隅田川と木母寺
2012年9月6日の日記から転記。
伊勢物語を読んでいて、いつも気に掛かるのが東下りの部分で、いつか訪れてみたいと思っていた。
近くまで来たので、わずか数時間ではあるが、少しだけ探訪しようと白鬚橋西詰に立った。
明治通りは交通量も多く、周辺には高いビルが建ち、首都高が護岸に沿って延び、かつての景観を損ねている。
かつてとはもちろん架橋された昭和初期のことで、低層の木造住宅しかなかった当時を想像すれば、ずいぶん立派な橋を造ったものだと感心する。
この橋は大正の初めに木造で架橋されたものの関東大震災で損壊し、隅田川に架かる他の橋同様、震災復興事業として現在のアーチ橋になった。
上流から汐入の渡し、水神の渡し、橋場の渡し、白鬚の渡しがあったはずだが、まったく予習をして来なかったせいで、どの辺りにどの渡しが行き交っていたのか、皆目わからない。
ただ、汐入の渡しは鐘ヶ淵紡績株式会社へ通う女工さんたちが多く利用した渡船で、「鬼に鐘紡」ともいわれ、明治期から輸出などで国家経済を支えた近代大企業のうたかたと同じように、いまはどこを探しても、その残像すら見つけることはできない。
鐘紡はカネボウと名前を変え、現在は化粧品部門だけが花王の傘下に吸収されているようだ。
伊勢物語の作者は不明。
ただ、紫式部も触れているから、平安初期に成立した物語であって、もちろん世界最古の源氏物語よりも古い。
それだけに当然原本は遺されてはおらず、物語は時代を重ねるにしたがって次第に誇張され、脚色され、成立当初よりも変質しているであろうことは容易に想像できる。
ただし、原形は文章のどこかに必ず保たれているはずだから、東下りの条を信じて古代の平安初期を思う。
伊勢物語の作者は誰なのだろう。
一般的には紀貫之とされているが、在原業平との説もある。
ここからはあくまで想像でしかないが、美男と伝えられる業平には、実はこの地を訪れる機会があったと推察できる根拠がある。
業平は平成天皇の孫であり、また、桓武天皇の皇女、伊都内親王を母とする貴種である。
右衛門中将、相模権守、美濃守などの要職を歴任している。
平成天皇の皇子、阿呆親王の五男であったから、一般的には「在五中将」とも呼ばれている。
美男であれば、当然モテる。
二条帝の皇后である高子が、入内する直前のこと、業平と高子は相思相愛の仲であったという。(多分ゴシップ)
いずれ天皇の妃になる女性と割りない仲になるのは、もちろんご法度である。
人目を忍んで逢瀬を重ねていたが、やがて高子の兄、国経の知るところとなった。
業平は京を離れて奈良あたりまで逃亡したが、やがて見つかり、国経に髪を切られてしまう。
そんな姿で都に留まることはできない。
仕方なく、髪が伸びるまではと、業平は東国へ歌枕を探す旅に出る。
目的地は陸奥の八十島、現在の塩釜である。
僻遠の地へ向かうルートの入口が、この隅田川付近だった。
伊勢物語の終盤に、有名な「すみだ河」の一節を見ることができる。
猶ゆきゆきて武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。その河のほとりにむれゐて思ひやれば、限りなくとほくも来にけるかなとわびあへるに、渡守、はや舟に乗れ、日も暮れぬといふに、乗りて渡らんとするに、皆人物わびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さるをりしも白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水のうへに遊びつつ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、皆人見知らず。渡守に問ひければ、これなん宮こどりといふをききて、
