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石山喜章とは何者なのか?その半生のすべて


この記事は、何かで石山喜章のことを知り「この人って、どんな人だろう?」と関心を持ってくださった方に向けて、すべてをありのまま伝える為に書いた自分史です。

いじめを機に”人間の存在理由”を探求するも、科学と宗教の限界を感じて「好きに生きよう!」と決めた結果、28歳で夢をすべてを叶えてしまい、悟りの道を探求。覚者に出逢って修行し、守破離を経てビジネス界に戻り、現在の活動に至るまでをまとめています。

愚かな田舎者が苦労する半生をご笑覧いただければ幸いです。

産まれる前~幼少期

うちの父方の祖母は、亡くなった方の霊が見え、対話して除霊もでき、村で病人が出たら手を当てて癒すこともしていました(ちなみに本業は駄菓子屋)。

そんな祖母の夢枕に、まだ生まれてもいない私の魂が現れて「あなたの息子が、ぼくの父親になる。母親はこの人にして欲しい」と言ったみたいで(当然、私にそんな記憶はありませんw)、父が結婚前に付き合っていた女性を祖母に紹介した際には「その人は違う」と反対され、いまの母親を祖母に紹介したときには「うん、その人だ」と頷いて、結婚を承諾してくれたなんて逸話を父から聞きました。

そんな祖母も私が小学校1年生のときに亡くなります。石山家の先祖は城の殿様で、戦国時代に殺めた人々の霊的負債が残っている。その最後の怨念を供養して祖母は旅立って行ったのだ、と後から聞かされました。

祖母の遺品を整理しているとき、段ボールの裏側に同心円が10個書いてある図を見つけました。一番真ん中の円には「0次元」、一番外側の円には「10次元」と書いてあります。「これは一体なんだろう?」と疑問に思ったのが、とても印象に残っています。

3つ子の魂100まで

これは大人になってから自覚し、母方の祖母らに確認して事実を理解した話です。私が生まれた頃、父は独立してデザイン事務所を立ち上げたばかり、母も共働きで家計を支えていたので、「おっぱいをあげる時間もない」ぐらい忙しかったそうです。

忙しい母に替わって祖母が孫の面倒を見に週1日ぐらい市内へ(山奥の村から鳥取市内へ)来るのですが、その週1日が2日になり、やがて3日か4日になる頃、「私が週3,4日もこっちに来るなら、預かって育てるけぇ、あんたが週末うちに来たらええが」という話になりました。

母も幼少期は、木こりの祖父が遠征する際に親戚宅に預けられていたので、忙しいうちは祖母のところに息子を預けようと快諾。私は2歳ぐらいまで祖母の家(山奥の村のなか)で育ちます。

そこは鳥取県の若桜という場所ですが、日本昔話に出てくるような山があって川が流れてて、森の傍に神社がひとつあり、家が20軒ほど集まった村の中央に公民館が1つ佇むような、のどかな場所でした。

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毎朝、祖母におぶられて畑へ行き、その辺に寝転がって遊び、畑仕事が終わると祖母におぶられて家に戻り、途中のお地蔵さんの近くで蛇に出逢って怖がる。たまに公民館に村の人が集まって飲んだり話し合ってるのを、祖母の肩越しに眺めている。

そんな週末の土曜(当時は土曜の午前まで皆が仕事してた時代)の夜に、母が来て「よしあきちゃん、元気にしてた~?」と可愛がるのですが、母曰く、私は「このおばさん、誰だろう?」という目で見返していました。

でも母の腕に抱かれておっぱいを貰っていると安心し、心も預けます。

ところが月曜の朝、祖母におんぶされ、バスに乗って市内へ戻る母の姿を、ドナドナのように泣きながら見送っていた、と祖母に聞かされました。毎回すごく泣くので「胸が痛かった」と。

まだ1-2歳の私の観点から見ると、

土曜夜:この人誰だろう?
日曜:母親なんだ~と安心
月曜朝:一緒に連れて帰ってくれない、泣く

という心境が毎週繰り返されます。

段ボール箱に捨てられた猫が、「きゃ~かわいい!」としばらく可愛がられた後に箱の中に戻されるような感覚です。

「母親でも結局、連れて帰ってくれないんだ」
「ぼくはここに捨てられたんだ」

そう思い込んだ結果、
・母親さえ裏切るのだから、人を信用してはならない(自分が傷つくから)
・自分は(捨てられるほど)価値のない存在だ
という潜在意識が形成され、その後の人生にいろんな影響を与えるようになります。

のびのび小学生の転機

2歳になって、弟も生まれ、事業も軌道に乗ったところで私は鳥取市内の実家(両親が住んでいる家)に戻ります。幼子の私からすると「やっと家に戻れたのに知らない奴がいて、そいつの方が可愛がられている」という状況なので、よく弟をいじめていたそうです。(ごめんね)

その後小学校5年までは、田舎の子供数人で群れて川で遊んだり、ザリガニを採りに行ったり、山に秘密基地をつくったり、雪が降れば雪合戦をしたりとのびのび過ごしていました。(なんか自分から呼び掛けて学級オリンピックを開催するなど、人気者だったみたい。写真左のがきんちょね)

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転機は小学5年生の秋に訪れます。

父の「腹を立てずに、家たてよう!」をキャッチフレーズにして頑張った両親が新しくマイホームを建て、引っ越すことになりました。(そういえば古い家を去る前に描いた旧家の絵が佳作に入選したんだけど、新聞に掲載された絵が上下逆だったので複雑な気持ちになったなぁ)

引っ越したのはいいのですが、小学校6年の4月から新しい学校へ移ることになり、既に関係性ができあがってる輪のなかにラスト1年だけ転校生として入ることになりました。

初めて「どうやって友達をつくったらいいんだろう?」と人間関係を意識したタイミングです。放課後にケンカして殴られたときも考えた上でぐっとこらえたり、5年生まで何も考えずに楽しく過ごしていただけに、「感じたまま生きてた」状態から「考えて動く」ように変わった時期でした。

自殺を考えた中学3年の夏

中学校に入ると、掃除の時間に雑巾がけをしてた際、黒い学ランを通して白いパンツが透けて見えたことから「パンツ先生」というあだ名を付けられます。(いま読むと笑っちゃうけどw)

他にもいろいろ知らない”うぶ”だったことも”いじり甲斐”のあるポイントだったのでしょう。中学1年の間はクラス全体にからかわれ、中学3年のときは特定のメンバーにいじめられていました。

