見出し画像

【アルギュストスの青い翅】第29話 光の中で君が教えてくれたこと

(なあ、ヴィー。肉体なんていうのは道具の一つにしか過ぎないってずっと思ってたよ。だから、ただただ強いだけの自分の肉体に、興味もなかったし嬉しくもなかったんだ。そんな体、なんの役に立つんだって、そう思ってたよ。君に会うまでは……)

 声に出して言うかどうかなんて関係なかった。ただ、俺の中にあふれてきた想いをすべて取り出して、世界に送り出したかった。この想いが月光の中に、アルギュストスの輝きの中に、俺たちを取り囲む水の中に溶け込んで、ずっとずっと残っていけばいいのにと思わずにはいられない。フィリオレーヌを片手に、真剣な顔で音を探り続けるヴィーを見ながら、俺は心の中で語りかけ続ける。

(肉体を使うことで、俺たちは進んでいける。考えなんかなくても、前に進めるんだ。皮肉だよな。ヴィーがしたかったことみんな、何もしたくない俺ができる……) 

 足があっても目的地がわからない者もいれば、行きたい先があるのに足を持たない者もいる。この世界は自分を弱者だと感じるものにとって、決して居心地のいい場所ではない。残酷で薄情で……これでもかと難問を投げつけてくる。現に俺は、歩いて行ける足も、それを動かし続けるための体力も持っていたのに、明後日の方向を向いて座ったままだった。

(ごめんなヴィー。こんな弱虫で……)

 出せるようになった音を、ヴィーが何度も何度も繰り返す。研ぎ澄まされた光のように硬質だったそれが、降り注ぐ月光のように柔らかくなっていく。そこには想い想われる幸せがあふれているように思えた。

 みんなヴィーのおかげだ。俺が今ここでこんな風に前を向いていられるのは、みんなヴィーが言ってくれたからだ。

『素敵な足があるならどんどん行きなよ。見てみないとわからないよ。ここで立ち止まって考える時間も悪くはないけど、僕らの知らないことの方がこの世界には多いんだ。だから知りに行かなくっちゃね』

 信念とか希望とか夢とか、まだまだ何もわからなくても、動き始めればきっと何かが見えてくる。つまらない意地や見えなんてなんの役にも立たない。そんなものより、頑丈なこの体を動かす方が何倍も何十倍も俺たちのためになる。
 ヴィーの足には今日も黒い布がかけられているけれど、ヴィーはもう、そのしなやかな心で世界の果てまで飛んでいった。そしてそれをさらに素敵なものにするために、今度は俺にその役割を託してくれたのだ。

 俺よりも小さくて華奢なその手で、俺の手を引いて立ち上がらせ、縮こまっていた背中を押してくれた。この足で歩いて行けるはずだと、「生きようよ」と言ってくれた。
 思えばじいさんもそうだ。生きることについて、ずっと俺に伝え続けてくれていた。俺ができることをやれと、俺の心が震えるようなことを見つけろと。俺は二人に心から感謝した。今度こそ自分の足で歩いていこう。この手で掴み取ろう、そう思えた。

(なあ、ヴィー。俺の旅は今、始まるんだよな?)

 別れの時間が迫っているのを感じる。また一人になってしまう。でももう俺は知っている。一人だけど一人じゃない。なにも怖いものなんてないのだ。寂しいだろうけれど、いつまでもこの時間を心の中で輝かせていたい、輝かせていてもらいたい。だから俺は、愛する物語以上に美しい存在を前に、最高に似合うだろう「贈る言葉」を取り出した。

「ヴィー! 俺、いいこと教えてもらったんだ。多分ヴィーも知らない。きっとびっくりするぞ。なにかって? フィリオレーヌの花言葉だよ。これがさ、信じられないくらい素敵なんだ」

 ヴィーがアルギュストスをまとわりつかせながら俺を見た。青い青い目だった。きっと俺の目も同じだけ青い。俺たちの南の海の色。俺はその青をそっと覗き込むようにして言った。

「花言葉は……『愛しい人よ、私を見つけて』だ」

 ヴィーの目がひときわ大きくなった。青いさざ波が立つみたいに潤んで揺れてなんだか泣きそうに見えた。けれどそれは一瞬で、すぐに幾重もの花びらを持つ大輪の花が開くかのように、ヴィーは笑った。それは、言葉に言い表すことなんて到底できない感情を俺の心の奥深くに生み出した。俺は……、その微笑みを絶対に忘れないだろう。

 俺のかき鳴らすルシーダの音の中に、ヴィーが出せるようになったフィリオレーヌの音がぽつぽつと混じる。演奏なんてものではない。だけどそれはなににも代えがたいハーモニーだった。どこまでも余韻があって、いつまでも身を委ねていたいような、そんな和音だった。
 胸がいっぱいだった俺は、黙ってルシーダを弾き続けた。けれどそんな俺の心を、ヴィーならきっと余すことなくわかってくれたはずだ。フィリオレーヌの優しい音が、俺にそれをそっと教えてくれているような気がした。

 その夜、俺たちは特に話をしなかった。ルシーダとフィリオレーヌの音を結びつけ、互いの微笑みを胸に焼きつけるが如く見つめ合って笑い合って、月とアルギュストス、二つの光の中で揺れて過ごした。

「俺、まだ舟は持ってないけど、そろそろ巡り合えるような気がするんだ」

 ヴィーの部屋を出る頃になって、唐突に口をついて出た。そんなことを言った自分に驚いたけれど、ヴィーが笑顔で頷いてくれたから、勇気づけられて続ける。

「迷いがあったり、行き先がわからなかったりすれば、舟だって出発はできないよな。俺、ようやく進めそうな気がするんだ」
「うん。Jならきっと、行くべき場所にたどり着けるよ。なんたってJは僕の特別だからね」
「ヴィー……。ヴィーだって俺の特別第一号だぞ! 栄えある第一号なんだからな!」

 もう特別という言葉が俺を苦しめることはない。それはどこまでも甘い響きと喜びを伴って、心を満たしていくばかりだ。
 ヴィーが静かに笑った。月光のような髪、青い瞳、俺の大好きな無垢でまっすぐな微笑み。月の精のような儚さではなくて、情熱が込められた温かい肉体があることを、今の俺はちゃんと知っている。



第30話に続く https://note.com/ccielblue18/n/n9e290dfaa002
第28話に戻る https://note.com/ccielblue18/n/n5039bdb4bb0b

第1話はこちら https://note.com/ccielblue18/n/nee437621f2a7



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?