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【アルギュストスの青い翅】第27話 君を包む青い時間

 その夜もヴィーは約束の時間にやってきた。何をするかは決めていない。フィリオレーヌを手に入れたことをどう切り出そうかと、近づく舟を見ていたら、舟が止まる前にヴィーが声をあげた。

「J! 今夜はうちにこない?」
「え? いいのか? 俺は全然いいけど」
「ああ、きてほしいんだ」
「喜んで!」

 俺はすっかり馴染んだヴィーの舟に乗り込む。ヴィーが静かにオールを動かせば、舟は滑るように運河を進み始めた。なんだか今日のヴィーはいつもと違って口数が少ない。小さなレースで縁取られた襟には、青いリボンが相変わらずきれいに結ばれている。

 そうそう、あのブーケはここにしまってあるんだ、と舟の脇にある隠しポケットの存在をヴィーが教えてくれた。もともと乾燥しているような銀の穂はあの夜の輝きをそのままに留めていた。二日しかたってはいないから当然かもしれないけれど俺はそれがなんとも言えず嬉しかった。俺たちの思い出が色褪せないことをその輝きが証明してくれているように感じたからだ。そしてそこに結ばれた青いリボンはやっぱり見事な彫刻のように美しかった。

「きれいな蝶結びだなあ」

 思わずこぼれた俺の言葉に、顔を上げたヴィーが声もなく笑う。

「毎日結んでるからね。Jだってできるでしょ?」
「ああ、そりゃな。でも、こんな風にうまくはいかない」

 俺は大げさに肩をすくめてみせた。

「大丈夫だよ。練習すればJならすぐにうまくなる。まあ、でもこれはちょっと特別なんだ。僕が編み出した結び方だよ。でもJには教えてあげる」

 そう言ってウインクするヴィーはようやく昨日までの朗らかさを取り戻したように見えた。俺の前でヴィーが遠くなったり近くなったりする。薄くなったり濃くなったりと言うか……。そんな風に感じて仕方がない。

 しばらく行くと運河が広くなった。旧地区の中でもとりわけ古い場所だ。かつては大型船も出たという場所。由緒ある豪奢な邸宅が並んでいるわけだが、今日はそれがいやに鮮やかに見えた。歴史的なというより、真新しいと言った方がしっくりくるような気さえする。月明かりの下で見たことがないからそんな風に思うのだろうか。そんなことをぼんやり考えているうちに、ヴィーの舟はその一つへと近寄って行く。

 運河に向かって大きなガラス張りの窓がある家。いつか見たような気がした。……いつか?  思い出そうと頭をひねっていたら、ヴィーが器用に、ガラス面の脇にあるカンテラの灯された黒塗りの扉を舳先で押した。
 するりと扉が持ち上がる。いよいよヴィーの部屋だ。すぐさま好奇心が頭をもたげ、くすぶっていた小さな疑問などあっという間に霧散した。

 入口右の壁際に大きな水車のようなものが見えた。引き込んだ運河の水を浄化するシステムだという説明に、ヴィーを始め、この部屋に関わった人たちの美意識というか情熱を感じさせられて唸る。
 俺はぐるりと首を回してまじまじと部屋を見た。高い天井、一面ガラス張りの窓。そこから降り注ぐ信じられないほどの光量にすべてが照らし出されて、それはもう圧巻としか言いようがなかった。

 俺たちが進んでいるのは広い部屋をほぼ占めるほどのプールのような場所だ。奥では水中からの階段が部屋の床へと続いている。横幅のある造形が月光に包まれ、古代神殿のような厳かさに満ちていた。
 両方の壁際には、湿原のものよりも若干小さめのロトが波打つような綺麗なラインで配置され、天井から流れてくる緩い風の中で優雅にその銀色の穂を揺らしている。湖とは趣が違うがこれはこれで美しく、とてもヴィーらしいと思った。
 そしてそんなロトの上、水車と反対側の白壁の上部に大きなアルギュストスのレリーフが浮かび上がっていて、とてつもなく幻想的だ。

 すべてが俺の想像を超えるもの。だけどなによりもすごいのはその空間の中に舞い踊るアルギュストスだ。それは二人で見た湖のものほどではなかったけれど、やはり目にも鮮やかな青で、その数はディカポーネの研究室にも匹敵するほどだった。いや、もしかしたらそれを上回っているかもしれない。
 その無数の翅に、部屋を満たす湖以上の月光量がさらなるきらめきを与えていた。俺は出会った夜のヴィーの呟きを思い出す。確かにこんなアルギュストスを知っていればあの驚きは当然だろう。けれどヴィーはあの儚げな色を優しい色だと言ってくれた。そんなヴィーに俺は改めて親愛の情を抱かずにはいられなかった。

 それにしても疑問だらけだ。このアルギュストスは連れてきたものなのか改良したものなのか。ロトは誰が、どこから? 聞きたいことは山ほどあったけれど、すぐに考えるのをやめた。
 俺が今すべきことはフィリオレーヌをヴィーに託すことだ。思ったあれこれはそのあと時間があれば聞けばいい。そう、時間があれば……。今は一秒でも長くヴィーの喜ぶ顔を見ていたい。

「ヴィー、すごい、想像以上だよ。こんなに幻想的だなんて……、本当に綺麗だな。ヴィーらしい、ヴィーの部屋なんだって感じるよ」

 どことなく不安そうなだったヴィーが、ようやくはにかんだ笑顔を見せた。

「ありがとう。嬉しいよ。なんたってJは初めてのお客さまだからね」

  俺は今日来れてよかったと心底思った。ヴィーはいつもと変わらないように振舞っているけれど、その言葉の端々から、鈍感な俺にだってわかるほど喜びがこぼれ出していた。ずっとこの日を待っていたのだろう。そんなヴィーの笑顔を見ていたらいつの間にか俺も笑顔になっていた。

 あっちにも座れるからとヴィーがプールの先を指さした。一番奥にクローゼットかなにかだろうか小さな扉があって、その手前に椅子やテーブルなどが置いてあるのが見えた。ゆったりとしつらえれたそれらはとても快適そうだったけれど俺は舟の中にいることを選んだ。
 毎夜の運河での語らいと同じように、ゆらゆらと水面を揺れながらヴィーの顔を見ていたかった。そうすべきなのだと、それが俺の求めているものなのだと、無性にそう思った。

 水と光の揺らめき、月とアルギュストスの輝きの中で、はるか遠い南の海の色を閉じ込めた瞳。ヴィー、青いヴィー。輝く青はどこまでも広がって、俺はその美しさの中で、ようやく歩き出した自分を噛み締めた。
 その一方で、まるでそばに大きな砂時計があって、その砂が滝のように流れ落ちていくような、そんな音なき音が気配が、俺に覆い被さるように迫っていたけれど、それに負けることなくヴィーとの時間に向き合う。

 カラカラと、かすかな音を立てる浄水機の水車。ちゃぷんちゃぷんと、ガラスにあたって跳ね返る水。アルギュストスのかすかな翅音さえも忘れないように。何度も何度も俺とヴィーのいる世界を心の中に重ねていく。こだまする多くの音の中で、ヴィーの声を聞き漏らすまいと集中する。世界中が叫んでいて、世界中が息を潜めている、そんな気がした。




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