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不仲の肉親が亡くなった。そのときどうしますか?:『兄の終い』村井理子著【試し読み】

親兄弟など肉親との関係に悩む人は多くいます。相手が他人ならば、関係を切り捨ててしまえばいい。しかし、容易に見離すことなどできないのが、肉親のやっかいさです。ましてや、昔のいい思い出なんてあれば、なおのこと。いまの不仲に対する罪悪感まで芽生えてしまって、つらい。

翻訳家でエッセイストの村井理子さんは、昨年、不仲だったお兄さんを亡くされました。突然の病死でした。村井さんのご両親は既に鬼籍に入っているため、弔い、役所での手続き、住処の始末などの数多の作業と、それらにまつわる物理的・金銭的な負担が、一気にのしかかることとなりました。

ポストカード(村井さん):兄の終い

腹が立つ。しかし、整理しないわけにはいかない。村井さんとお兄さんの元妻・加奈子ちゃんが、協力し合って兄を弔い、その身辺を片付けていく5日間の奮闘を描いたエッセイ作品が『兄の終い』(現在7刷)です。

その冒頭部分を抜粋いたします。


プロローグ 二〇一九年十月三十日水曜日


「夜分遅く大変申しわけありませんが、村井さんの携帯電話でしょうか?」と、まったく覚えのない、若い男性の声が聞こえてきた。戸惑いながらそうだと答えると、声の主は軽く咳払いをして呼吸を整え、ゆっくりと、そして静かに、「わたくし、宮城県警塩釜警察署刑事第一課の山下と申します。実は、お兄様のご遺体が本日午後、多賀城市内にて発見されました。今から少しお話をさせて頂きたいのですが、よろしいでしょうか?」と言った。

仕事を終え、そろそろ寝ようと考えていたところだった。

滅多に鳴らないiPhoneが鳴り、着信を知らせていた。滅多に鳴らないうえに、そのときすでに二十三時を回っていて、着信番号は〇二二からはじまるものだった。

〇二二? まったく覚えがない。こんな時間に連絡があるなんてよっぽどの用事だろう。わかってはいたものの、部屋を見回し、家族全員がいることを確認して、少し安心した。自分にとって、最悪なことは起きていない。

iPhoneが鳴ったことに気づいた夫がテレビのスイッチを切った。ただならぬ様子を察知した息子たちが、iPadから顔を上げてこちらをじっと見た。ペットの犬も息子たちにつられて首を持ち上げ、鼻を動かした。

「今日、ですか?」

「本日、十七時にご自宅で遺体となって発見されました。死亡推定時刻は十六時頃、第一発見者は同居していた小学生の息子さんです」

塩釜署の山下さんによると、兄はその日、多賀城市内のアパートの一室で死亡し、私の甥にあたる小学生の息子によって発見された。十五時頃、甥が学校から帰宅したときには異常がなかったが、ランドセルを置いて友達の家に遊びに出かけ、再び帰宅した十七時、寝室の畳の上で倒れていた。即死に近い状態だったという。

死亡時の年齢、五十四歳。


「息子さんが救急車を呼び、息子さんから連絡を受けた担任の先生が、警察が到着するまで息子さんと一緒にいてくださったという状況です。ご遺体は現在、隣の塩釜市にある、ここ塩釜署に安置されています。というのも、多賀城市には警察署がありませんので......。

それから、病院以外の場所でお亡くなりになりましたので、事件性の有無を捜査しなければならず、検案(※病院以外で発生した原因不明の死亡ケースで、監察医が死亡を確認し、死因や死亡時刻などを総合的に判断すること)が行われました。死因は脳出血の疑いです。お薬手帳を確認しましたが、持病がいくつかおありだったようですね。糖尿、心臓、高血圧の薬を飲んでいらっしゃいました。

それで......遠方にお住まいで大変だとは思いますが、ご遺体を引き取りに塩釜署にお越し頂きたいのです。あの、メモはございますか?」

そう言うと山下さんは、次々と電話番号を私に伝えはじめた。

兄が住んでいたアパートの大家さん、不動産管理会社、甥が通っていた小学校、そして甥の実母で、兄の前妻の加奈子ちゃん......。

呆然としてしまった。関西から東北に移動するのに、いったいどれぐらいの時間がかかるというのだろう。塩釜と突然言われても、イメージがまったく湧いてこない。

え、塩釜って、たしか宮城県でしょ? この人いま、釜石って言ってた?

