清洲橋



今は建造物としての重要文化財である清洲橋を、小中学生の9年間、渡り続けて通学した。
関東大震災の震災復興事業として架けられたことなどは知る由もなく、徒歩であったり自転車であったり、また、秋葉原⇔葛西橋(現在の葛西橋ではない)間の都バスに乗ったりと、数え切れないほどの往復を繰り返した。
当時は高度経済成長の真っ只中で、隅田川の流れは黒く澱み、上流の工場から垂れ流された汚染水などのせいか、時にはかすかな悪臭さえ漂っていた。


橋の東詰の堤防(現在のものではない)横には大きな木造の「だるま船」が一艘か二艘、かなりの頻度で係留されていて、船倉上部には帆布?らしきシートが一面に掛けられていた。
いや、この部分の記憶は曖昧で、数十枚の板で塞がれていたのかも知れない。
船尾は居住スペースになっているらしく、家族四人の姿があった。
母親らしき女性は甲板の狭い場所に七輪を出し、鍋で何やら煮焚きをしていた。
夫婦と子供二人。
まだ小学校低学年の私と同じくらいのオカッパ頭の女の子、下は男の子だった。
その二人が、梯子で船倉を出入りしているのを見て、(ああ、この船で暮らしているんだな)と思った。
彼らに見つからぬよう、私は欄干の隙間から、少しの間、眺めていた。
他人様の暮らしを見下ろす行為は、はなはだしく不遜であると、子供心に持っていたからだろう。
見下(みお)ろすだけであって、決して見下(みくだ)していたわけではない。
それどころか、彼らを羨ましくも思った。

子供ならではの無邪気で無分別の浅い思考だった。
この船で暮らしているのなら、親の仕事がある時は学校に行くこともなく、隅田川をポンポン船に曳航されて、さぞ毎日が楽しかろうと想像し、こちらは出された今日の宿題をどう簡単に済ませようかと憂鬱になったものだ。
当時は船に乗ったことなどなかったし、狭そうな居住スペースも何となく秘密基地めいていて楽しそうで、何より、自分より広い世界を知っているのだろうというのが憧れの理由のすべてだった。
年を経て、いわゆる「水上生活者」が差別の対象になっていることを知った。
同時に、水上学校なる施設が陸上に存在することも知った。

だが、艀で暮らし、誰憚ることのない立派な仕事としての沖仲士や、その家族たちが、なぜ差別されるのかわからなかった。
部落差別も同様で、人として産まれた根源的な意義を否定する一部の人たちに対し、嫌悪感と同時に、人の愚かさも覚えた。
肌や宗教やイデオロギーや出自や容姿や収入などの比較により、人は己の優越性を痛切に欲する。
裏を返せば、それは劣等感そのものの実態であり、天に唾する行為や思考に他ならない。
つくづく、人間とは寂しくも悩ましい生き物だと思わずにはいられない。

書きたいことは山ほどあるが、この話題には深入りせず、方向を転換する。
次は西詰のことを記してみたい。

やはり年が長じてから知ったのだが、西詰のすぐ北側の川沿いには、かつて中洲病院があった。
永井荷風ゆかりの病院で、荷風の主治医である大石貞夫医師が、大正八年に、日本橋から移転して来たものだ。
荷風は幾度となく中洲へ通院した。
大石医師の専門は産婦人科なので、荷風が通いつめた理由は花柳病の治療だった。
二人は、医者と患者以上の親しい関係でもあった。
親しくなった友人が、たまたま医者だったと言い換えるべきか。
昭和初期のことである。


ちなみに、大石医師は俳句も漢詩もたしなみ、文人としての一面も持っている。
大石の俳号は「不鳴」という。
「ふめい」は「なかず」であり、「中洲」からの援用であることも簡単にわかる仕掛けだ。
医者であり、また洒落人でもあり、荷風の友人の面目躍如といったところだろう。

それらも、私が荷風に耽溺し始めた二十代になって知ったことで、小中学生の頃の私には、まったく関心のないことだった。
だから記憶もあやふやで、もう病院はとうに廃業した後だったが、ずいぶん古い建物(五階建だったか)が残っているな、くらいの、おぼろな印象でしかない。
もちろん現在はマンションに建て替わっている。
それでも中洲の料亭の数軒はまだ健在だったし、黒板塀の前には人力車や高級乗用車が停まっていたことも覚えている。
中洲が大きく変貌したのは、箱崎川が埋め立てられて浜町と陸続きになり、その上に首都高が造られたからだ。
景観は、幼い頃のマンガなどで見た未来都市の一部分のようになったが、わずかに残っていた江戸趣味的な情緒の中洲は完全に消えた。

