車輪でボールを追いかけて 2
かのこさんのサイクルサッカー日記
【2018年 5月】
話は今より1年半ほど遡る。過去の話に、もう少しだけお付き合いいただきたい。
その日、とある大学の体育館で私はサイクルサッカーの試合を眺めていた。
どういうわけか、パートナーのNが試合の開催を嗅ぎ付けて「一緒に見に行こう」と言い出したのである。あまり興味はないけど、眺めるくらいなら……そう思って、同行した。
空調のない体育館は暑く、私たち以外の観客は関係者がほぼ全てだった。
思ったよりもずっと重そうなボールが、勢いよくゴールのネットを揺らすのを眺めながら、ただただ圧倒されていた。
車輪で扱いやすいように、重く弾まない構造のボール。
自転車のハンドルは縦につかめるよう、ツノのように上に向かって伸びている。サドルはフレームの上ではなく後方−ーー後輪の上方にママチャリの荷台のように設置されていた。
1対1のギア、クランクも固定されているので、ペダルを踏んだ方向に進むようになっている。つまり、いわゆるピストバイクのようにバック走行が可能だということ。
試合が終わり、手の空いた選手の方がその自転車の説明をしてくれた。
「乗ってみませんか?」
そう言われて振り返ると、Nは既にその自転車に跨っていた。
「じゃあ、少し。」
「はじめは僕が押さえておきます。サドルに体重をかけると、後ろにひっくり返るので、立ち漕ぎみたいな感じで乗ってください。乗れないのが割と普通です。」
「は?」
乗れないのが普通……?
ペダルに足をかけ、立ち上がるような姿勢をとる。
ガッチリとハンドルとフレームを支えられたまま「そのまま漕いでみてください」と言われて足を動かす。
「え。無理。」
笑いながら降りると、彼はもう一度「乗れないのが普通なんですけど…」と私を振り返った。
視線の先でNがぐるぐると走り回っている……。
「ご主人さん、何か、競技やってたりします?BMXとか。」
「BMXはないけど、自転車は乗ってますよ。ロードバイクとか。」
「僕たち、もともと文化部で、みんな大学からサイクルサッカーを始めて、乗れるようになるまで数週間かかったんですけど……」
「みんな文化部だったの?」
「大体は。そもそも高校までにこういう競技をやってるところがないんで、現状は新入生に経験者っていうものが存在しないんです。全員乗れないところからスタートなんで、今まで文化部で運動してこなかった人も始めやすいですよね。」
「あー。経験者がいないから、どう頑張ってもレギュラー取れないみたいな障壁もないし。」
きっと、出来ないっていう劣等感が存在し難い。
部員は意外にも女子が多かった。
自転車の機材に全く興味がない彼女たちは、タイヤの嵌ったホイールを丸ごとチューブラーと呼んでいた。(※1)
クランクもBBもステムもシートポストも……今まで自転車を趣味とする方達と使う言葉がほとんど通じなかった。
「機材も部の物を共用で使っています。上手くなって世界戦狙えるようになったら買う奴もいますけど。」
「世界戦?」
「競技人口が少ないから、上手くなれば狙えます。まあ、社会人チームが強すぎるんですけど。」
運動経験があってもなくても、みんな未経験スタート。
機材は共有だから、消耗品以外の出費が少ない。
大学で始める部活としては、確かに手を出しやすい。
「社会人チームはどこにあるんですか?」
「関東だと、立川です。」
「他は?」
「大学だと、関西にいくつか。」
「ありがとう。」
視界の隅で、シュートの練習をする選手たち。何かの衝撃で折れたスポークをむしり取って、そのまま使い続ける。
彼らにとって、自転車はサッカーの道具であって、サイクルサッカーに興味はあっても自転車そのものに興味がある人はほぼ居ないということに気づく。
彼らは体育館の中を出ることがない、サイクリストが体育館に出向くことはない。
双方がその面白さに触れる機会はない。
なるほど。未知の競技なわけである。
この時はまだ、試合が観れる機会があるのなら、これは面白いかもしれない…くらいに思って居た。
そもそも私の住まいから社会人チームの拠点である立川までは車で2〜3時間は掛かる。電車では乗り継ぎが悪く、体育館は駅から離れて行き難い場所だ。
まさか、その体育館に通うことになるなんて、この時は微塵も想像していなかった。
※1
一般に自転車や自動車の車輪部分は、細かい金属パーツ(稀にカーボンパーツ)の集合体である“ホイール”とゴム製品でできた“タイヤ”の組み合わせで出来ている為、チューブラーと言った場合はタイヤそのものを指す。
チューブラーとは”タイヤ”と”チューブ”が一体になり、尚且つホイールのリム部分に貼り付けて使うタイプのもので、一部のスポーツバイクに使用されている。一般にママチャリや完成車の形で売っているスポーツバイクのタイヤは“クリンチャータイヤ”にチューブを入れたものが使用されている。