そのうえ、週末には二日連続で大阪の書店でのトークイベントが控えていた。翌日早朝に自宅のある滋賀県から塩釜市に向かったとしても、二日後の金曜日には戻ってこなければならない。

塩釜市で遺体を引き取り、火葬し、隣の多賀城市にあるアパートを引き払うなんて大仕事が、たった二日でできるはずもない。

混乱しながらも、必死に訴えた。

「実は今週末に大事な仕事がありまして、すぐには行けないのです」と言いながら、実の兄が死んだというのに仕事で行けないっていうのも変な話だよなと思った。しかし同時に、もう死んでしまっているのに今から急いでもどうにもならないと考えた。

塩釜署の山下さんは、「突然のお話ですから当然だとは思います。それで、いちばん早くてどれぐらいで塩釜までお越し頂けます?」と答えた。

頭のなかでスケジュールをざっと確認した。

子どもたちの学習塾の予定、原稿の締め切り、家事、犬、そして何より書店でのイベントだ。

「いちばん早くて来週の火曜日、五日です」

「それでは五日まで塩釜署にてご遺体はお預かりします。ご自宅でお亡くなりになったということで、死体検案書という書類をお医者様に作成して頂いています。この書類は、お兄様の戸籍抹消と、埋葬や火葬のために必要な書類です。この作成費用が五万円から二十万円かかります。先生によってお値段が違いまして......いずれにせよ、ご遺体の引き渡しの際にこちらのお金がかかって参りますので、少し多めにご準備頂ければと思います」

死体検案書という言葉も初めて聞いたが、その値段が医師によってそんなにも幅があるとは驚いた。混乱しながらも、頭のなかではすでに金策がはじまっていた。じわじわと不安が広がるのがわかった。自分にとってはかなりの金額を短期間で用意する必要があることに気づいたからだった。

「それでは塩釜署でお待ちしております」と言いつつ、電話を切りそうになっている山下さんに慌てて質問した。

「兄の息子なんですが、今どうしているんですか?」

「息子さんは児童相談所が保護しています。明日以降、児童相談所からも連絡が行くと思いますのでよろしくお願いします」

そして山下さんが急に思い出した様子で、今度は私にこう聞いた。

「あ、こちらの葬儀屋さんとかご存じです?」


DAY ONE 宮城県塩釜市塩釜警察署


■「たった一人のお兄さんやろ?」

自宅の最寄り駅から京都行きの始発電車に乗り、ここ数日のできごとについて考えていた。「お兄様のご遺体が本日午後、多賀城市内にて発見されました」という、塩釜署の山下さんの言葉が、何度も脳内で再生された。その特徴的な東北訛りが耳にしっかりと残っていた。

山下さんは、遺体引き取り時に必ず持ってきて欲しいと、死体検案書について私に念を押していた。

「葬儀屋さんに、検案書の取得と代金の立て替えを依頼できるはずです。いちど確認してみてください。遠方からお越しですから時間を無駄にすることがないように、こちらも短時間でお引き渡しできるようすべての書類は準備しておきます」と、塩釜警察署に運び込まれる遺体の引き渡しに慣れているという葬儀社二社を教えてくれた。

つまり塩釜署は、一刻も早く私に遺体を引き渡したい。しかし、引き渡された私はいったいどうすればいいのか。

たった一人で塩釜に向かうだけでもハードルが高いのに、いきなり兄の遺体を引き渡されて、どうしろというのだ? 兄は身長が百八十センチほどの大柄な男だった。あんなに大きい男(それも遺体)、どうやって運ぶの? いきなり斎場? えっ、まさかの喪主?