昭和七年になると、荷風は血清反応検査を受けるべく、青山脳病院の斉藤茂吉の元へ出掛けている。
昭和を代表する両巨頭の対面なのだが、断腸亭日乗の11月11日の記載は、次のようにさり気ない。

曇りて風なし。朝十時頃青山南町の病院に斎藤博士(名茂吉号不詳)を訪ふて治を請ふ。過日採血の結果を示さる。

中略(診断書の写し)

これに由って見るに、去昭和三年五月大石博士の診察にてその時は血清検査をなすに及ばず直に駆黴の注射をなしたる事ありしが、今日より思返せば実に無益の事なりしなり。


大石先生の大誤診が明らかになり、荷風は、安堵とともに、不思議な感覚に襲われたことだろう。
それでも主治医としての存在に変わりはなく、大石博士との交流や診察は続いている。

続いているということでは、女性遍歴が多い荷風の日記、昭和11年1月30日の記載は興味深い。
我々読者には、荷風の怒りがあまりに愉快なので、以下、書き写してみる。

晴れて風烈し。去冬召使ひたる下女政江西洋洗濯屋朝日新聞その他自分用にて購ひたる酒屋のものなどその勘定を支払はず行方不明となりしため朝の中(うち)より台処へ勘定を取りに来るもの三、四人あり。その中呉服屋もあり。政江といふ女がわが家に殆二ケ月ほどゐたりしが暇取りて去る時余に向ひては定めの給料以外別にゆすりがましき事を言はず、水仕事に用ゆるゴムの手袋と白き割烹着とを忘れ行きしほどなれば、金銭の慾なく唯しだらしなく怠惰なる女なるが如し。貸したものも催促せぬ代り借りたものも忘れて返さぬといふやうな万事無責任なる行をなすものは女のみならず智識ある男子にも随分多く見る所なり。西洋人には少く支那人にも少く、これは日本人特徴の一ツなるべし。三四十年来の事を回想して手切金を取らずに去りし女まづこの政江一人なるべし。つれづれなるあまり余が帰朝以来馴染を重ねたる女を左に列挙すべし。

一  鈴木かつ
二  蔵田よし
三  吉野こう
四  内田八重
五  米田みよ
六  中村ふさ
八  野中直
七  今村栄

十三 関根うた
麹町富士見町川岸家抱鈴龍、昭和二年九月壱千円にて身受、飯倉八幡町に囲ひ置きたる後昭和三年四月頃より富士見町にて待合幾代といふ店を出させやりたり、昭和六年手を切る、日記に詳なればここにしるさず、実父上野桜木町ゝ会事務員

十二 清元秀梅
十一 白鳩銀子
十五 黒沢きみ
十六 渡辺美代

この外臨時のもの挙ぐるに遑(いとま)あらず、

九  大竹とみ
十  古田ひさ
十四 山路さん子


針小棒大的な罵詈雑言を吐き出した荷風、下女の政江(羽生まさ)への憤懣がどれほどのものだったかわかる。
その後に関係を持った女性の名を書き連ねているので、政江とも割りない仲だったことが想像される。
しかし、こうしていずれは発表されるかも知れぬ愛人の一覧表を出すところを見ると、荷風は粘着気質だったと考えていい。
悪趣味である。

名前の後に、それぞれの経緯なども書かれてあるが、関根うた(歌)の分だけを抜粋した。
歌さんは、荷風の生涯でも飛び抜けて特別な存在だった。

(昭和二年)九月十七日
夜お歌と神田を歩み遂にその家に宿す。お歌二十一になれりといふ。容貌十人並とは言ひがたし。十五、六の時身を沈めたりとの事なれど如何なる故にや世の悪風にはさして染まざる所あり。新聞雑誌などはあまり読まず、活動写真も好まず、針仕事拭掃除に精を出し終日襷をはづす事なし。昔より下町の女によく見らるる世帯持の上手なる女なるが如し。余既に老いたれば今は囲者置くべき必要もさしてはなかりしかど、当人頻(しきり)に芸者をやめたき旨懇願する故、前借の金もわづか五百円に満たざるほどなるを幸ひ返済してやりしなり。カッフェーの女給仕人と芸者とを比較するに芸者の方がまだしもその心掛まじめなるものあり。如何なる理由にや同じ泥水稼業なれど、両者の差別はこれを譬(たと)ふれば新派の壮士役者と歌舞伎役者との如きものなるべし。

