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愛と信頼の目撃:D-DAY FINAL


対象が人間であろうと音楽であろうと『愛されるに値するのだから』と、慰めを与え柔く大きく包み込める人が、愛されるに値しないわけがない。これでもかというほどの愛を与えられ、柔く大きく包み込まれてくれないと正直言って困るのだ。そうであってくれないと、私はきっと最大限の愛を持って、ほんのすこしの不満をあなたにこぼしてしまうだろう。「なにそれ、」って、くしゃくしゃのかおで笑ってくれますか?



あたりめです。

ユンギさんが終着点でも通過点でもない、ひとつの立派な到達点を迎えた。この瞬間を目撃できたこと、本当に嬉しいし感謝しかないなぁ。

"D-DAY" は、あまりにも人間ミンユンギの愛と信頼の証明だった。本当に 誰があなた以上に出来るんですかと、伝えずにはいられない。




『愛する』『愛される』ことに関して、自身のなかにはとても真っすぐなものがあるのに、それを外に出すとき、どうしてか おかしなことになりがちなひとだと思う。へにゃって曲げちゃったり、変なところからアプローチしちゃったり。(そしてこれはSUGA/Agust Dであれば比較的真っすぐのまま出せるが、"ミンユンギさん" になるとどうも上手くいかないようにみえる)

音楽、とりわけ音というものは、ユンギさんにとってそういう『愛』に関することを、ヘンテコ現象を起こすことなく真っすぐのまま届けられるよう 自身の支えになってくれる存在という面が少なからずある。

言葉にするのが苦手で難しいと常々言っているユンギさんにとって、言葉にしきれなかったものや 言葉とはまた違うかたちをしている『愛』を言葉以上に鮮明に 繊細に 丁寧に 深く表現出来るのがきっと音楽(音)なのだろうということが、D-DAYを通してより色濃くなった。




音があるとき、ユンギさんはミンユンギさんとして真っすぐに手を伸ばすことが出来るように思う。

SUGA/Agust D(アイドル・アーティスト・音楽をする人)としてステージに立っては いるものの、その音の真ん中に居て『愛』のやりとりを望んでいるのは紛れもなく "人間" ミンユンギさんである。ステージに立つ彼は、そういった意味でどんな瞬間よりも人間ミンユンギなのだと私は思う。彼にとって、最も深く呼吸ができ、真ん中にある頑固なほどの愛をそのまま求めることができ、それで身体中を満たすことが出来る唯一の媒体が音楽であり、方法がステージなのだ。




私はこれから先、この日のユンギさんのかおを何度も何度も思い出すのだろうし、そのたびに喉の奥がつんとする感覚を味わい、抱きしめながら生きていくのだろうなぁと、思う。



ユンギさんのあれやこれやを話そうとするには、私はあまりにも知らないことが多い。そんな私が感じたものはとても浅く薄いものかもしれないし、ユンギさん自身がもつそれとは見当違いも甚だしいかもしれない。だからいつかこの日の話をゆっくりしてほしい。たくさん聞きたい。

あんなに泣かなくてもよかったのになって眉毛を下げて笑ってくれてもいい、今思ってもすこし胸にくるものがあるねって飄々とした態度とゆらゆらする瞳が共存したっていい、時間が経てば経つほど小っ恥ずかしくなっちゃってア~~イアイアイもうこの話はしませんおしまい、って変なかおしてくれてもいい。

いつでもいい、どんなものでもいい、私はそういうユンギさんの話に、ずぅっと相槌を打っていたい。





カタルシスを目の当たりにしているのかと思った。

む、となった口角に、表面張力みたいな状態でゆれる瞳、白さから余計に目立ってしまう、肌の赤み。



「赤ちゃんみたいに泣かんでよ…」



たまらなくなってしまった。考える前に呟いていたし、一緒に泣いていた。

完全に赤ちゃんの泣き顔だった。なんにも武装していなかった。裸のミンユンギさんだった。




「ユンギさん、抱きしめたい、」
何度画面に向かってぽろぽろとこぼしたか分からなかった。抱きしめたい、今すぐそばに行って抱きしめたい、そこで涙を流しているのは今の彼ではない、すこし昔の彼だと、漠然と思った。

"涙がこみ上げたら 泣いていい"


剥き出しの音楽と歩み続けたその先に、ひとのぬくもりに抱きしめられ ようやく顔を出せた幼いユンギさんの姿がそこにあった。つらかった、寂しかった、苦しかった、腹が立った、愛されたかった。ここで今、顔を出していいと、今の自分なら、今居るここなら、もういいよと、たぶんきっと ユンギさんのどこかがそう伝えたんだろう。これが愛と信頼の証明でなければ、一体なんなのか。




ある時点ではユンギさんにとって "忘れたくなるような痛み" だったとしても、現在に集中し続けることで迎える未来のユンギさんにとっては、それは "忘れたくない大切な痛み" へと変化しているかもしれない。そしてそうなったとき、それはもうきっと "痛み" じゃない。過去の事象は変えられないけれど、過去の受容は変えられる。ユンギさんは変えてみせた。とてつもない向き合い方だった。目を逸らしたくなることがあまりにも多かった。でもユンギさんは向き合い続けた。それをすべてさらけ出してくれていた。




ユンギさんの音楽を聴くと、その姿をみていると、人は一人で生きていくことは出来ても、独りでは生きていけないのだと、とてもつよく感じる。




ユンギさんに音楽があってよかったなぁ。ユンギさんにステージがあって、メンバーがいて、アミがいて、今ツアーを回れて、本当に本当によかった。じゃなければ、ユンギさんはまだ解放できていなかったかもしれない。

ユンギさんの話はもう、ユンギさんだけの話ではない。この話をするには、ここに辿り着くには、必ずまわりのひととの繋がりが必要だった。




タトゥーが左肩だと分かった瞬間、隣で見ていた母が「守られてるからもう大丈夫やなぁ」と、ポロッと言った。なんなの?ずるくない?号泣しすぎて娘もうぐずぐずなんだわ。勘弁してくれよ。

『好きな対象に意味を与えすぎるとつらくなります』といういつかのユンギさんの言葉を思い出したりもした。これは言うこと聞けないかも、と思ってしまった。私、左肩の7にだけは超大きな意味を与えたいもんな。だってこの変化はどうしたってたからものだから。左肩を見つめる今のユンギさんの目には、どう見ても愛しかない。だからどうか、これだけは許してね。




忘れてほしいとは思っていなくて、かといって痛みや苦しみがあってよかったとも もちろん思っていなくて、それがあったから今のユンギさんがあるなんてことも、当事者じゃない私が言えるはずがなく。ただ、これから先に起こることに対しても、忘れるというかたちよりかは それらを上回る大きな愛と信頼へと変化する、愛と信頼で包んでしまう、まさにD-DAYで目撃したような、そういうかたちであることを、勝手に願ってやまない。

同時に、ユンギさんと『必要なんだ』の意味が同じでありたいとも思う。あなたが居ないとダメだから、の必要ではなく、あなたが居ればもっと幸せなんだ、の必要でありたい。真っすぐ目を見て伝えられる "必要" でありたいのだ。




彼はただとても、とても懸命に生きている。私にとってのユンギさんは、時代を作ったというより、時代を生きているという感覚が近い。彼は彼自身の、ミンユンギという時代を、ただひたすらに、懸命に、一途に生きているのだ。

私は彼のそういう人間臭さが、もう どうしようもなく好きなのかもしれない。

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あたりめ
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