撫子は好きですか
2011年6月8日
花屋さんで切り花を選んでいたら、今年初めて撫子を見つけた。
撫子は大好きな花。
もうそんな季節なのかと、これは私の感慨。
色取りどりの花を集め、墓参に向かった。
さてしかし、兄は何の花が好きだったか、とんと記憶にない。
今日は兄の十三回忌。
早いのか遅いのか分からぬまま今日を迎えたが、やはり早いのだろうなと思う。
それだけ、さまざまなことがあったということ。
しかし、あの日、あの時の記憶は鮮明だ。
夜11時頃、仕事で車を走らせていた。
甥から携帯に連絡が来た。
「親父がヤバいらしくて、今から病院へ行くんだけど…」
「そうか」
「すぐ来れる?」
「無理だな、あと3時間はかかる」
「もう少し早く来れない?」
「なるべく急ぐ」
「どうしよう…」
「早く行け!」
「うん」
「あ、それから、○○さんと△△に連絡しろ、こっちは□□に連絡するから」
「分かった、いま連絡してみる」
「バカ、何のための携帯だ、病院へ向かいながらにしろ」
自分の父親が危篤ということで、激しく動揺していることが分かる。
ぐずぐずするなと喝を入れて、連絡を終えた。
日付けが7日から8日に替わった。
途中で投げ出せない仕事を急ぎに急いで終わらせ、病院に駆け付けたのが午前1時半。
30分の差で間に合わなかった。
看護師さんが、1時間以上も心臓マッサージを続けてくれていたという。
もう別世界へ旅立とうとする兄は、規則正しいそのマッサージのたびに、断末魔のようなうめき声を上げていたらしい。
甥は、私が到着するまで続けて欲しいと、看護師さんに懇願していたようだ。
しかし、苦しそうな兄を見続けることに耐えられず、義姉は、
「もう結構です、ありがとうございました…」
と決断し、細い声で告げた。
交替でマッサージを続けていた看護師さんは、汗びっしょりだった。
そしてすぐに死亡が確認された。
ノックももどかしく病室のドアを開けると、魂が抜けたような表情の義姉と甥たち家族だけがいた。
兄の顔には白布が掛けられている。
それをめくると、兄が、見慣れた寝顔で現れた。
二日前まで、点滴のスタンドをゴロゴロ鳴らしながら車椅子で院内の喫茶室に向かい、共にコーヒーを飲んだ。
兄は煙草も美味そうに吸っていた。
「オレは死ぬまで煙草をやめるつもりはない」
さすがに前日は1本も吸わなかったが、ほぼ公言通りになった。
長男の袖を引き、部屋を出た。
そして最期の様子を詳しく聞いた。
夜8時頃から、しゃっくりが止まらず、兄は担当医に何かの注射を要求した。
そして間もなく、意識が混濁し始め、危篤状態になったという。
私は間に合わなかったが、家族はその最期をしっかりと見届けた。
甥は何度も、私が来るまでは続けて貰いたいと、自分の父親に苦痛を強いたが、それは酷というものだ。
私の兄は苦しみから解放された。
注射直後からの急変云々は言わない。
どう足掻いても避けられない日が来たのだ、それが今日だったのだと考えることにした。
一時は余命一ヶ月と宣告されながら、2年半を生きた。
その間、何度も、
「オレはもう覚悟を決めている」
と、表面では涼しそうな顔をして、日々を消化していた。
兄はやっと楽になった、それで充分だ。
残念に思うのはただひとつ、
「白神山地に行ってみたいな」
の願いを叶えてあげられなかったことくらいか。
肺がん。
この病の最期は、激痛との闘いだ。
しかし兄は、一度たりとも「痛い」とは口にしなかった。
担当医は、
「かなりの激痛を伴っているはずです」
と繰り返し言っていたが、私はもちろん、家族の誰もが痛みを訴える場面を知らない。
医師や看護師に訊ねても、それは同じだった。
家族を含めて、誰にも、自分の弱さを見せなかった。
私の親友のように、正直に「痛い」と連呼しながら逝く人もいる。
その方が、よほど人間らしい姿だと思うのだが、兄は自分が決めた美学を最期まで貫き通して逝った。
「男」を演じていたにしろ、あの生き方は、誰もが真似できるものではない。
この時までの10年間、私は母を始めとして、身内も含めて、近しい人を12人も失った。
我が人生で、最悪の10年だった。
それだけに、悔しいが、死の瞬間から葬儀を終えるまでの、すべての段取りや流れが頭に入ってしまっている。
急いで葬儀の予定を組み、内科病棟の婦長さんと夜勤の看護師さん数人が無言で頭を下げる中、早朝に、兄を帰宅させた。
通夜には、一晩中、兄が好きだったパッフェルベルのカノンを流し続けた。
その通夜も本葬も、梅雨らしい霧雨が終日、大地を濡らし続けていた。
斎場の片隅に薄紫のアジサイが群れ、咲いていたことを覚えている。
私の友人たちも、大切な仕事を休んで、遠方から駆け付けてくれた。
親友は、兄の骨も拾ってくれた。
友情とは、このような時にこそ使う言葉なのだろう。
世を無常と思えば、執着や悔恨も、その意味が無くなるはずだった。
それでも、十三回忌を迎えても、どこかに意味や意義は存在している。
結局、人生の壁は、時間の壁と同義語なのだろう。
撫子を見ながら、ふと、そう思った。
「撫子は好きか?」
そんな会話など一度もなかった。
しかし、私の中で、抒情の代名詞的存在だった撫子の花に、兄も微笑んでくれたと信じている。
朝の霧雨が止み、午後からは蒸し暑い一日だった。
「疲れた」
と、帰宅して弱音を吐きながら、この日記を綴っている。
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