給食の時間に運動靴で踏んだパンを配給されたり、掃除の時間はトイレで水を掛けられたり。強くなりたいと思って入った柔道部でも、一番弱いまんま。授業の間の5分休憩も、いじめられるからクラスの外に逃げるしかなく、昼休みに遊ぶ友達もいない。

学校と家を往復する日々のなかで、ただ耐え忍ぶ毎日を送っていた14歳の夏の終わり。両親の寝室で包丁を手首にあて、自殺しようとした瞬間もありました。(ここで血が散ったら布団汚したって怒られるな、と思って自制しましたが^^;)

「なぜ人生は地獄のように苦しいのに、人は生きてゆかなければならないのだろう?」「人間が生まれた意味、存在してる理由って何なの?」

そんなことを、独りで真剣に考えていました。

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登山に明け暮れた高校時代

人間の存在理由を知りたい!という欲求が、高校では登山に向かい、大学では物理学に向かいます。

高校に入って学区と人間関係がシャッフルされたことで(あと、みんなの思春期が一段落ついたところで)、なんとかクラスになじめるようになり、社会復帰できた1年目。山岳部と同時になぜか女子ばかりの漫画研究会にも顔を出すようになりました(そういえば小学5年のときは、なぜか女子ばっかの合唱部も兼部してたなぁ)。

山岳部では毎日、地元の裏山(300mぐらい?)に登ってトランプの大富豪をやってから降りるというトレーニング?を続け、毎月のように大山(鳥取県西部の山、1,700m級で死者も出るほど険しい)にも登っていました。

初登山が雪山(4月でも1,400mあたりには残雪あり)で、寒さに凍えながら洗い物をしたり満点の星空に感動したり、虎の子落とし儀式を受けて滑落~ピッケルで留まる訓練をしたりと、命がけで生きてることを実感できるのが楽しくてしょうがありませんでした。

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夏を過ぎると3年生は受験勉強があるので引退します。3年生が3-4名、2年生が1名、我々1年生が6名の部だったので、そこから先は自分達が主体となって好きなように遊んでました(TRPGにハマったり、雪山チャレンジしてみたり)。

停学からのインターハイ優勝

高校3年の初夏、中国・四国の高校山岳部が一同に集まる合同トレーニング合宿中に、我々はいつものように自分達のテント場で酒盛りしながら談笑していました。(当時の田舎では大人は子供に対して「大学入る前に慣らしとけよ」ぐらいの感覚)

うちの担任の富永先生も日頃は黙認してくれてたのですが、さすがに合同合宿中で”他校の先生の目にとまる”のもあって、さすがにこの時は激怒。

「お前ら月曜までに頭丸めて来い!」と怒鳴られるも、下級生は擁護して上級生の自分達だけ坊主にします。日曜日、散髪屋に行く前に「髪がある最後の姿を撮っとこうぜ」と、部室で撮ったのがこの1枚。(ぜんぜんポーズ取れてないけど)

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頭を丸めて月曜日に職員室を訪問し、反省の弁を述べると富永先生が一言

「すまん、言い過ぎた」

って!!もう髪もどんないよ!と心のなかでは逆ギレしつつも、ありがたいことに学校からは1週間の停学をくらいました。(やったー!家でゲームできる♪と喜んだのもつかの間、停学とは毎日登校して敷地内の同窓会館に軟禁され、1日中反省文を書かなければならないという、結構な罰ゲームでした。)

その頃、世間ではオウム・サリン事件後の報道真っ最中で、学校側も「飲酒が世間に知れると体裁が悪い」という理由で、他の生徒には説明せず、クラスメイトの観点から見ると『石山達は急に学校を休み、理由もわからないまま何日か過ぎ、坊主頭で1週間ぶりに登校してきた』ように映ります。

クラスメイト「一体どうしたの?」

わたし   「いや、ちょっと上九一色村に・・」

というジョークで夏の暑さを乗り切ったような、乗り切れなかったような。

その後、心を入れ替えて毎朝4時に起き、早朝トレーニングを続けた結果、1995年の山岳部インターハイ(男子団体)で優勝します。(期待されていた野球部は破れ、まったく注目されてなかった山岳部が優勝したので、日本海新聞の一面を飾り、中庭には記念碑まで建てられ、クラスメイトの反応がちょっと変わるという体験も)

※まぁこの年は地元、鳥取の大山が舞台だったので慣れていたのはありますが、登山競技って実は体力以外の点数が7割の世界なんです。

物理学に真理を見出すも、その実態は

鳥取の青春時代に別れを告げて、上京したのは埼玉県浦和市南与野(埼玉大学の近く)。トレンディードラマに毒されていた私は、東京はどこも高層ビルが立ち並ぶ風景だと思い込んでいたので(そして埼玉も千葉も東京だと思っていたので)、鳥取の地元よりも寂れたエリアに引っ越して、変な期待外れ感に戸惑いながら大学生活をスタートさせました。

しかし人間の存在理由を知りたい!という欲求はなくなることもなく、その情熱を引き続きワンダーフォーゲル部と物理学に注ぐこととなります。

なぜ物理学を選んだのか?理由は2つありました。

1つは、人体を構成している細胞→分子→原子→素粒子が、なぜ宇宙に生まれたのか?を理解できれば、人間がなぜこの世界に存在しているのか?の答えも出るのではないだろうか?と考えたから。

そしてもう1つは、顕微鏡が発明される前の”ウィルスという概念”やガイガーカウンターが製造される前の”放射性物質という概念”と一緒で、人間の五感覚で観測できる計器がないから認識できない=存在しないように錯覚してるだけ。亡き祖母が視ていた世界は実際に”在る”、物理学ならそれを証明できるし、説明できるはず!という信念があったからです。

ところが、物理学科の教授や先輩に話を聴き、図書館などで調べ、1年もすると気づくのが次の点。
・私が知りたいことは「真理」というらしい
・知りたい問いの答えは、まだ解明されていない
・今後100年以内に真理が解明されるかどうか解らない

つまり、自分が知りたいことは誰も知らないし、生きてるうちに見つかる保証もない、ということです。これが理解できたことで壁にぶつかりました。

じゃぁ、これからの人生、どう生きたらいいの?

