ー11ー いわゆる「出会い系アプリ」
出会い系アプリで出会う男性にはよく翻弄された。沢山の人とあっては身体を重ね、虚無感を感じた。会う約束の当日の日に連絡がつかなくなりバックれられることも少なくない。
会ったら「写真と実物が全然違う!」なんて人も殆どだった。でも、1人好きになれるかなと思う男性に会ったんだ。航空関係で働いている人だった。(以下彼の事をAと呼ぶ)
Aとは夜通し電話をしたり、私の生育歴を。自身の少し深い部分を話せる、受け止めてくれるような人だった。何回か会い自宅にも招き入れ、シニガン(フィリピン料理)を振る舞った。Aは「美味しい。」と言ってくれた。次に会う約束もした。
でもそれは叶うことは無かった。誰も予想だにしていなかった“コロナ”が猛威を振るい、約束の日は彼が仕事になってしまった。Aはコロナの対応に追われ忙しかったようだ。次第に電話できなくなりLINEのやり取りのみになっていき、それも返信がくる間隔がどんどん空いていった。
5日間ほど返信が来なかったときは「え、もしかしてブロックされた?」なんてメッセージを送り、「してないよ、もう少ししたら一旦落ち着きそうやから待っててな。」と返ってきた。
そんな間隔の空いたLINEでのやり取りが何回かあり、気付くと4月になっていた。2週間ほど音沙汰のなかったAから突然LINEがきた。「本当にすまん。3年の期限付きで海外赴任になった。」と。それだけ、たったの3行。
私はLINEがきた時にたまたま携帯を見ていたので直ぐにメッセージに気付いた。Aに電話を掛けた。しかし繋がらなかった。LINEにメッセージを残したが既読はつかなかった。そんな状態が1週間ほど続き、私は不信感を抱きつつメッセージを更に送った。「本当は電話で伝えたかったんだけど、繋がらないのでメッセージで伝えます。私は海外赴任のことを聞いても、“じゃあ別の男性を探します”とはならなかったよ。ちゃんとAのことを好きになりたいなって思っているんだよ。ずっと、ずっと待ってたんだよ。」と。
それにも既読はつかず、電話も繋がらず、その状態が2ヶ月以上続いた。何か駄目だったんだろうな、諦めた方が良いのかな。と思いつつしばらく他愛のない会話のやり取りのあったトークルームは暫く消す事が出来なかった。
こんなに傷つくことをあと何回繰り返せば、私は素敵な男性と出会えるのだろう?と思った。コロナのこともあり男性と会うのは控え、とにかく仕事に打ち込んだ。というより、打ち込まざるを得ない状況だった。
子どもたちの通っている学校や幼稚園が休みになったことで、その対応に追われとても忙しくなったからだ。新社会人の後輩も入った為、毎日がとても慌ただしかった。
その頃の私は37.5℃まではいかずとも37.2℃の微熱が2週間ほど続いていた。それでも子どもにとっては家である職場には行かねばならない。1度検温して37.7℃の数字がでて出勤停止となった。突然の1週間の休暇となった。
その休み明け直後の宿直はとても出勤することが辛かった。家で泣き出すくらいに。それでも土日であった為管理職はおらず、もうやるしかなかった。
子どもと関わる時、否が応でも“テンション”という言葉で表すと90%くらいには自分のテンションを上げないと子どもと関わることはできない。
コロナで子どもたちもストレスが溜まっており、フルパワーでぶつかってくる子どもたちが8人いるのだから。私はテンションを無理矢理にでも上げることが辛かった。しかし強制的に上げ、何とか乗り切るしかなかった。
社会人3年目の私はとにかく仕事に明けくれた。仕事量も当然増え、自分の視野が広がったことにより、さらに目を配ることが多かった。加えて後輩に指導することも度々あった。
私は2年目の後輩に対して内心イライラしていた。2年目だった時の自分と今の後輩を比較してしまうのだ。後輩の仕事ぶりは自分が2年目の時と比較すると全く追いついてきていない。それを比較しては許せない自分も嫌だった。
チームとして子ども見ている現場である為、仕事が遅れると最終的に被害を被るのは子どもなのだ。だから、後輩の仕事が遅いと私や先輩で進めたり先回りしてやることが多かった。それを「ありがとうございます。」とお礼を言い状況を把握していない楽観的な後輩が憎かった。その分こちらの仕事が増えるのだから。
そしてコロナ禍。いつもの業務に加えてやるべきことも増えた。子どもの健康管理、清掃や消毒。毎日外にも行けず閉鎖された空間の中で8人の子どもと対峙するのに疲れは溜まる一方で、私はヘトヘトだった。
恐らくどの職場・職員でもそうであろう。幼い子どもは何故なのかも分からず、余計ストレスであったと思う。
私は職員が異動したことにより担当する子どもが増えた。その子は唯一私が入職する前から施設に入所している子で、これまで一緒に過ごしてきていた。だからこそ、その子を担当するにあたりどう関わったら良いかとても悩んだ。
ある日、私は宿直明けの日。会議が行われる際、別室に向かう際にドアが開け放してあった。子どもが空いているドアに向かう所に気付いた私は止めようと走った。今思うと突拍子なく走った。
結果、私は滑ってそのドアに膝を思い切り打ちつけ、その時の痛みが1週間経っても引かず、許可を貰い通院した。労災認定をしてもらい2ヶ月ほどリハビリを行った。きっと夜勤明けと精神安定剤などの副作用で頭が回っていなかったのであろう。
また、ある休みの日には母より連絡があった。どうやら精神病院に入院している兄が自ら窓にぶつかりに行き、窓を割ったことにより腕を2針縫ったそうだ。病院の方より母へ連絡と説明があったようだが、母は何を言っているのか分からない、と。通訳として代わりに内容を聞いてほしい、とのことだった。
私は病院に電話し、事情を説明し母の代わりに説明を受けた。どうやら割った窓の弁償と、その出来事により病棟をより厳しい方へ移すこと、移すにあたり法的な措置を取るため、保護者の同意が必要であることを聞いた。私はそれを母にも分かるように噛み砕いて説明をした。
その後、母は兄のことばかりグチグチと私に話してきた。私がどう過ごしているかなんて一切触れてはこなかった。
何も。私いまお兄ちゃんと同じような、一歩手前の薬飲んでるんだよ、眠れない日があるんだよ、仕事が大変なんだよ、膝も強打してリハビリしてるんだよ。
何も私から言えなかった。言わなかった。言いたくない?“心配かけさせたくない”なんてそんな綺麗なものじゃなくて、もっとどす黒いような感じ。グチグチと私に対しても言ってきそうな予感がして母には言いたくなかった。