名にし負はばいざ事とはむ宮こ鳥
わが思う人はありやなしやと
とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり
「宮こ鳥」はおそらくユリカモメ。
僻遠の地、それもこれから尚、遠路陸奥までの道のりを思えば、心細さも増したことと思われる。
業平が伊勢物語の作者である根拠は薄いものの、糸口はこれしかない。
いや、はるか古代のことで、当時から残存し、信用できる文献も他には皆無なので、これで決定させるのが妥当というところか。
紀貫之や、歌人の伊勢の名前なども上がるものの、どこをどう調べても回答らしきものに行き当たらない。
伊勢は業平の妻だったという説もあるようだが、伊勢は藤原継蔭の娘であって、これは荒唐無稽の思いつきでしかないと断言できる。
東詰からは逆光になる。
しかし「髭」ではなく「鬚」の字を当てていることに注目したい。
無粋な護岸の壁と、騒音が頭上から降る道を川沿いに進むと、隅田川神社に着く。
その名の通り、隅田川の総鎮守の社である。
祀られているのは当然、水神であり、水神社、浮島神社とも呼ばれていたらしい。
らしいというのは、水害でもこの周辺だけは埋没せず、遠くからでも社が浮いて見えたことに由来するようだ。
しかしすぐ背後に首都高が高く、地表の高低差は実感できない。
浮島の近くには奥州街道の宿場町である隅田千軒宿という町並があって賑わったというが、さて、どの時代なのか。
おそらく、時代は下って、中世や戦国以前のことなのだろう。
その証明というほどでもないが、商いの合い間や農閑期を利用して半日を遊ぶ、いわゆる景勝の地として有名になる。
もちろん川沿いに駕籠で訪れたり、隅田川を舟でさかのぼってのことで、神社に詣で、夏ならば川風に着物の懐を開いて涼を入れ、しばし暑さを忘れ過ごしたのであろう。
当時の奥州街道の入口はすでに千住に移されていたから、江戸や近郊の人にとっては純粋な観光地であり、格好の行楽地であったはずだ。
しかし隅田堤が出来て隅堤通りが造られると浮島は次第に寂れ、観光地としての役割は下流域の浅草や向島へ譲ることになる。
その延長に現在があり、いまは隅田川神社を訪れる人も極端に少なくなって、往時の幽𨗉の光景や繁栄を偲ぶ縁もない。
隅田の川波を見ることは叶わず、これも時代の為せるうたかたでしかない。
隅田川神社は頼朝と縁が深い。
三万の軍勢が嵐による増水で立ち往生したものの、この水神に祈願すると風雨はたちまち止んで水位は下がり、軍勢は無事に対岸へ渡り、鎌倉へ戻ることができたという。
新田義貞を出すまでもなく、このような伝承は日本全国にあるが、頼朝は以後、社殿を造営し、篤く敬った。
寄進のために、神社のすぐ下流に橋を架けたところ、大亀に乗った水神が現れ、人々は吉兆と喜び、以後「頼朝橋」と呼んだという。
道灌も同様に橋を架け、人々はまた「道灌橋」と名付けて喜んだ。
しかし、これは白鬚橋とは違う。
当時の技術と木造の橋では、そう長くは持ちこたえられられなかったろうし、川が増水したり、激しい風雨に見舞われれば、ひとたまりもなかっただろうことは明らかだ。
橋とは名ばかりの、舟を連ねただけの簡易架橋だった可能性の方が大きい。
江戸時代には、やや寂れていたといっても、江戸市中では各町で講を作り訪れ、水神としてそれなりの役割は担っていたらしく、信仰の対象としての参詣は続いていた。
隅田川神社を後に、すぐ近くの木母寺へ向かう。
こちらも初めて訪れる寺。