親友に誘われたサークルが新興宗教だった件

真理を知りたい、けど手に入らない。

このジレンマを解消したのが「宗教」という名のビジネスモデルです。20歳の私は、まんまとそれにハマり、半年ほど騙されていました。

事の発端は、高校時代の山岳部の親友Nとの電話です。

お互いに進学してからも、たまに電話で連絡を取りあっていたのですが、歴史好きなNの話はとても面白く、いつも示唆に富んでいました。(彼が推してた銀河英雄伝説は、最近やっと全部見終わったところ)

ある日の電話で「真理を知りたいけど生きてるうちに解明されるか分からない」という悩みを打ち明けると、「それならいいのがある」と言わんばかりに誘われたのが、岐阜県で開催される哲学サークルの合宿。

Nを信頼して大学2年のGWに3泊4日の哲学合宿に参加してみると、そこは浄土真宗 親鸞会の合宿でした。初日から「お前、騙しやがったな!」とケンカしましたが、うちも浄土真宗だし、ちゃんと仏教を学ぶ機会だと思って3日間だけ付き合おうと受講を決意。

結論から言うと、

私「人間がこの宇宙に存在している理由は?」

教祖「それは、幸せになる為です!」

という答えでした(苦笑

「まぁそう言えば誰もNoって言わんよな・・」と感じつつ、「その証拠は?」「何を根拠に、それ言ってるの?」などと、重箱の隅をつつくように質問しまくりました。その”知りたい欲”が伝わったんでしょうね、「埼玉大学にも系列のサークルがあるよ」と案内され、モヤモヤを解消したい私は、5月から8月まで仏教サークルに通って徹底的に学びを深めます。

一度、本部のある富山県にも皆で行ったのですが、すごいお布施(寄付)が集まってるようで、相当立派な建物でした。親鸞会の為に制作されたオリジナルアニメの出来も良く、当時の時代背景や悟りに至る行程、浄土真宗の教えをストレスなく学ぶことができました。

石山本願寺のルーツは親鸞聖人なので、浄土真宗を理解できたことは、祖先を知る上で良い機会でした。ただ、物理学的な宇宙のことわりを知りたかった私にとって、宗教は「信じる」前提の世界で、「証明する」世界ではないので受け入れられず、大学の夏休み終了と共に縁を切ります。

私は男です。と表現しても、私は男だと信じています。とは言いません。
信じるという単語を使う無意識の前提には必ず”不明確さ”が潜んでいます。

神の不存在、二十歳の決断

その後、キリスト教(正確には飛鳥昭雄WEBサイトの裏掲示板:モルモン教)も少しかじり、どの宗教も「信じる」構造が同じであるという限界に気づきます。

現時点では科学も宗教も限界があり、真理を証明することはできない。

当時遊んだゼノギアスというゲームが「神様がある材料にするために人間を地球で飼ってた」というオチだったので、こう自問自答しました。

自問「もし仮に人間のような神様が居たとして、”私が人間を創った理由は○○だよ”と言われ、その答えに納得できなかった場合、自分はどうするだろうか?」

自答「うん、まちがいなく従わずにその枠組みから出ようとするな」

そして、こう考えました。

この宇宙に人間っぽい神様は存在せず、あるのは物理法則など宇宙の理だけ。なので、素粒子が生まれたのも、地球に生命が誕生したのも、それが人間の形に進化したのも、すべて偶然だろう。

つまり、私が(人間が)宇宙に存在する理由は”ない”(孤独)。しかし逆に、何かに支配されて強制的に従わされるわけでもないので自由ともいえる。自分が何の為に生きるのか、も自分で決められる。

この孤独と自由をコインの裏表のように持った状態でヒトは生まれてくる。

なら自分は、今後の人生をどうしたいか?

どうせ生きるなら多様な経験をして、人として成長したい。お金も稼ぎたいし、女にもモテたい。複数の事業をプロデュースして影響力を持ち、社会を変えるような仕事をしてみたい!

そう二十歳のときに決断し、8年後にすべて叶えることになります。

思考OSを2度、書き換える

この時期の特記すべき事項に、洗脳の副作用があります。大学2年の夏休みが終わると同時に自称哲学サークルを脱退して日常生活に戻ったのですが、「無明の闇」のことをデート中に思い出して空虚になってしまうなど、自分の思考の土台に「仏教OS」をインストールしてしまったことに後から気がついたのです。

「どうしよう?この状態じゃ、日常に戻れないどころか正常な判断もできない」と不安になったものの、どのように洗脳を解けばいいのか?も分かりません。

いろいろ試して結局うまく行ったのは、自分が心の底から興味があることに夢中になること×仲間の存在でした。私の場合、それがワンダーフォーゲル部の仲間と部活動(登山、沢登り、ロッククライミング、雪山スキー)だったのです。

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登山中は頭が空っぽになって、命がけで目の前の一歩一歩:いまここに集中するので、あるとき額の中央から白い光が駆け抜けて思考がクリアになる体験もしました。

そのときは少し風邪気味で体調が悪いなか、無理して登っていたのですが、白い光が脳内を駆け抜けた一瞬後には風邪も治り、一瞬で体が軽くなったのを覚えています。

思考OSを根底から書き換えた2度目の体験は、初めての失恋です。

大学3年生のときに付き合っていた初恋の相手にフラれた後、「喜章のここが嫌だった」をフルコースでフィードバックして貰う機会がありました。

自分のことを知らない相手なら流せる話題でも、一緒に付き合ってお互いのことを深く知っている間柄だっただけに、ひとこと一言がグッサグサと胸の奥に刺さりまくります。

その時の私は彼女のことをまだ愛していたので、相手そのものになって感じると、自分の存在が心底嫌になります。でも自分の意識はこの体の中にある。それが嫌で嫌で仕方ありませんでした。

もしも、この体をぬいぐるみのように脱げるのであれば、脱いで生まれ変わりたいー

そう願うほどに強く自己存在を否定した結果、、そこから半年ほど記憶がないのですが、半年後には彼女に指摘された”嫌な性格”や”振る舞い”は綺麗さっぱりなくなり、まったく別人のように変化していた。ということがありました。

単位を3年で揃えてデジハリへ

埼玉大学 理学部 物理学科は、不思議なことに卒業論文や卒業試験が”必須科目”ではありませんでした。入学時、それに目をつけた私は3年間で卒業に必要な単位はすべて履修し、4年目はデジタルハリウッド本科プロデュース専攻に通って3DCGを学びながら課外活動に精を出していました。

