『ただそこに咲いている自分』雑感400_63
毎日の読書から、だいたい400文字の雑感を。
咲いているときだけが花ではありません。枯れてしおれた姿も、また、花なのです。
露堂々(ろどうどう)
"真理はそこかしこに堂々と露わになっている"という意味。咲いても枯れても、ただ、その本分をまっとうする姿に真理があらわれる。
「ただ本分をまっとうする」とは、はからい(勝手な決めつけや思い込み)がないことだ。花は綺麗だと褒められたくて咲くのではなく、ただそこに咲く。
では、自分の真理はどのようなときに露わになっているか。やはり、はからいごとがないときだろう。"はからいごとがないとき"とは、例えばこんなシーンが思い浮かぶ。
●役割だから/得だからなどの理由なく、純粋に没入しているとき
●社会の評価や他者との比較がまったく気にならないこと
●結果ではなくプロセス(ただそれをやること)に意味を感じるとき
理由なく、比較なく、そのものに没入する対象がある人は、高い生命力と確固たる芯、そして美しさすら感じる。本当の自分が、まさに"露わ"になっているからなのだろう。
あなたがはからいごとなく生きているとき、どんな自分で、何をしているか。そこには、どんな真理が露わになっているだろうか。
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