(昭和三年)二月五日
薄暮お歌夕餉の惣菜を携へ来ること毎夜の如し。この女芸者せしものには似ず正直にて深切(しんせつ)なり。去年の秋より余つらつらその性行を視るに心より満足して余に事(つか)へむとするものの如し。女といふものは実に不思議なるものなり。お歌年はまだ二十を二ッ三ッ越したる若き身にてありながら、年五十になりてしかも平生病み勝ちなる余をたよりになし、更に悲しむ様子もなくいつも機嫌よく笑うて日を送れり。むかしはかくの如き妾気質(めかけかたぎ)の女も珍しき事にてはあらざりしならむ。


ここから内容は突然に飛躍を始め、お歌さんこそが唯一無二の大和撫子であるかのような、荷風独特の女性観が表出されていく。

されど近世に至り反抗思想の普及してより、東京と称する民権主義の都会に、かくの如きむかし風なる女のなほ残存せるは実に意想外の事なり。絶えてなくして僅にあるものといふべし。余かつて遊びざかりの頃、若き女の年寄りたる旦那一人を後生大事に浮気一つせずおとなしく暮しゐるを見る時は、これ利欲のために二度とはなき青春の月日を無駄にして惜しむ事を知らざる馬鹿な女なりと、甚しくこれを卑しみたり。然れども今日にいたりてよくよく思へば一概にさうとも言ひがたき所あるが如し。かかる女は生来気心弱く意地張り少く、人中に出でてさまざまなる辛き目を見むよりは生涯かげの身にてよければ情深き人をたよりて唯安らかに穏なる日を送らむことを望むなり。生れながらにして進取の精神なく奮闘の意気なく自然に忍辱の悟りを開きゐるなり。これ文化の爛熟せる国ならでは見られぬものなり。されば西洋にても紐育(ニューヨーク)市俄古(シカゴ)あたりにはかくの如き女は絶えて少く、巴里(パリ)にありてはしばしばこれを見るべし。余既に老境に及び芸術上の野心も全く消え失せし折柄、かつはまたわが国現代の婦人の文学政治などに熱中して身をあやまる者多きを見、心ひそかに慨歎する折柄、ここに偶然かくの如き可憐なる女に行会ひしは誠に老後の幸福といふべし。人生の行路につかれ果てたる夕ふと巡礼の女の歌うたふ声に無限の安慰と哀愁とを覚えたるが如き心地にもたとふべし。

荷風先生、お歌さんにぞっこんである。
罵詈雑言ばかりが目立つ日記の中でも、特筆すべき称えようだ。
この描写通りの女性ならば、男は誰でもお歌さんに心を持って行かれてしまう。
しかし、お歌さん賛美のために、欧米の女性まで繰り出して対比させるとは、荷風先生も少々筆が走り過ぎたか。
「わが国現代の婦人の文学政治などに熱中して身をあやまる者多き」
とは、おそらく平塚らいてうや市川房枝、与謝野晶子などが念頭にあったものと推測する。
お歌さんは貞淑な良妻賢母的女性ではあるが、荷風にとっては「都合の良い女性」だった。

お歌さんは「川岸家」お抱えで、店での源氏名は「鈴龍」といった。
その彼女を身受けして妾にし、荷風は「幾代」という待合を開かせた。
待合もピンからキリまであるが、この「幾代」はキリの方だったようだ。
要するに連れ込み宿のようなもので、荷風は隣室が覗けるように細工して息をひそめ、カップルの交合を飽きもせずに見物していたらしい。

お歌さんは、あの阿部定とも知り合いだったと、何かの本で読んだことがある。
荷風より30歳ほど若いお歌さんは、荷風よりも長生きし、「日陰の女の五年間」という一文を昭和34年の「婦人公論」に寄稿して、半ば暴露的な思い出を綴っている。
(この本を古書市などでずっと探し続けているのだが、どうしても見つからない)

荷風には昭和9年に発表した「深川の散歩」という珠玉の小品がある。
散歩の折には、このような文章を手本に、肩を張らずに昭和の残像を書き遺したいものだ。

最後になるが、やはり子供のころ、テレビでエノケンの映画を放映していて、そこに、ペンキ職人に扮したエノケンが、清洲橋の塗り替えをやっていた場面を覚えている。
もちろんテレビは白黒だったが、当時、私が毎日通い続けた橋の色はグレーだったように記憶している。
記憶は記録装置ではないから、何かの思い込みが変質したのかも知れない。

最後に、荷風先生の日記を再度調べてみたら、昭和10年12月27日に次の一節を見つけた。

下女政江を捕へて俱(とも)に入浴す

とあった。
政江が荷風宅から消えたのが、年が改まった一ヶ月後。
荷風先生、やはりやることはやっていたのだ。
政江が後ろ足で砂をかけるように出奔した気持ちがよくわかる。
俯瞰すれば、そんな一面も荷風の真実であり、また、文化勲章受章や日本芸術院会員も大荷風の一面である。


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