大学3年のとき、自宅で奥様が喫茶店を営む数学教授の生島先生とご縁をいただき、商品開発の学生団体entを立ち上げて、ローソンの端末ロッピー用メディア(メディアファクトリーが手掛ける紙媒体ラクダス)内に商品開発コーナーを設けて貰って、学生のアイデアを事業につなげる試みをしていました。

4年目には他大学の様々な学生団体の代表ばかりを20名ほど集めて毎月飲み会を開催したり、キーパーソンズの仲間と大きなイベントを主催したり。新しい人と出逢い、未知の世界の話を聞くことで、視野が広がっていくことが楽しくてしょうがありませんでした。

デジハリで卒業作品を創り終えた11月、実家の事業が思わしくないのでもう仕送りできないと言われ、すぐに働ける場所を探し始めます。ネットで探した会社に連絡を取り、会いに行くと社長が出てきて「キミ面白いね、明日から来れる?」と言われて二つ返事で引き受けて入社したのがシノックス(メールマガジンの配信システムを提供するITベンチャー)でした。

広報→法人営業(テレアポ)をさせて貰いながら社会人としてのマナーや常識を学ばせて頂き、大変ご迷惑もかけた最初の勤め先です。あるとき上司の伊地知さんと大宮を歩いているときに「今日は何か和服姿の女性が多いけど、イベントでもやってるのかな?」と目をやると、うちの大学の卒業式だった。というぐらい、学校のことは忘れて数字を追いかける毎日でした。

湘南の海でバカヤローと叫ぶ

その会社なのですが、まだ常識も備わってなかった22歳ぐらいの私の観点から見ると、こんな風に見えていました。

法人営業はアプリケーションを販売するのに平均3ヶ月/社かかっている。なのに社長が毎月のように体制を変えるから、先々月は「アプリケーション事業部」先月は「営業2課」今月は「ASP事業部」の名刺になり、クライアントからの信頼を得にくい。また、組織変更によって担当者も変わるから引継ぎで失注する案件も多く、これじゃ売れるものも売れない!と。

そのことを、そのまんま社長に伝えたところ、「生意気だ。俺の言うことを聞けないなら辞めろ」と言われ「じゃぁ辞めます!」と会社を飛び出し、勢いあまって乗った電車で湘南の海までたどり着きます。

海に向かって「社長のバカヤロー」と叫び、日が沈むのを眺めていました。

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ノルマの3倍売っても給料が上がらない

そういえば当時のキャリア戦略は、こんな感じでした。

将来的には事業プロデューサーになりたい。この世界で事業をするなら、サーバーなどシステム開発のことを理解した上で、デザインなどWEB制作に関する経験も必要だ。自分はデザインは好きだけどシステムは苦手意識があるから、先にシステムの会社に入って修行しよう、と。

それで1社目はシステム開発の会社を選択したのですが、2社目は友達が誘ってくれたIMJでWEBプロデューサーとして制作&開発をみる道を選択します。プロデューサーが数字責任も負う「営業」で、ひとり年1億円のノルマが課せられていました。

先輩方のサポートのお陰で年3億円あげていたのですが、まだ24歳の私は「ノルマの3倍売ってるのに給料が上がらない」のが不満で、3年ほど勤めた後に、先の伊地知さんに誘われてエッジ(後のライブドア)に転職します。

ここでは、いい大人が楽しんで働く姿を見せて頂き、コンサル~制作・開発の工程におけるプロマネ能力を鍛えさせて頂きました。

雑居ビルから六本木ヒルズへ

2003年1月、渋谷は金王神社前の雑居ビル4階。まだオン・ザ・エッヂという社名だったホリエモンこと堀江貴文社長が創業した会社に、社長室 新規事業開発グループ プロデューサーとしてジョインしたときは、1軍から2軍に降格するような、海に身を投げる感覚がありました。(WEB制作&開発の業界でIMJは高いポジションにあったので)

それでも「下請け仕事はもうしたくない、事業プロデュースをしたい!」という願いが叶うので転職したのですが、ソフトウェア、出版事業、EXPO出展などを手掛けているうちにライブドア社(の看板とプロバイダー事業)を買収し、ゼロからポータルサイトを立ち上げることとなります。

後に副社長になる伊地知さんを筆頭に6人で立ち上げたメディア事業部が、3年半で子会社も入れて600名の組織に成長し、全社ではグループ36社、従業員3,000人、売上784億円へと急成長を遂げていきます。

Yahoo!に追いつけ、追い越せの勢いで、livedoorニュース、地図、路線、天気、翻訳など、必要なサービスを次々につくり、立ちあがったら人を雇って運用を任せ、次の事業に取り掛かる。そんな風に前半は新規事業の立ち上げばかりやっていました。(その後有名になる田端さんはlivedoorNewsを任せた3人目の人)

従業員が増えてからは総務・法務も兼務しながら制度を整えたり、全体の戦略を考えて渉外を担当し、M&A後の事業統合や社内紛争の解決に時間を取られていました。(逃げた役員に替わって訴訟に対応し、訴えられる側として裁判に挑んだ際には、うちが悪いと解りながら相手を責めないとならない矛盾に葛藤していました)

個人の夢を叶えた先に

2005年の大型連休に入る頃、二十歳のときの願いはすべて叶っており、目指していた山頂に辿り着いた感を味わっていました。GWに10日間の休みを取ってフランス~イタリアを旅した際に持参した本は、「成長の限界・人類の選択」を始め、水戦争や意識にまつわる3冊。

個人の夢が叶った後の問題意識は「人類文明は、あと100年もつのだろうか?」でした。

折しもニッポン放送の買収合戦を通して、我々と組むメリットを資料にまとめる上で『国の役割が富の再分配であれば、メディアの役割は情報の再分配にある。しかしOutputとInputのバランス・透明性に課題がある』などと考えていたのもあって、国家やメディアの役割・あるべき姿を自分なりに模索していたのです。

また、幻冬舎と設立したライブドアパブリッシングから「自殺する前に読む本」が出版されたとき、ネット連動企画として自殺防止掲示板を設けることで、水際で600~700名の自殺を食い止めていたのですが、キャンペーン終了と同時に掲示板も閉鎖する日になっても「今日、死にたい」という書き込みは止まりません。

水の元栓を締めなければ、問題は解決しない。でも、この意思の出処はどこなんだろうか?そんなことを考えながら、事業を通して如何に社会課題を解決していけばいいのだろうか?と、頭を悩ませていました。