山下さんは、「これから先、ご遺体の状態が悪くなることも予想されます。お兄様との対面ができない可能性もあります。その点、どうぞ、ご理解ください」と、申しわけなさそうに言った。

大きいうえに状態が悪いとか、本気で勘弁して欲しい。

塩釜署の山下さんとの電話を切った私は、完全にうろたえた。年老いた親戚の顔を次々と思い浮かべ、いったい誰が塩釜まで兄を見送りにやってくるのだと笑いたい気持ちになった。

父が死んで三十年、東京近郊に住む父方の親戚とはほとんど交流がない。母も五年前に他界し、母方の親戚とも滅多に連絡を交わさない。

兄が住んでいたアパートはどうなっているのだろう。塩釜署の山下さんによれば、部屋には警察がすでに立ち入り、大家さんも、不動産管理会社の担当者も駆けつけたという。児童相談所も、学校の先生も、甥の良一君に付き添い、当面の荷物を運び出すためにアパートまで来てくれたそうだ。

兄の最期の様子がどうだったのか、部屋はどうなっているのかなど、状況の詳細はほとんどわからなかった。唯一わかっていたのは、「汚れている」ということだった。山下さんの口調から、それ以上詳しいことは電話では言えないという雰囲気を察知していた。


とにかく、計画はこうだ。

遺体を引き取ったら、塩釜署から斎場に直行し、火葬する。一刻も早く、兄を持ち運べるサイズにしてしまおう。それから兄の住んでいたアパートを、どうにかして引き払う。これは業者さんに頼んで一気にやってもらう。

塩釜署の山下さんが教えてくれた葬儀社名を書いたメモを見ながら、混乱した頭のなかを整理していった。とにかく火葬までは急がなければならない。その先は後から考えればいい。徐々に肝が据わってきた。

いったい何が起きたのかと説明を待つ夫に、「兄ちゃんが死んだってさ」と言うと、さすがに驚いた様子だった。夫と兄は一歳しか年が離れていないのだ。

息子たちは、えっと驚いて、あのおじさんが? と困惑していた。

「いつかこんな日が来るとは思ってたけど、予想よりずいぶん早かったよね」と冷静に言う私に驚いた次男は、目を丸くしながら、「悲しいとかないの? たった一人のお兄さんやろ?」と言った。

私はその問いに答えることができなかった。


■元妻・加奈子ちゃん

翌日、塩釜署の山下さんに教えてもらった葬儀社に朝いちばんで連絡をした。

電話に出た女性に、兄の遺体が塩釜署にあるので火葬をしたいと説明すると、すぐに担当の男性と代わってくれた。男性は確かに慣れた様子だった。

「死体検案書のほうは、どちらの先生が担当されたかご存じですか?」

「高橋医院だと聞いています」

「高橋先生ですね! よかったぁ、いい先生なんですよ〜。それではこちらで検案書は頂いておきますので、そのまま塩釜署にお越しください。すべてご準備させて頂きます。どうぞお気をつけて」

五日正午、塩釜署前での待ち合わせがあっさり決まった。

次に私が連絡を取ったのは、兄の元妻で、兄を発見した甥の良一君の母である加奈子ちゃんだった。私が彼女に最後に会ったのは五年前で、私の母の葬儀のときだった。

「こんなことで連絡するなんて本当に残念なんだけど......」と言う私に、加奈子ちゃんは以前と変わらずハキハキとした声で、「本当にね」と答えた。

加奈子ちゃんは、兄よりは十歳以上年下だった。美しく、頭の回転がとても速い人だ。兄と離婚したのは七年前で、兄が故郷から宮城県に越してくる年のことだった。


「それで、良一君の様子は聞いた?」

「ある程度は聞きましたよ。元気だそうだけど、あまり話をしないって......」

「そりゃあね......。本当に申しわけないんだけど、私、塩釜に行けるの五日なんだよね」

「私も仕事あるし、良一に会おうと思ったら理子ちゃんが来てくれないと、いずれにせよ無理みたいで。あの人に親権があったから、良一に会うには、親類の立ち会いがいるみたいなんですよね。とにかく、私も塩釜署に行きますね」

