怒る人々
2017.9.10
墓参を終えて、後は帰京するだけと思うと、10日以上も旅を続けたせいか、ほぼ遊びで来たのに解放感で気が緩む。
昼にはまだ早いので、小牧辺りまで一般道を行こうと考えた。
その心は…。
昨日のタッチパネルを、どこかでもう一度体験してみたい。
ベッドの中で復習し、脳内ではもうすっかり習熟したので、また実践してさらに腕を磨くのだ。
場所や店名は明らかに出来ぬが、しばらく走ると早速回転寿司屋さんを見つけたので、迷わず入店した。
番号札を渡されて所定の席に座るシステムとは意外だったけれど、座ってしまえばもう慣れたもので、粉茶の分量も、これが適正と思われるくらいに入れた。
昨日のお店より料金がかなりお安いのは、きっと私が知らないだけで、中部地区では名の知れたチェーン店なのか、競合店が多いからなのか、そんな理由かと思われる。
「こいつムカつくっ!」
隣から声がした。
さりげなくチラ見すると、30歳前後と思われる女性二人組。
スマホを見ながらの会話で、どうやらLI NEをしながらの食事のようだ。
何を怒っているのかわからぬが、LI NEの返信に対しての発言らしいことはわかった。
同じ「ながら」でも、新聞を読みながら、家でのお父さんの朝食風景は驚かないけれど、スマホ見ながらの回転寿司も、今の時代を象徴する光景ではある。
ムカつくのは女性の勝手だし、他人様のことだからとやかく言うつもりはない。
それでも、根っから口の悪い私でも、未だかつて「ムカつく」と口にしたことはない。
「ちょっと違うなあ」とか「愉快じゃない」の表現で済ませているように思う。
ほぼ同世代の人からも「ムカつく」は、一度も聞かない。
どうも、この「ムカつく」表現使用は、30代くらいが境界線ではないかと想像する。
本人たちにすれば、それほどキツい感覚で使ってはいないようにも思われ、しかし我々世代は本当に怒っているように受け取ってしまうのだ。
だからもし「ムカつく」と面と向かって言われたら落ち込むだろうし、相手によっては一触即発状態になっても不思議ではないジェネレーションギャップである。
「ちょっと面白くない」とかの表現の代用だとは思うが、歌は世に連れ、世は歌に連れられるように、本来の意味の日本語も、こうして世に連れられてカスタマイズされ、日常語として定着してゆくのだろう。
私の世代は近い将来に絶滅するのだから、「ムカつく」や「ぶっちゃけ」や「真逆」などがマジョリティになろうと、関与することではない。
諦観でもなし、達観でもなし、考えてもわからぬから、わからぬことは考えぬがよろしかろう。
お寿司は2皿だけで会計を済ませた。
生アジと中トロ。
値段相応というにはあまりにもお粗末なネタだった。
現代社会では誰かを踏み台にする資本主義の基本原理があって、おそらく私は踏み台だったのだろうと店を出た。
すると駐車場にこの軽自動車。
横目で見ながらシートベルトを締めようとしていたら、私より上の世代と思われるご夫婦が乗り込んだ。
団塊世代だって怒っているんだね。
それを口ではなく、身を以って表現している。
この世代の怒りは学生運動の洗礼を受けたせいか、社会や政治に批判的な人たちに多く、おそらく某政党支持者ではないかと勝手に推測した。
それぞれ表現の自由を有する権利があり、憲法で保証されているのだから、結果や成果はさて置いても、表現の自由はちゃんと保護されている眼前の事象にのみ安堵する。
それにしても、愛知県の人って、いつも何かしらに怒っているのだろうか。
劉暁波氏が亡くなったのは、本当に残念だった。
残念のひと言だけで済まされる問題ではないが、身勝手で自己中心の私は日本でのほほんと暮らしている。
時間を短縮したいので、やや遅い昼食はフードコートで済ませる。
SAでの食事はお店が限られるので、選択の幅が狭まる。
焼津といえばマグロ。
でも、今回はあちらこちらでマグロを食べたからもういい。
セルフで食事をしていると、近くに今度は20代半ばくらいの女性二人組。
ムカついてはいないようだが、とにかく声が大きい。
大きいことが良かったのは我々世代までと思っていたのに、まだその風潮は続いているようだ。
何を食べているのかわからぬが、
「これデカっ」
「お前の口がデカいんだよ」
「でもうまい」
「うまい」は男性限定の言葉との古い固定観念があって、なぜ「美味しい」と言えないのだろうと、いつもちょっとだけ違和感を覚える。
(私は「美味しい」オンリーで「うまい」は使わない)
横には私と同世代くらいの夫婦がいて、無表情ながら二人をチラ見して顔を見合わせている。
おそらく私と同じ印象を持ったのだろう。
それでも視線を戻すと、後は何事もなかったように、時折、静かな会話をしながら食事をしている。
度量の狭い私は、こんな光景に出くわすたびに日々小さく絶望しているのだが、大人だなあと思う。
私とて何事もなかったような顔で、「大量虐殺」の文字を思い浮かべながら平然とシラスを食べ、大人の振りをしているが、こういう世の中なのだと自分に言い聞かせている。
男女同権は、きっと言葉にまで及んでいるのだ。
○○だわ、○○かしら、などの、いわゆる女性言葉とされている日本語は、我々世代以上の女性か、女装しているタレントでしか聞かれなくなったような気がする。
それぞれが「自分の言葉」でしゃべるのは肯定しよう。
それが個々のアイデンティティにもなる。
アイデンティティといえば、最近よくテレビでお目にかかる女流俳人は、意識して「○○だろ」や「ふざけんなよ」や「思ってるんならやれよ」と、毒舌のキャラクター(キャラと省略するのが定着してしまったようだが勘弁して欲しい)を作っているのが透けて見えて無残だが、それはそれで彼女が生きて行くために選択した大人の事情なのだろう。
叱られ慣れしていない中高年には新鮮らしく、そこに正しい日本語を生業にすべき文学者の新たな戦略が見える。
愛媛出身と聞いたが、江戸弁らしき言葉遣いを駆使しての伝法な口利きには、明らかな作為が見える。
それでも彼女の句は瑞々しく端麗である。
見事、という他はないし、俳句の裾野が拡がることは喜ばしい。
と、物分かりの良い大人を装ってSAを出た。
富士山が見えて来ると、すでに帰宅した気分になる。
疲れていないと言えば嘘になるが、苦笑も諦観も自身を疲労させることに気づいた。
人間の弱さを嗤って肯定するのは優しさの裏返しであって、私もずいぶん厭味な男になっちまったなと思う。
こんな私にムカつく人も多いのだろうな。
こうして旅は終ったのです。
お付き合いありがとうございました。