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ライブドア事件、覚者との出逢い

2006年1月17日(火)、打ち合わせ先から戻ると、メディア関係者が六本木ヒルズを取り囲み、38Fのエレベーターを降りた先には東京地検特捜部の黒服が列をなしていました。

そのときのデスクは、島のトップが堀江さん、隣に秘書と副社長、副社長の隣に私が座っており、私の左隣が乙部綾子という感じだったので、目の前で検察が社長から順に書類や携帯を没収していきます。

翌日からマスコミの報道も変化。

先週まで「ホリエモンのプライベートジェットの中身を大公開!」とかやってた局が紫色のフォントに暗いBGMをつけて「実は犯罪者だったのでは?!」と煽り立て、まだ社員が3人も辞めてないのに産経新聞は1面で「ライブドアの社員が300人、辞職」と掲載します。フジテレビの女子アナからは私の携帯に着信があり「いま社内はどうなってますか?」と聞かれ、「それどころじゃないんで」プチっと電話を切った次の瞬間、その子がテレビの画面に現れて「ただいま社内の関係者に確認を取った情報によりますと・・・」と、作り話を語りだす始末。

他にも信用していた大物司会者や著名な作家、芸能プロデューサーまでが、事実と異なることを平気で捏造して報道・発信する姿を目にします。

皆で魂を込めて作り上げてきたサービスが、ブランド(社会的信用)が、ガラガラと音を立てて崩れていくようでした。

「現実が目の前で崩れ去っている。
 この現実を変えるには、自分が変わるしかない。」

そう確信した私は、週末の木~日、元々予約していた覚者(悟りを開いた人物)のセミナーに参加することを決意します。

覚者の判断基準

ライブドア事件が発生した1月から遡ること数か月前、とある合コンで出逢った女性を口説こうとしたら、ミイラ取りがミイラになるかのごとく、逆にこちらが興味を持ってしまったのが、彼女が働いている会社の社長でした。

渡された認識革命という本は怪しいデザインでしたが、内容は悟りに関することだと理解。しかし、肝心な「核心の答え」が書かれていなかったので、それを尋ねると「答えを知れるセミナーがあるから」ということで受講を決めていました。

実は、2005年の後半は、自己実現をした後の「自己超越欲求」がピークに達していたのです。人類の数千年間におよぶ仕事を動詞に変換すると、つくる、はこぶ、売るに集約される。この輪廻の輪から出るような仕事をしたい!と感じていたので、地球上に覚者を21名ほど見つけ、会いに行って話を聞いたり、本を読んでいる最中でもありました。

私が覚者を比較した際の判断基準は主に2つ、
1)物理学的に証明することができるのか?
2)仕事の現場で使えるのか?
でした。

例えば、真我開発講座を提供する心の学校の佐藤康行さんに「あなたの言う真理を物理学的に証明できますか?」と尋ねた際には、「う~ん、まぁ信じてもらうしかないねぇ」と返されました。

「私は信じてもいいけど、部下はそうはいかない。”信じる”世界だと宗教になるから、説明責任のある上場企業では使えないなぁ」と判断。

また、「さとりの授業」という本を書かれている阿部敏郎さんに「いま裁判で訴えられてるんですけど、”いまここ”をどう訴訟対応に応用すればいいですか?」と伺うと、「呼吸法しかないね」とのこと。

「土日に温泉に行くみたいに座禅、瞑想するのはいいけど、裁判所の証言台の上で訴えられているときに、呼吸を整えても(自分は少し冷静になれるかもしれないけど)現実はそう変わらない」と感じました。

従業員数が増え、数百名のマネジメントに苦悩していたので、人間の行動の源泉にある無意識を理解する必要性が私にはありました。もっとも深い無意識が(仏教用語でいう)阿頼耶識だったので、それを探求すると自然と悟りの世界を学ぶことになります。

しかし、物理学的に証明・説明できなければ職場には導入できず、現場で使えないものに金を払う気にもなれません。

日本国内で7名ほどの覚者に出逢い、質問し、先の判断基準で比較検討した結果、物理学的に説明可能で、現場でも使える知識体系にまで昇華させていた人物が、Noh Jesu(ノ・ジェス:盧在洙)氏でした。

ライブドア事件のあった週末、彼のセミナーに参加して、論理とイメージで真理(物理学でいう万物理論:ToE)を理解できてしまったことで、私の人生は大きく変わりはじめます。

守:感覚が変わり、次のビジョンも明確に

セミナーから帰ってきた週明けの月曜日に堀江社長が逮捕されます。それまで様子見だったお客様、取引先、関連会社、従業員などが意を決したように振る舞いを変えたのは、この日が起点でした。

寄せた波がひくように、360度あらゆる人が態度を変え、手のひらを返していきます。そのときの心境は、「これが人間の性か」と諦観したような心地。石山喜章という人間ではなく、仕事上のポジション、影響力、お金に寄って来ていたのだと理解します。

名刺を持っているレベルで3,000人いた知り合いのうち、この地獄のなかで救いの手を差し伸べてくれた人は3人だけでした。

「これからの人生は、この3人のような人とだけ付き合っていこう」

そう心に決め、その後数年かけて人間関係の棚卸もしていきます。

一方で、真理を理解できたことに興奮冷めやらぬ私は、「日常に戻ったら現実に飲まれて忘れていくから、理解したことをすぐに使おう」と決意。すると、社長が逮捕されたことで意見の割れる会議においても(昔なら冷静でいられずに皆と一緒に不安になったりパニックに陥っていたはずが)自分の内面を見ると、波紋のない湖面のように落ち着いた心の状態が見えたので、その心でひとつ一つ対処していくことができました。

急に訳も分からず監査役に怒鳴られたときも、昔なら売り言葉に買い言葉でケンカしていたのが、「この人は何を伝えたいのだろう?」と深層意識に目を向けると「孤独と不安」が見えてきたので、言葉には出さずに心のなかで六十代の監査役の不安を包み込んであげた途端、急に相手が大人しくなって味方になり、笑顔で帰っていった、ということもありました。

それから半年後、同じセミナーを再受講した際に、20秒ほど無我の境地を体感することができ、理解+体感でベースが安定した為か、昔なら3週間は引きずっていたような懸念や不安が、30分で思考を整理して冷静な状態に落ち着くことができるようにも変化していきました。