兄と加奈子ちゃんが離婚したとき、上の子どもたちの親権を加奈子ちゃんが、そして末っ子の良一君の親権を兄が持った。その経緯について、私は詳細を聞いていなかった。しかし電話の声から、加奈子ちゃんが一刻も早く良一君を迎えに行きたい気持ちでいることは強く伝わってきたし、彼女の心情は痛いほど理解できた。

「とにかく、京都発の始発の新幹線に乗って塩釜に向かうから。塩釜署の前でお昼前ね」

「了解です。それじゃあ、気をつけて」

「ねえ、兄ちゃんの最期の様子、警察から聞いた?」

「いや、詳しくは......」

「脳出血だったらしい。かなり汚れているみたい」

「......」

加奈子ちゃんが塩釜署まで来てくれることがわかって、うれしかった。

兄とはすでに離婚している彼女が、兄の遺体の引き取りに立ち会う義理などこれっぽっちもない。それでも、そのときの私は、「斎場に直接来てくれればいいよ」と加奈子ちゃんに言ってあげることができなかった。誰かに、そこに一緒にいて欲しかったからだ。

次に連絡を取ったのは、良一君が保護されている児童相談所の担当職員の河村さんだった。調べてこちらから電話をかけた。

電話に出た女性に事情を説明すると、数分の保留ののち、河村さんが電話に出てきた。穏やかに、丁寧に話をする男性だった。

「お電話くださってありがとうございます」と河村さんは言うと、良一君の様子を教えてくれた。落ちついてはいるけれど、兄の話になると口をつぐんでしまうような状態だそうだ。

「葬儀の日程はお決まりでしょうか。できれば良一君を斎場までお連れして、お父さんと最後のお別れをさせてあげたいとは思っているのですが......」

そう言いつつも河村さんは、ただし、すべて良一君次第です、すべて本人の意志に任せますとくり返した。その河村さんの説明の仕方から、児童相談所に子どもが保護されることの意味合いを再認識した。

いくら私が良一君の親権を持っていた兄の唯一の妹であっても、良一君に自由に会うことはおろか、良一君の行動に直接関与することはできない。そして今のところ、葬儀に行くかどうか聞くと、黙り込んでしまう状況らしい。


「五日の午後には塩釜署から斎場に直行する予定です。詳細が決まりましたらまたお知らせしますので、どうぞ甥のことをよろしくお願いいたします」と告げて、私は電話を切った。

甥に関しては、かなり幼い姿しか記憶にない。いったいどんな少年に育っているのだろう。

次に連絡をしたのは、父方の叔母(父の妹)だった。偶然にも、兄の亡くなる数ヶ月前に数年ぶりに連絡を取っていたのだ。そのきっかけを作ったのは、実は兄だった。

「この前、叔母さんに連絡したら、ガン無視されたぜ」というメッセージが届いたのは、夏の終わりのことだった。金の無心でもしたのだろうと思って、「借金を頼まれると思ってびっくりしたんじゃないの」と短く返信した。

「ハハハ、その通りだよ。俺なんて、天涯孤独だね。誰にも頼ることができないよ」と悪びれるでもなく返してきた兄には、そのまま返信をしなかった。

私はすぐに叔母にメールを書いた。

「兄が迷惑をかけたみたいですね。いつもすいません。仕事で東京に行くときがあるので、ぜひ会いましょう」

叔母はすぐに返事をくれ、「会えるのを楽しみにしてるよ」と書いてくれていた。

兄の死を伝えると、叔母はとても驚いた様子だった。

兄は、母方の親戚よりは、父方の親戚と親しかった。兄が職を転々としていた頃、兄を心配した叔母の家に居候していたこともある。

長年小学校教師として勤めてきた叔母は、明朗で、面倒見のいい人だ。正しさと常識を重んじる言動や生き方は、わが一族のなかでは変わり種で、いかにもベテラン教師といった雰囲気だった。私はそんな叔母が昔から好きで、あのときは久しぶりに連絡を取れたことに喜んでいた。

叔母は私の話を聞くと、「あたしも行くよ、塩釜まで。あの子に会いに」と言った。涙声だった。

(続きは本書で)

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