木母寺は謡曲などの梅若伝説であまりにも有名だが、東京に生まれ育ちながら、このエリアだけは空白地帯で、ただ馬齢を重ねていたことに恥じ入る。
もちろん天台宗のお寺であることも初めて知ったし、戦災で焼け、この地へ移転したことも知らずにいた。
伽藍はすべてコンクリートで再建され、三層の塔(納骨堂か)も新しい。
明治新政府による廃仏毀釈の嵐によって一時期、寺は神社になり、またその嵐が過ぎ去ると寺に戻るなどの変遷を経て、現在に至っている。
お参りを済ませ、先ずは目的の梅若塚だ。
奇蹟的に戦火から焼け残り、拝殿でもある念仏堂は、中尊寺の金色堂のように四囲をガラスで保護された覆堂に納まっている。
想像とは違い、小さなお堂だ。
背後には白鬚地区の防災団地群が、まるで城壁のように連なっている。
移転はおそらく、このために余儀なくされたのだろう。
梅若堂の説明があったので書き写してみる。
このお堂は明治の廃仏で一時梅若神社とされた梅若塚が再び仏式に復帰した年、すなわち明治廿二年の建立になります。
当時一帯が全焼した昭和廿年四月の戦災にも焼失を免れた唯一の仏堂ですが、その後の空襲で受けた爆弾々片による痕跡が所々に見られます。
防災拠点内であるため木造建造物の存置は許可されず、覆堂内に納められることになりました。
伊勢物語から連綿と続く由緒を求める歴史探訪の散歩としては、いささかもの足りないが、仕方ない。
金色堂と違って空調設備もなさそうなので、心配なのは堂自体の劣化だ。
念仏堂内部。
伎芸天女などの仏像は一切無し。
それでも伎芸天女は謡曲「隅田川」や歌舞伎などの関係なのだろう、芸事にも御利益があるようだ。
他にも文芸の関係でいえば、近松の浄瑠璃「雙生(ふたご)隅田川」、馬琴の「隅田川梅柳新書」、山東京伝の「隅田梅若詣」、常盤津の「両顔月姿絵(ふたおもてつきのすがたえ)」、長唄の「八重霞賎機帯」など、枚挙にいとまがない。
これらすべてのネタ元は「梅若権現御縁起」からのアレンジだ。
さて、これが肝心の梅若塚。
場所は移転されて現在の場所に鎮座しているが、この下に梅若が眠っている(と想像してみよう)。
伊勢物語によって、梅若伝説の原形が誕生した。
稚児伝説は各地に存在しているし、そのプロトタイプというべき伝承がこの梅若伝説に収斂されているといってもいいだろう。
昔から人買いは横行し、誘拐や人身売買はどこにでもあった。
特に子供が珍重された時代は長く続き、権力者は稚児を溺愛した。
大伴家持には久寿麿、平教経には菊王丸、足利義満には藤若(世阿弥)、信長には森蘭丸と、いくらでも男色の関係は思い浮かぶ。
記録に残っている男色趣味は中国から始まり、漢の武帝は李延年を、唐の蘇東坡をと、やはり男児を溺愛し、己の恣にしている。
中国に限ったことではないが、女犯の戒に縛られた僧侶たちの欲望のはけ口は、自ずと稚児へ向かい、弱い立場の子供を姦することになる。
梅若塚の横に、その沿革が記されている。
ここで謡曲の「隅田川」に触れて置かなければならないだろう。
近代劇にも似たこの作品は、かつて高校の教科書に載る頻度が一番高かった。
この作品は狂女物の演目の中でも、唯一、悲劇で終わる物語である。
シテは女、ワキは船頭である。
他の登場人物はワキツレの舟客、そして梅若役の子方。
これで登場人物が出揃った。
子方の子供は、「山」という、竹を編み、布で覆い隠した作り物の大籠の中に入り、クライマックスのみだけのための出番を隠れて待つ。
大籠の上には柳の枝葉が葺いてある。
いよいよ「隅田川」の開演だ。
武蔵の国、隅田川の畔で大念仏が行われる春の日のこと、僧侶や在家衆が続々と集まって、念仏を唱和している。
西岸では、舟を往復させるべく、船頭が乗舟客を待っている。