このことは、私にとって大きな意味を持つ出来事でした。

マネジメントの悩み以外にも事業の課題や社内・社外のトラブルなど、毎日何かしらの人間関係に悩まされていた私にとって、自分の「考えが煩い問題」は長い間の頭痛の種だったからです。

考えがうるさくて眠れない。考えがどんどん湧いてくるから整理がつかない、など。とめどなく溢れてくる思考を静かにする方法をずっと模索していたのです。

それが、彼の提唱する概念を2年間、徹底的に学んだことで解決しました。

盧氏は、ワンネス:OnenessのOne(ひとつ)を明確に定義しており、そのひとつから宇宙誕生のメカニズムを解説します。

※真理、ワンネス、いまここ、空、タオ、万物理論、イデア、サムシンググレート(SG)など様々な呼称があるが同じ。

2年間、重箱の隅をつつくような質問を何度も投げかける度に、師はその”ひとつ”から回答します。何を尋ねても、どのような分野の質問をしても、同じ”ひとつ”のメカニズムを用いて回答します。

この問答を2年間、徹底的に繰り返した結果、ある日また私の頭の中に「質問」が浮かんだのですが、それと同時に「答え」も浮かんでくるという現象がおきました。

「あ、そっか。ひとつから考えたら、こうなるよな」

そんな感じで、”ひとつ”と”すべての事象”がつながって理解でき、問答を通して本質的な問いにひとつ一つ答えを出していった結果、考えが静かになっていくという経験をします。

2006年1月から約2年が経つ2007年11月、師が新しく会社を設立するというので参画。自分が実感していたので価値を感じ、この技術を広めることに人生を賭ける決断をします。

破:理想と現実のギャップに

NHK大河ドラマ「龍馬伝」や映画「男たちの大和」に触発され、自分も国士になったような気分で、これからは認識革命だー!と啓蒙活動を続けるのですが、そう思うようには広がりません。

それから5年間、師の方針に従って様々なイベントや企画を実施し、各回に100人~1,000人を動員することに心血を注ぐ日々が続きました。

その過程で良かったことは、1対1のコーチングを3000名以上に無償で実施したことで腕が磨かれた点です。ある日、3人続けて面談時に号泣&感謝されることが続いたので「もうそろそろお金を頂いてもいいかな」と思えるようになりました。今の能力は、この下積み期間があったからだと感じています。(何事もプロになるには1万時間を要するというけど、実際に2万時間以上を費やして実感)

その反面悪かったことは、いろんなことを犠牲にしたことです。一番の心残りは、組織を優先した結果、育ててくれた祖母の葬儀に顔を出せなかったことです。葬儀の日も49日も。これが原因で叔母が「あの喜章くんが来ないなんておかしい!」と気づき、ネットを検索して情報を集め「盧さんがやってることは統一教会だから、すぐに辞めろ」と両親も巻き込んで迫ります。

統一教会ではないものの、私には経済的な理由があり、これを機に独立することを決めます。給料が出るわけではなく、営業成果に応じた完全成功報酬制だったので、さすがに生活していけないと感じていたからです。(貯蓄を崩しながら活動し、バイトしながら活動し、やっと4年目に生活できるだけの成果を上げられるようになったものの、入金前に会社の都合で報酬がカットされるという事態が2度続けて起こった為)

2012年8月に株式会社CCO(現、ワンネス株式会社)を創業し、2015年に書籍「世界が一瞬で変わる潜在意識の使い方」を出版。大企業やベンチャー企業の管理職に対して研修やコーチングを提供するなかで、次第に独自コンテンツも開発するようになっていきました。

離:志同じくとも道はたがう

2017年5月31日、廬氏が宣言していたいわゆる”審判の日”を迎えた後に私は袂を分かちます。ビジョンに共感してはいても、その実現手段に賛同できなかったのが一番大きな理由です。

株式会社といえど、どうしても悟った人がつくる組織は新興宗教っぽい雰囲気になってしまいます。これは他の覚者の会社や組織も同じでした。ビジネスモデルもやはり自己啓発セミナー×保険セールスの仕組みに似てきます。

芸能界やクリエイティブな業界にも通底するように、下積み中はボランティアスタッフとしてスタートし、多くの有志が道半ばで脱落せざる得ません。

「ビジネスは信頼が命なので、社会的信用を失うことを続けて組織が発展するはずはない」という私の持論に対し、廬氏は「”ひとつ”の動きを軸にした発展でないと意味がない」という考えでした。

その方向性も理解できるものの、人類意識の進化を事業化したかった私は、何度も議論し話し合った末に別の道を歩む意を固めます。

私は2007年以降も覚者を見つけては会いに行くことを続けていたので、複数の覚者同士の対話や在り方を見て気付いたことがありました。

人は悟りを開いても認識が変わるだけで、急に英語が話せたり超能力が使えるようになるわけではない。真理の世界の表現方法も様々で、大和田菜穂さん(フランス)もレナード・ジェイコブソン(米国)もファルコ(イタリア)も自由に自分の世界を創造している。

自分の人生と世界は自分自身が創造しているのだから、私は私が創造したい世界を楽しもう。

そう感じて最後の囚われから己を開放します。

※置き土産は、10年掛かったセミナー内容の書籍化(自費出版ではなく商業出版)。本書のプロデュースを終えたとき、今世における彼に対する自身の役目を果たした感もありました。

わたしは何をしたいのか?

その頃、自社の仕事ではベンチャー企業の顧問、企業研修、セミナー・講演、コーチング、人事制度の設計などを手掛け、それなりに忙しく過ごしていたのですが、改めてこれからの人生で、自分は何がしたいのだろう?と問いかける作業を約1年かけて行いました。

仕事をしているとき、人と会っているとき、何気ない日常のなかで、わたしの心がどこに喜びを見出しているのか。何に惹かれ、何が琴線に触れ、どんな人とは付き合いたくないと感じているのか。

友達にも手伝って貰いながら感情の棚卸と整理を行い、自己の内面と向き合い続けることでセルフアウェアネス(自己認識)を深め直します。

様々な人との出会いと対話を通じて見えてきた、この魂の望みは、次のようなものでした。

私は、銀河鉄道999のように宇宙旅行をしたい。異なる惑星へ旅して、星間貿易なんかもやってみたい。しかし、旅行中にホームである地球で争いが続いていたら落ち着いて楽しむことなんてできない。だから、太陽系外に旅立つ前に、地球人類の意識の進化が必要。争いの種(エゴ)を持った状態で出向いても歓迎されないだろう。

