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【アルギュストスの青い翅】第25話 美しき貴婦人への依頼 

 少しずつ少しずつ。必ず道は開ける。俺はいつになく前向きだった。こんなに一生懸命になにかをしようとするのは久しぶりのような気がした。

「と言うことは……、早い話、最強のなにかと言うことだな。そうなると……」

 じいさんが呟き、ぎしぎしと椅子が二三回鳴ったあと、部屋は静まり返った。

「え? じいさん?」

 俺は固く目をつぶったじいさんの横顔を凝視する。考えているのか、寝ているのか、じいさんは微動だにしない。もちろん応えも返ってこない。
 焦るものの案はなく、じいさんに頼るしかない。俺はじっとその時を待つ。どこかで時計の針が小さな音を刻み、明り採りの窓からの光に埃がきらきらと舞い踊った。今まさに奇跡が起きようかというほどに美しい光景だったが、残念ながら俺にはなにも感じられない。
 しかしじいさんが動く気配はない。これはもう、片っ端から掘り出すしかないかと思った時、じいさんが顔を上げた。

「あれだ!  お前さんのルシーダに貼ってある弦、あれと同じ素材ならいけるかもしれん!」
「そんなもので作られた楽器が? まじか、じいさん!」
「ああ。楽器の中でもとびきりの気高さを持つ逸品だぞ。フィリオレーヌ、最強であり、それゆえに最も孤独であると言われている楽器だ。条件が難し過ぎて、持ち主になかなか巡り会えない。それでも凛と強く生き続けている。まさに貴婦人中の貴婦人だ。その相手がもし本当にお前さんの友人なら……、これはすごいことになるな」

 とんでもなく奇想天外な話だ。けれどじいさんの話をじっくり聞いてフィリオレーヌの求める相手はまさしくヴィーだと感じた。似ているのだ。雰囲気というか在り方というか、とにかくこれ以上似ているものがあるだろうかと思うほどに、俺の心が反応した。
 それを口にすればじいさんが大きく頷く。曖昧な説明だったが、じいさんには伝わったようだ。

「多分お前さんの感は当たっているな。その子が持ち主だ。しかしこれは……途方もない駆け引きをせねばならんな。Jよ、頑張れ。彼をよおく思い浮かべて、ひたすら呼びかけろ。うまくいくかどうかまったくわからんが、とにかくとことんやるしかない。なにしろ相手はとびきりの貴婦人だからな」

 じいさんの言葉にひるみそうになった俺は、ヴィーの笑顔を思い出して気持ちを奮い起こす。相手が貴婦人なら、こっちは人魚の王子だ。俺は鼻息も荒く、部屋の隅に置かれた椅子に腰かけた。

(フィリオレーヌ、フィリオレーヌ! 頼む、応えてくれ!)

 しばらく必死で呼びかけるがまったく手応えはない。仕方がない、俺はヴィーじゃないのだから。だけど俺は誰よりもヴィーのことを伝えられる。あの綺麗な笑顔も、輝く髪も、自由でしなやかな心も、まっすぐで偽りのない感情も。とびきりの貴婦人に寄り添えるのはそんなヴィーだと断言できる。彼らは間違いなく同じ魂を持っている。なにかが俺にそう告げていた。

 じいさんを振り返ればいつの間にかまたうたた寝をしている。相変わらずの態度に、けれど呆れよりも安らぎを感じた。じいさんの口角が微かに上がっていて、なんだかいい夢でも見ているような表情に心が和む。
 さっき言っていた「あの人に出会った時」でも思い出しているのだろうか。それはじいさんにとってきっと幸せな時間なのだろうと思った。大きく息を吸い込んで再び集中する。

 ヴィーとの時間を思い返す。たったの三日間だ。それも一緒に過ごしたのは月がてっぺんをわずかに移動する数時間だけ。それでも俺たちは互いがずっと抱え込んでいた胸の内を吐き出して相手に委ねることができた。特別な相手だってことを見つけられたのだ。
 アルギュストスの輝く湿原で、遠い歴史を紐解き自分たちの存在を確認した俺たちは、生きる意味を知った。この世界に参加しているという自覚と喜び。そして大切に思う人と心を通わせること受け止め合うことが、なによりも大きな力だということ。

 ヴィー、俺の世界を行き先を、照らし出してくれる永遠に消えない灯りのようなヴィー。
 じいさんが教えてくれた悠久のものとのつながりを、俺は彼の中にも作りたいと思った。人は永遠ではない、誰もがいつかは時の流れの中に消える。だけどそんな俺たちを覚えていて、ずっと好きでいてくれるなにかを残すことができたら、いつかまた巡り会うときの目印になるのではないだろうか。
 
(目印って、俺、何を! またいつかって……、ああ、そうか、そうなんだな。俺はもうヴィーとは会えなくなる……)

 切なさがわき上がって胸が締めつけられる。ぐっと奥歯を噛み締めた。だからこそ迷わないように、見失わないように、またいつか出会えるように、見つけなくては!

 俺は必死で見えない貴婦人に呼びかけた。俺の脳裏をヴィーとの時間が再び駆け巡る。はるか遠い時の彼方の人魚の物語、ディカポーネの長い歴史、ヴィーの黒い舟、銀色のロトの穂、青いリボン、飛び交うアルギュストス、揺れて降り注ぐ月光、それから俺のルシーダ。
 思い出すもの思い出すものみんな、夢みたいな時間の中で輝いていた。嘘みたいに綺麗なものばっかりだった。
 夢……夢はやがて月が朝の中に溶けていくように消えてしまう。俺とヴィーの時間もそんな夢のように溶けてしまうのかもしれない。けれど、俺たちは消えない約束を心の奥深くに刻み合った。その美しさは温かさは、きっと永遠に色褪せない。

(なあ、ヴィー。出会いは別れを、別れは次の出会いを意味するんだよな。ぐるぐるとすべては回っていくんだよな)

 俺は大事な友人の綺麗な笑顔を思い浮かべる。ヴィーとの時間はもう戻ってこない。この先つながってもいかない。だけど俺はヴィーと出会ったことを後悔なんてしていないし、いつかどこかでまたなにかが結びつくと心の底から信じている。
 だからヴィーに届けたい。遠く離れてしまっても永遠に変わらないなにかを贈りたい。ヴィーが寂しくなっても辛くなっても、ヴィーの言葉に寄り添う音があればきっと笑っていてくれるはずだと思うのだ。綺麗な月夜とアルギュストスを、そして俺も一緒にいたことを、ヴィーにもずっと忘れずにいてもらいたい。
 
(そのためにもあなたの力が必要なんだ。あなたをヴィーのところに連れて行きたい。だからフィリオレーヌ、どうか応えてください!) 

 ヴィーの笑顔、それは俺が知っているこの世界で一番美しいもの、純粋なものだ。そしてそこにきっとフィリオレーヌが似合う。俺は必死で願い続けた。



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