そこへ、見るからに常人とは異なる女がやって来る。
やつれ果て、その振る舞いや眼は狂女のようでもある。
ただし、身なりだけはどことなく都ぶりの雅な姿で、船頭は不思議に思う。
女は言い、船頭はそれに応えて言う。
こうしてシテとワキのやり取りが始まる。
なうなう我をも舟に乗せて賜はり候へ
おことハ何處より何方へ下る人ぞ
これハ都より人を尋ねて下る者にて候
都の人と云ひ狂人と云ひ、面白う狂うて見せ候へ、狂はずハこの舟にハ乗せまじいぞ
うたてやな、隅田川の渡守ならば、日も暮れぬ舟に乗れとこそ承るべけれ。
形の如くも都乃者を舟に乗るなと承るハ隅田川の渡守とも覚えぬ事な宣ひそよ
げにげに都の人とて名にし負ひたる優しさよ
なうその言葉ハ此方も耳に留るものを、かの業平もこの渡りにて、名にし負はゞ、いざ言問はん都鳥、我が思ふ人ハありやなしや
ここで狂って見せたら舟に乗せてやろう、とワキの船頭はシテの女に告げ、一方、女は伊勢物語の一節を出し、反論ともつかぬ懇願をして舟を出すべく訴える。
物語は三部に分けられるが、最初の見せ場である。
やっと舟に乗った女が川の中ほどまで来ると、対岸の柳の木の下に大勢の人が集まり、大念仏を唱えているのを見る。
いったい何をしているのかと船頭に尋ねると、船頭は仔細を告げる。
「一年前の今日、陸奥へ向かう人買いが都から十二、三歳の子供を連れてこの岸に下りた。ところが子供は旅の疲れでもう一歩も歩けず、岸辺に倒れた。それと見ると人買いはその子供を打ち捨てて去ってしまった。近くの村人が介抱したものの、子供は自らの出自を告げ、そのまま息を引き取ってしまった」
このあたりは江戸名所図会に詳しい。
稚児の名は梅若といい、吉田少将惟房の子で、母の名は花御前。
梅若が死に、そこへ偶然通りかかったのが下総の国の僧侶、忠円阿闍梨。
忠円は塚を築き、梅若いまわの際の遺言に従って塚に柳の木を植え、その地に留まって供養を続けつつ、道場を開いたことになっている。
花御前は、それが稚児の一周忌を供養する法要大念仏なのだと知ると、塚に駆け寄り、大いに嘆きつつ念仏を唱和する。
すると気のせいか、唱名の中から梅若の声が聞えた。
いま一度、梅若の声を聞かせたまえと、ひたすら南無阿弥陀仏を唱えれば、今度は梅若本人が幻のように現れる。
「あれは我が子か」
「母にてましますか」
互いに手を取り交わす。
しかし、
また消え消えとなり行けば、いよいよ思ひハ眞澄鏡。面影も幻も見えつ隠れつする程に東雲の空もほのぼのと明け行けば、跡絶えて、我が子と見えしハ塚乃上の草茫々として、たゞ標ばかりの浅茅が原となるこそ哀れなりけれ。なるこそ哀れなりけれ
こうして、四番目狂女物の能、「隅田川」は終わる。
繰り返すが、能の中でも狂女物の演目が悲劇で終わるのは稀有のことだ。
反対側から出ると、こちらが寺の正面だった。
太田道灌が五石、家康が二十石を与え、二十五石の所領を安堵されたと、どこかで読んだ記憶があるのだが、調べてみると、すべて家康が与えた石高らしい。
木母寺の起源は、僧忠円が念仏堂を建てたことからだが、寺名はそれまで「梅若寺」だった。
家康が鷹狩りの途中に立ち寄った折に「梅柳山」の山号を与え、その後、京から下った前関白の近衛信尹が「木母寺」に改めたという。
梅若寺のままでも良さそうなものだが、木と母を合わせると「栂」になり、古来から栂は梅の意としても用いられていたので、それほど気に懸ける理由もなかったのだろう。
やがて一茶も訪れ、一句詠んでいる。
木母寺の鉦の真似してなく水鶏
廃仏毀釈によって寺名は一時的に「梅若寺」に戻されたものの、約二十年後には「木母寺」が復活している。