地球環境や諸問題に目を向けても、いまの人類文明が100年続く保証はない。次なる文明へシフトする為の布石となる科学技術も遺して逝きたい。

この体を通じてあと何年生きられるかわからないけど、私の興味は「意識の進化」をビジネス化する点にある。ヒトの意識の進化過程を仮に10段階で整理し、そのゴールを山の頂に例えると、山頂はひとつ、山頂に至る道は複数あって良い。

わたしが創りたい道は、仕事を通して魂が成長する道。まだ完璧に悟っている訳ではないので、山の5合目あたりまで来ている魂を8合目ぐらいまで導くのが己の役割ではないだろうか。

いつか自身が完全に目覚めることがあれば10合目まで案内したいけど、悟りたい欲求も手放して、いまは宇宙全体の流れに身を任せよう。

水を綺麗にする仕事

動的平衡という概念を聞いたことのある方はイメージしやすいと思いますが、川は存在せず、実在するのは土の溝です。そこを流れる水は一日として同じものはありません。しかし人間の目では、いつも同量の水が流れている、その流れそのものを指して「川」と認識しています。

人体も同じで、脳細胞は1ヶ月で約40%が、筋肉や臓器などの細胞組織や骨まで含めても2~3年で1循するので、「3年前の自分」と「いまの自分」は物質的には、もはや違う存在です。

経済も同じで、日々の(毎月の)INPUTとOUTPUTのバランスが取れている動的平衡状態を以って、事業は存在たりえます。その前提となるバランスが崩れた際に何が起こるのか?は、コロナ禍のなかで多くの方が経験済みでしょう。

「かたち」を存在させている「流れ」に目を向ける人は多くありません。

「現象」を生じさせている「背景」にしても同様です。

私の目から見ると、いまの社会は「食物連鎖」ならぬ「ストレス連鎖」の流れによって、様々な社会問題を生み出しているように見えています。

ストレス連鎖
ストレス連鎖

例えば中学校時代のいじめの場合、うちの田舎では家庭環境でストレスを溜めた子が”学校で自分より弱い者に対してストレスを発散する行為”が「いじめ」になっていました。

家庭でストレスを発散しているお父さんは、会社で上司からストレスを受けて帰ってきます。自分より強い、上の人間から貰ったストレスを、自分より下の弱い人間に吐き出すことによってバランスを保つ。この構造があらゆる階層でフラクタルし(繰り返され)ているように見えます。

会社のトップである社長は、株式市場から「もっと稼げ」とプレッシャーを受けています。そのプレッシャーを与えているのは、ネット証券で株の売買をしながら「この会社の株価あがらないかな~」と期待している当時の私でした。

そう。私が、職場のストレスに端を発するうつや過労による自殺の問題、家庭のストレスに端を発する介護虐待や児童虐待の社会問題、いじめられた子供がついカッとなって起こす事件、ストレスを溜めた消費者がカスタマーハラスメント等の形で他の職場にストレスの雨を降らせる問題の源流に居たのです。

これに気づいた18年前、私はパワハラ上司のポジションに居たので、まず自分を変えることに取り組みました。それから18年。今やりたいのは、「身近な水を綺麗にする人」を増やすことです。

企業の経営者が、マネジメントにコーチングの手法を取り入れることで、職場全体のストレス値は減少します。母親が自己認識を深めることで、夫と子供の心の状態は改善します。

支援した起業家の一人は「不登校児専門の家庭教師」をしていますが、彼が活躍することで人生が救われているご家族がたくさんいます。同様に、まだ無名だけど意思と能力のあるコーチを支援することで、彼女たちの周りの水は浄化されていきます。

患者と同僚の心を明るく照らす作業療法士、経理の世界に人格論を取り入れる税理士、女性のキャリア支援に意欲を燃やすカウンセラー、人を育てる不動産屋、仕組みの面から理不尽を減らす公務員、社会課題に挑む起業家など、ひとり一人が今自分が居る場所で目の前の課題に取り組むことが連鎖し、社会はより良い方向へ確実に変化してきています。

地球上の水がすべて繋がって循環しているように、世界中のお金とビジネスもすべてが連動して動いています。それを動かしている人の心が変わることで、目に見える現実も確かに変わってくるのです。

自分の身近な「水を綺麗にする人」を増やしたい、それが私の願いです。

潜在意識アカデミーの設立

こういった想いを言語化する過程で、それまでの仕事内容も振り返ってみました。

トヨタグループの組織開発、三菱電機労働組合の役員研修、中堅企業の人材育成、経営者のコーチ、スタートアップの事業開発など、共通していたのは、社会的に影響力のある人や組織が対象となっていたことです。

経営者が変われば組織は変わるし、いまの時代を牽引するトップ2%が変化すれば社会は変わります。ならば自分は、これからの未来社会を創建する起業家を支援しよう。そう自然と方向性も定まりました。

「水を綺麗にする人」を増やす為に2018年に”潜在意識アカデミー”を開校したところ、ベンチャー経営者や大企業の幹部、起業志望のビジネスマンの方にご参加いただき、とても素敵な時間を過ごすことができました。ひとり1人が根本から変容し、人生が変わっていく様を見れるのは、心から嬉しかったです。

潜在意識アカデミー 第2期生

ちょうど2020年4月にはコロナの影響でリアルな集合研修ができなくなり、飲食チェーンのクライアント企業は業績にダメージもあった為、年間の研修受注数も激減。そのピンチを乗り切るために、オンライン・コーチング事業の立ち上げと販売に注力したところ、夏頃から売り上げが伸び始め、研修事業の穴を埋めるほどになりました。

研修からコーチングへ、B2BからB2Cへと事業の軸足が移り変わるのを感じていた2021年1月末、友人の誘いでクラブハウス(CLUBHOUSE)を始めます。

共感と出逢いの連鎖

コロナ禍の1年弱、あまり新しい人と出会うチャンスがなかったのもあって『出会いたい欲求』が溜まっていたのか、すっかりクラブハウスにはまってしまい、いろんなRoomでの会話を楽しんで、ただただ遊んでいました。

その結果、開始2ヶ月でフォロワーが8,000人を超え、各業界のビジネスリーダー・経営者が支持してくださるおかげで、毎日のようにいろんなroomに招かれて話をするようになります。

