoneに傷がつくとうれしい)

それでもAppleCare+は必須です。


数日前に機種変更をして、使わなくなったiPhone。

とうとう今日(というか昨日。以下同様です)、初期化されて我が家を旅立って行った。計算してみたら、使い始めて、今日で1,699日目だった。

そんなに長く使ったのかと、感慨深い。

手のひらにぴたりと馴染んだ感触、指先に触れるたびに感じる、ひんやりとした金属の質感。

使う内に筐体にもガラスにも傷ができて、しまいには背面がバキバキになってしまったけれど。それでも、今までずっと、健気に、僕のことを支え続けてくれたiPhone。

このiPhoneでいったいどれだけの写真を撮っただろう。どれだけの人と言葉を交わしただろう。
大切な家族の屈託のない笑顔を写真に収められたのも、大切な友人と深夜に長電話できたのも、初めて行った異国の地で現地人にお礼を言えたのも、君のおかげだった。

人生の大切な瞬間が、この小さな箱の中に、ぎゅっと詰まっていた。

うだるように暑い夏の日、さわれないほどiPhoneが熱くなって、それでもどうしても撮りたくて、むりやり撮った一枚。
僕の最高傑作だと思う。

新しいiPhoneに、データは全て引き継いだ。旅先で撮った写真も、何気なく保存したメモも、夜遅くに送ったメッセージも、全部。新しくなった君は、それでも変わらず、見慣れた壁紙と使い慣れたアプリの配置で、いつものように僕を迎え入れてくれる。「君とのことは、全部覚えてるよ」とでも言うかのように。

性能は上がった。画面も広くなった。バッテリーも長持ちする。カメラなんて、見違えるようだ。
傷だらけの古いiPhoneなんかより、ずっとずっと魅力的だ。
買い換えたことは、合理的な選択だったと思う。別に後悔しているわけでもない。

それでも、やはり寂しかった。

手放すことは、寂しい。
僕たちは日々、いろんなものを手放しながら、生きている。使い慣れたスマートフォン、履き潰した靴、いつの間にか聞かなくなった音楽、遠ざかってしまった友人。どれもその時は大切なものだったのだと思う。それでも、結局は手放してしまった。

手放すことは寂しいけれど、悲しいとは限らない。
手放して悲しくなるものと、ならないものがあるのはなぜなのだろう。

今日、初期化したiPhoneは、前者だった。
理由は、分かる。

君は、僕だけのiPhoneだった。
傷ついたガラスも、へこんだフレームも、バキバキに割れた背面も、君との日々の記録だった。

だから僕は、ケースをつけない。

君についた傷は、君と過ごした時間の証だから。
君につく傷は、君と過ごす時間の証になるから。

傷が増えた分だけ、人生がほんの少しだけ、豊かになった気がする。



「ありがとう」

そう口に出しはしなかったけれど、iPhoneが入った封筒をかかえて、真夜中のポストまで歩きながら、僕の頭はそんな言葉を思い浮かべていた。

君がこれからどうなるのか、僕は知らない。
分解され、使える部品だけ取り出されて、廃棄されるのだろうか。持続可能な消費が叫ばれる現代だから、もしかしたら大部分はリサイクルされるのかもしれない。
僕が背面に大きな傷をつけてしまった君は、きっと、そのまま別の誰かに使ってもらったりはしないのだろう。

ともに過ごした日々の証は、きっと消えてしまう。
僕らの日々は、僕の記憶に残るだけだ。

だから、最後に言いたい。
ずっと、ともに走り続けてくれた君へ。


1,699日間、ありがとう。

そして、さようなら。




そういえば、初投稿です。

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