木母寺を出て、水神大橋で隅田川を渡る。
水神を祀る隅田川神社からの命名だろう。
水神の渡しがあったのは、この辺りか。
この隅田川の「すみだ」には、古来からさまざまな当て字が使われている。
万葉集は「角太」、吾妻鏡では「墨田」、正保政国図では「須田」との表記が散見できる。
角も須も、ともに洲のことであり、普段は穏やかな流れのところどころに中洲が現れたのだろう。
隅田川右岸を白鬚橋方向へ下り、上流に遠ざかった水神大橋を遠望する。
対岸には白鬚防災拠点の団地が並列し、かつての水神の森を偲ぶ縁の手掛かりはどこにもない。
ここで能の「隅田川」を思い出していた。
謡曲や能楽鑑賞を趣味としていた以前のように、また古典芸能に耽溺したいものだ。
もう二十年以上も前のこと。
終演間際に子方が現れ、観る者の涙を誘う。
数多ある能の演目の中でも、大傑作の部類に入る作品だろう。
作者は世阿弥の子である元雅。
父の絶対的唯一の後継者であり、父をも超える力量の持ち主だった。
その元雅に全幅の信頼を置いていた世阿弥が、この作品にだけ限ってクレームをつけた。
元雅作ではなく、実は世阿弥作とも囁かれる所以である。
「最後に、亡霊の子方を出す必要はない」
この世阿弥の主張に元雅は珍しく反発し、一歩も譲らなかったという。
シテの母は登場するものの、一番の主役は梅若だからだ。
(現在は子方の姿を見せず、「山」の作り物の中から声だけ聞かせる演出もある)
ここで、能特有の「幽玄」さをどう表現させるかの問題が浮かび上がる。
どう解釈しても構わないのだが、私は世阿弥を支持したい。
子方が登場しては、物語がどうしても生臭くなる。
幽玄は能の代名詞でもあるが、同時に能は余情や余韻、そして省略の芸術でもある。
子方を出さずとも、シテの所作で充分にカバー出来るのではないか。
「秘すれば花」である。
そう思いながら、しばし目の前の隅田川を眺めていた。
参考文献
1 伊勢物語(大津有一著 岩波文庫)
2 隅田川 廿七-四(観世左近訂正著作者 観世流大成版)
3 考証 江戸を歩く(稲垣史生著 河出文庫)
附記
帰ってから参考に読んだ本には、まさに義満と藤若(世阿弥)の関係が載っており、以下の記述がありました。
『人間として、変質的な愛欲は肉体のこの上ない苦痛だった。あの行為を思うと鳥肌が立った。義満からの寵愛には、その忌まわしい影が常につきまとった』
私は根っからのヒネクレ者ですから、本を読んでもテレビのドキュメンタリー番組を観ても、そのまま鵜呑みにはせず、本当はどこかに何かのバイアスがかかっていて、もっと他の見方やアプローチ方法があるのではと考えてしまいます。
記録に残っているだけでも正室二人、側室十人を囲っていた義満が片時も藤若を傍から離さずにいることなどは不可能ですし、将軍職にあれば、まつりごとに割かれる時間も長く、多忙だったに違いありません。
ならば伊勢物語の作者探しはあきらめ、この部分を強調してみよう、これが今回探訪した動機です。
義満が北山文化を開花させた功績は認めつつも、二人の出合いは義満18歳、藤若12歳の時で、藤若が今熊野神社での申楽を披露した折のことでした。
義満の寵愛と庇護は終生変わらなかったものの、世阿弥はやがて「乞食の所業」といわれた庶民芸能の申楽を「能楽」として芸術にまで昇華させた、いわば天賦の才能を持った人物です。
やがて嫡男の元雅ももうけていますし、これは常識的に考えて、もし義満の嫉妬心があれば、果たして二人は鳥肌が立つほど忌まわしい関係だったのかとの疑問が、今回の文章を書かせるきっかけになりました。
もちろん一般論でいえば、参考にした本の著者の考察が正しいのでしょう。
長々と失礼しました。