10年前は見向きもされなかった「潜在意識」というテーマに、多くの方が関心を寄せていただき、私の半生にも興味を持っていただけ、声に自然と現れる心のうちを感じてくださるのがとても嬉しかったです。

そこで改めて自社&自己価値にも気づかされ、風の時代も迎えたことで2021年4月から社名をワンネス株式会社に変更しました。

2021年はクラハから126名の方が潜在意識アカデミーをご受講いただき、この年にスタートした「潜在意識コーチ養成講座」もこれまでに107名が受講されていて、毎年のように素敵な皆様とのご縁を紡がせて貰っています。

受講生とのお花見

2022年には「潜在意識の専門家」として渋谷クロスFMにゲストとして呼ばれ、チャンネル登録者が100万人を越える”なえなの”ちゃんの番組「リアルをぶつけろ!ハッシュタグZ(ABCラジオ)」に招かれ、美人百花のカウンセリング特集、MOSHのコーチ特集に掲載されるなど、メディア露出も増えてきました。
事業を始めた17年前は「潜在意識はスピリチュアルだから無理!」とマスコミに断られていたので、時代が変化してきたのを感じます。

生き方の中心軸が無意識にシフト

会社を経営して12年目になりますが、生き方も経営の仕方も「意識で考えて進める」よりは「無意識に従って進める」ように変化してきました。
一番のきっかけは、修業時代に何度か無我の境地や全我体験をしたこと(感覚)+禅問答を通じてワンネスをイメージできたこと(理解)です。

思考が静かになると人の発しているエネルギーや街の空気に含まれるエネルギーを感じるようになり、たまに集合無意識や宇宙からのメッセージを身体がキャッチするようになります。

無意識深くから湧いてくるメッセージに従って事業を立ち上げ、進めつつも、意識では「なんで今これをやってるんだろう?」というときもあります。その半年後の結果をみて「だから必要だったんだ!」と後から答え合わせがくることも。

宇宙の意思が私の身体を通して、ある役割を体現してるんだなぁと感じるシーンが多いので、今では(頭で考えて戦略を練って行動もしますが)もっと深いベースの部分は無意識の流れに身を任せて生きています。

そうでない道を歩んでるときは、ちゃんと邪魔され、破壊され、「あんたの道はそっちじゃないよ」のサインがきますが、魂に素直に生きてると思いがけない応援や奇跡がどんどん巡ってきます。

潜在意識に興味がある方の多くが「思い通りの人生を生きたい」と願ってらっしゃいますが、その秘訣は自分を空・ゼロにして、宇宙(集合無意識)とつながって生きること。
では、どうすれば自分を空にできるのか?その方法を10段階で整理するなら、1~7合目までは完成したかな、というのが現在地です。

実際の受講生の変化はHPに、どうやって変化するか?の手法は潜在意識アカデミーの無料動画で説明しています。

40名以上のお客様が、実名・顔出しで自己変容について語ってくれているので、これを読んで驚かれる方は多いです。

また、悟りを開く全我体験をされた方が受講生にいらして、「ロジカル潜在意識メソッドを使えば、自分が通った道を再現できる!」と喜んでいらっしゃいました。

私もまだまだ人間として学ぶべきこと、経験すべきことばかりですが、ここまでの道のりをひとつのメソッドに昇華してプレゼントしながら、人としての生を楽しんでいるところです。

今後のビジョン

私の人生の目的は、「人類意識の進化」に貢献することです。
特に”誰もが働きながら気づき、目覚めることのできる道”を作りたい。

すべての変化はまず自分からなので、潜在意識を学ぶ人が1,000人集まる場(潜在意識アカデミー)を整え、そのプラットフォームで多くの人が出逢い、交流し、新しい関係性が生まれるようにしたいと考えています。

次に「心の社会課題を解決するリーダー」を支援したいので、自社の利益でファンドをつくり、卒業生を中心とした起業家で”心の社会課題”と向き合う方に出資し、事業開発のプロデュースもしていきたい。

多くの人を世に出す上で、自分の知名度があった方が事業をしやすいので、これからメディア露出も増やして『ロジカルな潜在意識と言えば石山』と認識して貰うことも必要です。

いじめや不登校、家庭内別居やDV、介護虐待に鬱、自殺など、現代の社会課題の多くは「人の心」に起因しています。
潜在意識を理解して、人の心を救える方が増えれば、それだけ多くの摩擦、衝突、葛藤、紛争、戦争を減らせるはず。

そんな現代の社会課題に立ち向かう起業家やリーダーを支援しながら、「心の社会課題を次々に解決しているワンネス・グループ」をつくれたら、次は業界団体を立ち上げて、コーチ、カウンセラー、セラピストなどの雇用を増やすため、産業化する政策を提言していきたいと思います。

観光業×教育で「日本に長期滞在することで高い精神性を学べる」という国家ブランドになれば、日本人のコミュニケーションの取り方や在り方が教育コンテンツとして輸出できるようになります。(漫画、ゲームに次ぐ産業になりうる)

マズローの欲求5段階の「自己実現」を叶えた先にくる「自己超越欲求」、この欲を持った人が日本に集い、日本だけがその欲を叶えられる最初の国になるイメージがあります。

人に気づきを与えるアート、目覚めさせる文化・芸術を勃興し、この地球上で一番未来に近い国と呼ばれるように。

日本から世界へ向けて
・人として大切な在り方
・争いを生まないコミュニケーションの取り方
・先進国が進むべき国家の方向性
・地球文明が向かうべき進路
・未来技術の種
を発信していける状態にもってゆけたら。

200年掛かる道のりでも誰かが始めないとスタートしないので、まず足元の一歩としては、潜在意識のレベルまで内観を深め、自己受容と他者受容ができる人を増やすことで、心の平和が広がり、半径5mの水が綺麗になっていく状態をつくりたいと願っています。

いつか、どこかにある幸せを追い求めるのではなく、いまここにある幸せを自覚できる状態(ワンネス感覚)へシフトする人の数が増えれば、インターネットの普及で社会が変わったように、これからの社会の在りようも変わるはずだから。

さいごに

以上が、石山喜章という人間の生まれてから今までを(これでも簡潔にポイントだけまとめて)整理した内容となります。

描き切れなかった想いも結構ありますので、各章の詳細について、さらに突っ込んで話を聞いてみたい方は、今度お会いする際にでもご質問ください。

気が付いたら約2万字にも上る、小生の駄文に最後までお付き合い頂いて、本当にありがとうございました。


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